2月28日説教「アブラハムの信仰が義と認められた」

2021年2月28日(日) 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:創世記15章1~6節

    ローマの信徒への手紙4章1~12節

説教題:「アブラハムの信仰が義と認められた」

 創世記15章では、神がアブラハムにお与えになった二つの約束がテーマになっています。その一つは、1~6節で、神がアブラハムに祝福を受け継ぐ子孫をお与えになるという約束、二つには、7節以下で、神がアブラハムと彼の子孫に約束の地カナンを所有の地としてお与えになるという約束です。この二つの約束については、これまでにも二度聞いてきました。最初は12章1~3節、彼が最初に旅立った時に聞いたみ言葉です。次は13章14~17節、彼が甥のロトと別れたあとに聞いたみ言葉です。そして、きょうの個所で三度目になります。さらに、17章でも繰り返されます。

このアブラハムへの約束、これをアブラハム契約と言いますが、この約束はアブラハムの子イサクへ、さらにイサクの子ヤコブへと受け継がれていきます。神の約束のみ言葉は人を超え、世代を超え、時代を超えて、受け継がれていきます。そして、わたしたちが知っているように、アブラハム契約はイスラエルの民へと受け継がれ、主イエス・キリストによって全世界の教会へと受け継がれているのです。アブラハム契約は主イエス・キリストの福音によって完全な意味でわたしたち教会の民に成就されました。

 きょうは15章1~6節を学びますが、まず6節のみ言葉に注目したいと思います。【6節】。ここに書かれているみ言葉が、のちのキリスト教会の歴史の中で、いかに偉大なみ言葉となったかということについて、どれほど強調しても強調しすぎることはないと言ってよいでしょう。アブラハムからおよそ2千年後になって、使徒パウロはこのみ言葉をローマの信徒への手紙4章3節とガラテヤの信徒への手紙3章6節で取り上げ、彼の二通の手紙の主題をこのみ言葉を土台にして展開しています。ローマの信徒への手紙4章1~5節を読んでみましょう。【1~5節】(278ページ)。

そしてさらに、使徒パウロから1500年ほどあと、宗教改革者マルチン・ルターとジャン・カルヴァンはローマ・カトリック教会の中で長く見失われていたこのみ言葉の偉大さを再び見いだしました。彼らはそれを、「ただ信仰のみ」という標語で言い表しました。「ただ信仰のみによって、罪びとは神に義と認められ、罪ゆるされ、救われる」というキリスト教の教えの中心を彼らは再構築しました。これを一般に「信仰義認」と言います。

創世記15章に書かれているアブラハムの信仰、そして使徒パウロが主イエス・キリストの福音によってより明確にした福音的信仰、さらに宗教改革者たちが再発見したプロテスタント福音信仰を、彼ら宗教改革者たちは「ただ信仰のみ」という言葉で強調しましたが、それを彼らはまた、「ただ神の恵みのみ」「ただ神のみ言葉のみ」という言葉で深めました。アブラハムは神のみ言葉を聞き、それを信じました。神のみ言葉は神から一方的に与えられる神の恵みです。アブラハムはそれを信じて、神の恵みを受け入れました。神はそのアブラハムの信仰を義と認められ、彼に救いの恵みをお与えになりました。すべての信仰者は、わたしたちもまた、そのようにして、ただそのようにして、「神のみ言葉によって、神の恵みによって、それを信じる信仰によって」、罪ありながらも、神によって義と認められ、罪ゆるされ、救われるのです。

『日本キリスト教会信仰の告白』はそれをこのように告白しています。(礼拝堂の椅子のポケットに入っているプリントを参照してください)。「神に選ばれてこの救いの御業を信じる人はみな、キリストにあって義と認められ、功績なしに罪を赦され、神の子とされます」。これがアブラハムの信仰を受け継ぎ、使徒パウロが主キリストの福音を信じる信仰によって明確にし、宗教改革者たちが再発見したわたしたちの教会の信仰です。ここに、ただここにだけ、真実の救いがあり、アブラハムから受け継いだ神の祝福があり、神が約束しておられるみ国の民とされる保証があるのです。

では、どのような状況の中で、どのようにして、アブラハムの信仰が義と認められたのかを、1節から読んでいきましょう。【1節】。「主の言葉が臨んだ」という表現がここでは用いられています。これまでは、「主が言われた」という表現でしたが、「主の言葉が臨んだ」を直訳すると、「主の言葉がアブラムの上にあった」となり、神のみ言葉が上からアブラハムを覆い、彼を上から支配していることが強調されているように思われます。「幻の中で」という言葉も、同じことを強調していると思われます。アブラハムはこの時あたかも眠っているかのように、無意識のうちにと言うか、彼自身の意志とか思いとかをはるかに超えた神のみ言葉の圧倒的な力、神の意志、神のみ心がここでは強調されているのです。「アブラハムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた」というあの偉大なみ言葉は、このような状況の中で語られているということにまず注目したいと思います。

神は言われます。「恐れるな、アブラムよ」と。と言うことは、アブラハムはこの時、何かを恐れていたということになります。何を恐れていたのかについては分かりません。生まれ故郷のカルデヤのウルを出発し、放浪の旅を続けて10年、20年が過ぎて、いまだに続く不安定な生活を恐れていたのか、あるいはいまだに神の約束は一つも実現していない、約束の地を所有することもできず、約束の祝福を受け継ぐ子どもも与えられないという神のみ言葉への不信からくる恐れなのか、その他さまざまな恐れが予想されますが、ここには何も説明されていません。

わたしたちはここに書かれているみ言葉から考えるのがよいでしょう。すなわち、「主の言葉がアブラムに臨んだ」、そのことのゆえに彼は恐れたのだと。それこそが聖書の言う「恐れ」なのだということに、わたしたちは気づかされます。神が人間アブラハムにみ言葉をお語りになる時、神のみ言葉が強い力をもってアブラハムの上を覆う時、彼は恐れざるを得ません。天におられる聖なる神が地に住む罪びとである人間に語りかけ、ご自身のお姿を現される時、人間は恐れざるを得ません。神が人間に出会われる時、神が人間にみ言葉をお語りになる時、わたしたちはみな恐れざるを得ません。その時わたしたちは「神よ、わたしは罪にけがれた者です。あなたのみ前では滅ぶべき者です。わたしを離れてください」と告白し、恐れおののきつつ、神のみ前にひれ伏さざるを得ません。そして、これがわたしたちの礼拝の姿勢です。

その時、神は「恐れるな」と言われるのです。「恐れるな」とは神の命令です。恐れを禁止するだけでなく、同時に恐れを取り除く、神の命令です。「あなたはもはや何ものをも恐れるには及ばない。恐れるべきではない。恐れなくもよい」。これは、慰めと憐れみに満ちた神の命令です。神の「恐れるな」との命令を聞く者は幸いです。その人はこのみ言葉によってすべての恐れから解放されるからです。神を恐れ、神から「恐れるな」とのみ言葉を聞く人は、他のいかなるものをも恐れるには及びません。「アブラハムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた」というあの偉大なみ言葉は、このような状況の中で語られているのです。

神は続けてアブラハムに語られます。「わたしはあなたの盾である」と。盾とは敵の攻撃から身を守るものです。アブラハムを襲うであろう攻撃や誘惑、あるいはさまざまな恐れや不安、それらからアブラハムを守り、彼を幸いな道へと導くために、神はアブラハムの盾となって働かれるという約束です。

それゆえに、「あなたの受ける報いは非常に大きい」と神は言われます。この場合の「報い」とは、アブラハムの何らかの功績に対する報酬ではなく、神から一方的に差し出される恵みのことです。神ご自身がアブラハムのために勝ち取ってくださった恵みのことです。それゆえに、その恵みはアブラハムが努力して得られるどんな恵みよりもはるかに大きな恵みであると言われているのです。「アブラハムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた」というあの偉大なみ言葉は、このような状況の中で語られているのです。

神の大きな恵みを約束されたアブラハムは驚き、自分がそれを受けるに値しない者であることを告白せざるを得ません。【2~3節】。「あなたの子孫を永遠に祝福する」と約束された神は、いまだにアブラハムに子どもをお授けになりません。アブラハムはこの時すでに百歳近くになっており、妻のサライは11章30節によれば、子どもができない体質でした。彼らに子どもが生まれるという人間的な希望や可能性は全くありませんでした。当時の習慣によれば、家に家督を継ぐ男の子が生まれない場合には、家の奴隷の男の子を養子にすることが定められていました。アブラハムもまたそのようにして家を絶やさないようにするほかにないと考えていたのでした。「アブラハムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた」というあの偉大なみ言葉は、このような状況の中で語られているのです。

【4~5節】。人間的に見れば、全く希望がなく可能性もないような、そのような人間の無力と絶望の中で、またもや神のみ言葉がアブラハムの上に臨みました。神の命と恵みに満ち溢れたみ言葉が、アブラハムの上を覆い、彼を包み、彼を希望と喜びに満たすのです。神のみ言葉は、無から有を呼び出だし、死から命を生み出します。時あたかも、深夜、一面暗闇に閉ざされている世界で、神は「天を仰いで、空の星を見よ。その星の数を数えてみよ」とお命じになります。これは、何とも生き生きとした、印象深い情景であることでしょうか。おそらくは、4千年前にアブラハムが見た夜空の星と、今日わたしたちが見る夜空の星とは、ほとんど変わりはないでしょう。わたしたちはここに描かれている情景を、そっくりそのまま今日自ら再現することができるでしょう。「あなたの子孫はこのようになる。あなたが受ける恵みはこのように多く、大きい。あなたに約束されている祝福はこれほどに豊かで、光輝いている」。「アブラハムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた」というあの偉大なみ言葉は、このような状況の中でわたしたちのためにも語られているのです。

(執り成しの祈り)

〇天の神よ、あなたがきょうわたしたち一人一人にお与えくださった大きな恵みを、心から感謝いたします。わたしたちはあなたの恵みを受けるに値しない弱く貧しい者たちですが、あなたの限りない憐れみと愛とを覚えて、み前に恐れおののきつつ、ひれ伏す者であります。

〇主なる神よ、わたしたちがあなたの恵みの応えて、喜んであなたのみ心を行い、あなたのご栄光を現す者となりますように、お導きください。

〇神よ、日本とアジア、全世界に建てられている主キリストの教会とその地に住むすべての人々を憐れみ、顧みてください。特にも、小さな、弱い者たち、貧しく、傷ついている人たち、迷い、苦しんでいる人たちの上に、あなたの恵みと祝福が豊かに注がれますように。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

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