1月24日説教「新しいぶどう酒は、新しい革袋に」

2021年1月24日(日) 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:イザヤ書58章3~10章

    ルカによる福音書5章33~39節

説教題:「新しいぶどう酒は、新しい革袋に」

 主イエスは徴税人レビに目をおとめになり、彼を弟子としてお招きになりました。人々から罪びととか守銭奴、売国奴と呼ばれ、だれからも相手にされなかった徴税人レビは、主イエスによって、信仰者レビに変えられました。弟子のレビに変えられました。自分の欲望のために生きていたレビ、この世の権力者に仕えていたレビは、今や神の国の王であられる主イエスにお仕えし、主イエスのために生きる人へと変えられました。レビは主イエスの救いに招かれた恵みに対する感謝のしるしとして、主イエスと弟子たち、また徴税人仲間や罪びとと呼ばれていた人たちをも招いて盛大な宴会を催しました。主イエスを中心にして、罪ゆるされた罪びとたちが共に祝いの食卓を囲んでいる、これは来るべき神の国での盛大な晩餐会を先取りするものです。

前回学んだルカ福音書5章30節では、それを見ていたファリサイ派や律法学者たちが主イエスの弟子たちに向かって、「なぜ、あなたたちは、徴税人や罪人などと一緒に飲んだり食べたりするのか」と非難しましたが、きょう朗読された33節では、その周りにいた人々が今度は主イエスに向かって、「ヨハネの弟子たちは……食べたりしています」(33節)と非難しています。主イエスが罪びとと呼ばれていたレビを弟子としてお招きになり、また多くの罪びとたちと共に食事をしておられるということは、ユダヤ教指導者たちにとっても、またすべてのユダヤ人たちにとっても、理解しがたいことであり、宗教的指導者としてはふさわしくない行動だと思われました。

主イエスの福音はユダヤ人にとっても、またすべての人間にとっても、受け入れがたい教えであり、つまずきとなりました。なぜならば、人はみな自分の罪に気づくこと遅く、自らの罪を認めることはしたくないからです。自分はあの罪びとたちよりはよりまともな人間であり、まじめで正直であり、努力家であり、自分で自分を救うことができると考えるからです。主イエスから一方的な恵みとして与えられる救いよりは、自分で勝ち取った救いの方がより値が高いと考えるからです。

しかし、わたしたちはきょうの聖書のみ言葉から、主イエスから与えられる救いの恵みこそが、人間の救いにとって最も力があり命があり喜びがあり、他の何ものにも替えがたい尊いものであるということを教えられるのです。主イエスの救いを信じる信仰によって与えられる義は、ファリサイ派や律法学者の義よりもはるかに勝った義であるということを学び取っていきましょう。

33節にヨハネの弟子たちが断食していることが取り上げられています。ヨハネは来るべきメシア・救い主である主イエスのために道を整える先駆者として、ヨルダン川で悔い改めの洗礼を授けていました。ヨハネと彼の弟子たちは、当時のユダヤ教で定められていたよりも頻繁に断食していたようです。旧約聖書では、大贖罪日と言われる日にすべてのユダヤ人は断食するように定められていました。レビ記23章27節以下にそのことが書かれています。大贖罪日にはイスラエルの全国民が主なる神のみ前に自分たちの罪を告白し、その罪を悲しみ、罪を悔い改めるしるしとして断食をし、神との交わりの回復を願い求めるのです。断食は食欲等の肉体的な欲望を捨てることによって、心と思いとをを神に集中させ、神との霊的な交わりを与えられるための信仰的な行為と考えられ、イスラエルでは重んじられていました。

ユダヤ人に定められていた年一回の断食日は、紀元前6世紀のバビロン捕囚以後には年数回に増やされ、主イエスの時代にはファリサイ派の間では一日3回の祈りとともに週に2回、月曜日と木曜日に断食するようになりました。ヨハネの弟子たちもそれと同じように断食していたと推測されます。しかしながら、ファリサイ派の断食には偽善的な要素が少なからずありました。彼らは自分たちの信仰深さを誇るために、多くの人々が見ている大通りで、顔を見苦しく装い、いかにも自分たちが深く罪を悔い改めているかのように見せて断食していました。それに対して、ヨハネの弟子たちは、近づきつつある神の最後の審判と神の国の完成の時に備えて、真実な罪の悔い改めのしるしとして断食をしていたと推測されます。

けれども、主イエスは偽善的なファリサイ派の断食も信仰的なヨハネグループの断食をも拒否され、定期的な断食は行っていませんでした。弟子たちにもそれを勧めませんでした。むしろ主イエスは徴税人や罪びとのようなユダヤ社会から見捨てられていた人たちと食事を共にされました。それはなぜでしょうか。主イエスは34節以下でその理由について婚礼のたとえと、服に布切れを継ぎ当てするたとえと、新しいぶどう酒を入れる新しい革袋のたとえで説明されました。この三つのたとえで主イエスが強調しておられること、主イエスが語っておられる神の国の福音の大きな特徴について読み取っていきましょう。

まず、婚礼のたとえですが、イスラエルでは結婚は非常に重んじられていました。結婚は神の創造の秩序の具体化です。神が人間を男と女とに創造され、人間が共に生きる交わりの関係であるべきことの具体的な姿が結婚です。それゆえに、結婚は神とイスラエルの契約の関係の比喩として用いられます。旧約聖書ではしばしば神とイスラエルとの関係が夫婦の関係にたとえられています。また、イスラエルの家庭では結婚の祝いは一週間も続きます。

新約聖書では、結婚は終わりの日に完成される神の国での盛大な祝宴にたとえられています。主イエスの説教でも、使徒パウロの書簡でもそうです。終末の時、花婿である主イエス・キリストと花嫁である教会の民とが永遠に固く結ばれ、神の国において絶えることのない共同生活を続ける。そこには永遠の祝福と救いと喜びがある。主イエスは34節で、その永遠の喜びの祝宴が今すでに始まっているのだと言っておられます。【34節】。神の国の花婿であられる主イエスがこの世においでになりました。神の国での結婚の祝宴がすでに始まっているのです。神が与えてくださる救いの恵みがすでに目の前に差し出されているのです。もはやだれも、自分の罪を悔いて、心や体を悩ます必要はありません。自分の力や努力で救いを手に入れる必要もありません。主イエスを信じる信仰によってすべての人に罪にゆるしと永遠の命が与えられているからです。

主イエスはさらに二つのたとえでこのことを強調されます。この二つのたとえに共通している点は、新しいものと古いものとの決定的な違いです。新しいものと古いものとは共存できません。一緒にすることはできません。新しい服から取った新しい布切れには弾力性があり、伸びちぢみしますが、古い着物には弾力性がありませんから、その両者を一緒に縫い合わせれば、伸び縮みの違いによって、継ぎ当てをした部分は破れてしまいます。そうすれが両方ともに使い物にならなくなってしまうでしょう。また、新しいぶどう酒は盛んに発酵し、空気が膨張します。しかし、古い革袋は伸縮性がありませんから、新しいぶどう酒をいれればやがて古い革袋を破って、ぶどう酒は無駄になってしまうでしょう。

主イエスがこの二つのたとえで強調しておられることを三つの点にまとめてみましょう。一つには、古いものと新しいものとは共存できない、一緒にすることはできないということです。新しい服から布を取って古い服に継ぎ当てをすることができないように、新しいぶどう酒を古い革袋に入れることができないように、花婿が共にいる婚礼の席には断食はふさわしくありません。主イエスが共におられる席では断食は必要ありません。

ここで、新しい、古いと言われているのは、単に時間的・時代的違いを指しているのではありません。時が経過して古くなったというのではなく、新しいものが、先の古いものとは全く異質な新しいものがやってきたゆえに、これまであったものがすべて古くなったという意味です。神の国の花婿であられる主イエスがこの世においでになられた今はそれまでにあったものはすべて古くなったのです。主イエスが罪びとたちと共におられ、罪びとたちを神の国へとお招きになっておられるゆえに、律法によって救われようとするユダヤ教の教えは古くなり、この世の何かによって救いを得ようとするすべての試みも古くなり、それのすべての道は閉ざされてしまったのです。主イエスが始められた神の国での祝宴の喜びにはそれらのすべてはふさわしくありません。それゆえに、ファリサイ派の断食もヨハネの断食も、主イエスが共にいてくださる祝福と喜びの前ではふさわしくはありません。

第二には、新しいものが持っている力、エネルギーの大きさです。それは古いものを破壊せざるを得ないということです。新しい布、新しいぶどう酒が、古い着物、古い革袋を引き裂くように、主イエスの福音は、主イエスが罪びとたちと共にいてくださるという喜びは、断食の苦しみや嘆きを消し去り、否定し、人間の罪の縄目を解き放つ大きな力を発揮するのです。主イエスが語られた神の国の福音は古い世界の、古い秩序を破壊し、罪と死と滅びとに支配されていた古い世界と人間をそこから解放するのです。

第三に強調されている点は、主イエスが語られた神の国の福音は圧倒的な力で新しい人間を創造するということです。【38節】。この主イエスのみ言葉は、単に一つの真理を語っているのではありません。新しいぶどう酒は新しい革袋を必要としています。新しいぶどう酒はそれを入れる新しい革袋を創造していくのです。主イエスの福音は主イエスの福音に生きる新しい人を創造するのです。使徒パウロはコリントの信徒への手紙二5章17節でこのように書いています。「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた」と。主イエス・キリストによって和解の福音を聞かされ、罪ゆるされたわたしたちは、主キリストの福音によって新しく創造された信仰者として、和解の福音を持ち運ぶ任務を託され、和解の言葉を託されているのです(同18~21節参照)。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、罪と死の世界をさまよっていたわたしたちを、あなたがみ子主イエス・キリストの福音によって見いだしてくださり、み前にお招きくださいます幸いを、心から感謝いたします。どうか、わたしたちに新しい命を注ぎこみ、わたしたちをあなたのみ心にかなって造り変えてください。あなたのみ心を行う人としてください。

○天の神よ、さまざまな試練や苦悩の中にあるこの世界と諸国の人々を憐れみ、顧みてください。重荷を負っている人たちを力づけ、励ましてください。悲しみ痛みの中にある人たちに、慰めと平安をお与えください。孤独な人や迷っている人には、あなたが共にいてくださり、希望の光をお与えください。

〇この世界は今、あなたの天からの助けとお導きとを必要としています。どうか、この世界を憐れんでください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

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