4月4日説教「十字架につけられた主イエスは復活なさった」

2021年4月4日(日) 秋田教会主日礼拝(復活日)説教

聖 書:詩編16編1~11節

    マタイによる福音書28章1~10節

説教題:「十字架につけられた主イエスは復活なさった」

 ユダヤ人の安息日・土曜日が終わった翌日、日曜日の朝早くに、二人のマリアは主イエスの亡骸(なきがら)を収めた墓の前で、主のみ使い・天使が告げる神のみ言葉を聞きました。「恐れるな。十字架につけられた主イエスは死人の中から復活された」。それを聞いた二人の婦人たちは恐れながらも大きな喜びに満たされて、急いで弟子たちに伝えました。「主イエスは死人の中から復活された」と。この復活のおとずれを聞き、それを信じることから、弟子たちの信仰が始まりました。また、後に誕生する教会の信仰が始まり、そして今日のわたしたちの信仰が始まります。この復活の福音を宣べ伝えることから弟子たちと初代教会の宣教活動が始まり、今日の教会の宣教活動が始まります。教会は今もなお、これからのちも、罪と死とに支配されているこの世界とすべての人に向かって、「主イエスは死人の中から復活された。主イエスはすべての眠っている人たちの初穂として死人の中からよみがえられた。そして、主イエスを信じる信仰者に罪のゆるしと永遠の命の約束をお与えくださる」と力強く語り、そうすることによって生きた教会として前進していきます。教会の宣教活動とわたしたちの信仰は主イエスの復活に基礎づけられています。教会とそこに集められている信仰者の命の源は主イエスの復活にあるのです。

 きょうはマタイによる福音書28章1節以下から、教会とわたしたちの信仰と命の源である主イエスの復活について学んでいきましょう。【1節】。主イエスが十字架につけられたのは受難週の金曜日の昼前でした。その時、神のみ子の死を悲しみ悼むかのように、全地が暗くなったと27章45節に書かれていました。午後3時過ぎに主イエスは十字架上で息を引き取られました。日没からユダヤ人の安息日・土曜日が始まるので、アリマタヤ出身のヨセフという人が急いで主イエスの亡骸を引き取って、自分の墓に収めました。そして、安息日が終わった翌日、日曜日の明け方に、二人のマリアが主イエスの墓へと急いでいます。

1節では「墓を見に行った」とありますが、他の福音書によれば、婦人たちが墓に行ったのは、主イエスの亡骸に香油を塗るためでした。亡くなった人の体に香油を塗るという儀式は、非常に重んじられている当時の慣習でした。それは生きている人たちが亡くなった人に対して行う、いわば最後の奉仕でした。ところが、主イエスの場合、十字架で処刑されたのが金曜日午後で、安息日が始まる日没までに香油を塗る時間がありませんでした。そこで婦人たちは安息日が終わってから、墓へ行って、主イエスのためにやり残した最後の愛の奉仕をしようとしていたのでした。

この婦人たちというのは、27章56、57節に書かれていたガリラヤ地方から主イエスに従ってきた婦人たちでした。彼女たちは主イエスの十字架の証人でした。また、61節には、彼女たちが主イエスが墓に葬られたことの証人になったとも書かれています。そして更に、きょうの個所では、彼女たちは主イエスの復活の最初の証人になるということがこのあとに書かれているのです。実は、当時のユダヤ人社会では婦人は公の法廷で証人として立つことは認められていませんでした。当時の婦人たちの社会的地位が低かったからです。しかしながら、聖書では、きょうの個所の外にも多くの場面で、婦人たちが重要な働きをしていることが描かれています。男性が眠ったり逃げまどったりしている時に、婦人が重要な働きのために神によって用いられ、また神の重要な救いの出来事の証人として立てられているということをわたしたちは聖書で何度も読むことができます。神はご自身の救いのみわざのためにいと小さな者、取るに足りない、選ばれるに値しない者を、尊くお用いになるのです。それによって、人間がだれも誇ることがなく、ただ神のご栄光が崇められるようになるためです。

さて、主イエスの亡骸に香油を塗るために日曜日の早朝に墓にやって来たこの二人の婦人たちは、思いがけず、主イエスの復活の場面に出会うことになりました。4節に【4節】と書かれています。この番兵は、すぐ前の27章62節以下に書かれてあったように、主イエスの亡骸が弟子たちに盗まれないように、それによって弟子たちが主イエスは復活したというデマを流すことを防止するために、墓を監視する兵士たちでした。ところが、神のみ使いが天から下ってきて、墓をふさいでいた石を取り除いた様子を見ていた彼らは、死人のようになったと書かれています。死んだ人を墓の中に閉じ込めておく務めの彼らが、自ら死んだような者となったということは、墓の中に収められていた主イエスが、その入り口をふさいでいた石を取り除けて、死の墓から復活され、生きる方となられたということと、対比されているように思われます。

主イエスの復活は天使が告げる神のみ言葉によって明らかにされます。【5~7節】。墓の中でどのようにして横たわっている主イエスのお体が起き上がったのかといったような人間的な興味については聖書は一切語っていません。主イエスの復活は人間の目で見たり、手で触って確認できるものではありません。主イエスの復活はこの地上で起こったことであり、だれもが見ている墓で起こった出来事ではありますが、そことは天から、神のみ言葉として語られるほかにありません。ただ神のみ言葉だけが、わたしたちがいつも見ており経験している死と墓という現実を打ち破り、死に勝利する復活と永遠の命を創造するからです。生きて命を与える神のみ言葉だけが、罪と死に支配されているわたしたちをそこから解放するからです。わたしたちはその神のみ言葉を聞いて信じる信仰へと招かれているのです。

では、主イエスの復活は現実に起こったことでなくてもよいのかという疑問が生じるかもしれません。決してそうではありません。主イエスの復活は現実に起こった出来事です。マタイ福音書はそのことを9、10節で、復活された主イエスのお体を実際に婦人たちが見て、その声を実際に聞いたという出来事によって証明しています。復活された主イエスがそのお姿を弟子たちに現わされたということを、復活の顕現と言います。ルカ福音書と使徒言行録は主イエスの復活の顕現について何度も語っています。復活された主イエスは弟子たちが見ている前で、弟子たちと一緒に食事をされ、彼らと対話をされ、彼らに世界宣教の命令を語られ、そして最後には、彼らが見ている前で、そのお体が天に引き上げられ、雲の中に見えなくなったと使徒言行録1章に書かれています。彼ら復活の目撃者たちの証言によって、初代教会が建てられ、その宣教活動が始められたのです。今日のわたしたちは彼らの証言を聞き、見るないで信じる幸いな信仰へと招かれているのです。

きょうの聖書の個所でもう一つ重要なメッセージは、主イエスの亡骸に香油を塗るために墓にやって来た婦人たちが、どのように変えられたかということです。マタイ福音書では、マルコ福音書、ルカ福音書とは違って、香油を塗るために彼女たちが墓に来たということについては、はっきりとは語られていません。彼女たちはまるでその目的を忘れてしまっているかのようです。彼女たちは日曜日の朝が始まるやいなや、全く新しい務めが与えられ、その新しい使命のために生きる者としてここに登場しているのです。

彼女たちに与えられている新しい使命とは、まず第一には神の使い・天使が語る神のみ言葉を聞くこと、十字架につけられた主イエスが死の墓から復活されたという喜ばしいおとずれを聞くこと、そして次に、そのことを裏付ける事実として空になった墓の中を確認すること、また復活された主イエスのお姿を見ること、更には「主イエスは復活された」との神のみ言葉を携えて、急いで墓を立ち去り、弟子たちにその福音を告げ知らせること、これが彼女たちの新しい使命です。彼女たちはこの新しい使命に生きる者たちとされているのです。

亡くなった人を葬る前にその体に香油を塗ることは生きている人たちの最後の重要な務めであったが、主イエスの場合にはそれができなかったと前に紹介しました。けれども、実はそれは正確ではありません。26章6節以下に、ベタニアでの油注ぎのことが書かれていました。その時に、主イエスはこう言われました。【12節】(52ページ)。主イエスはこの時すでに葬りの備えを終えておられたのです。しかも、その際に注がれた香油は非常に高価であったと書かれていました。罪なき神のみ子の死と葬りの備えはこの時すでになされていました。

それでも、もちろん婦人たちはまだそのことには気づいてはいませんから、愛する主イエスのために最後の奉仕をするために、夜が明けるとすぐに墓へと急いだのでした。それが、死に支配されている人間たちにできる最も大きな愛の奉仕だったからです。しかし、日曜日の主イエスの復活の朝、死者に対するその奉仕は必要なくなりました。彼女たちはもはや死者のために仕えるのではありません。復活され、生きておられる主イエスのためにお仕えする人へと変えられるのです。全人類の罪のために十字架に死なれ、その罪と罪ゆえの死とに勝利するために復活された主イエスにお仕えし、主イエスの復活の福音を携えて、主イエスの復活の証人として生きる人へと変えられたのです。この新しい務めに生きることこそが、死に向かって生きるのではなく、復活の命に向かって、人間が本当に生きるということなのです。復活の主イエスを信じる信仰者の歩みは、墓に向かう歩みではありません。あの婦人たちのように、急いで墓から立ち去り、罪と死に向かっている歩みから身をひるがえして、復活の福音へと向かう歩みへと変えられるのです。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、死すべきわたしたちをあなたがみ子の血によって贖ってくださり、み子の復活の命にあずからせてくださいます幸いを心から感謝いたします。わたしたちがこの世の朽ち果てるもののために生きるのではなく、あなたの命のみ言葉を糧として生きる者としてください。

〇天の神よ、罪と死に支配され、暗黒と混乱に覆われているこの世界を、あなたがあわれんでくださり、救いの恵みをお与えくださいますように。主イエスの復活の福音が全世界の教会で語られ、信じられますよう。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

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