4月18日説教「神の契約の子である教会の民」

2021年4月18日(日) 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:創世記12章1~4節

    使徒言行録3章11~26節

説教題:「神の契約の子である教会の民」

 使徒言行録3章には、ペンテコステの日に誕生したエルサレム教会の最初の宣教活動について描かれています。ペトロが生まれながら足の不自由だった人に「ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」と命じ、彼の手を取って立ち上がらせると、彼は躍り上がって立ち、神を賛美しながら、神殿に入っていったと書かれています。ペトロを始め、初代教会の使徒たち、伝道者、教師たちには、神のみ言葉と主イエス・キリストの福音を語って人々を罪から救う権限と力が与えられていたと同時に、その罪のゆるしの目に見えるしるしとしての肉体的ないやしの能力をも与えられていました。使徒言行録やパウロの手紙にそれらの実例が数多く報告されています。これは福音書の中で主イエスご自身が持っておられた権限、力と同様です。使徒たちはその権能を託されました。

 エルサレム神殿での奇跡を見た民衆は、「我を忘れるほど驚いた」と10節に書かれていました。11節にも「民衆は皆非常に驚いた」と書かれています。ここで二度も民衆の驚きが強調されていることには理由があるように思われます。彼らの驚きは、彼ら自身はまだその本当の意味を理解してはいなかったのですが、それは実は、今や新しい救いの時が到来したことに対する驚きだったと言ってよいでしょう。旧約聖書に預言されていた神の救いが成就する時が、主イエス・キリストの十字架と復活の福音によって今到来したのです。罪の支配が終わり、神の救いと恵みが、すべての信じる人たちを支配する新しい救いの時が、このエルサレムから始まって全世界へと拡大していくのです。

 民衆の目は歩き出した人とペトロたちに向けられていました。彼らはまだ神の救いのみわざそのものを見てはいません。そこでペトロは、その驚きの本当の意味を明らかにします。12節からのペトロの説教がその真の意味を語っています。この説教は、2章12節以下の説教に続くペトロの二度目の説教です。わたしたちはこの個所からも、初代教会の説教の特徴を知ることができます。そしてそれは、その後今日に至るまでの2千年間の教会の説教の特徴ともなりました。

 説教の前半の12~16節では、主イエス・キリストの十字架の死と復活が語られ、それが罪のゆるしと救いを与える福音であることが語られています。後半の17節以下では、主イエスの福音は旧約聖書で預言されていた神の救いのみわざの成就であり、神が初めにお選びになったイスラエルの民に約束された祝福がいまや全世界のすべての国民に与えられていること、そして終末の時に、主イエスの再臨によって神の救いのみわざが完成され、永遠の慰めが神の契約の民すべてに与えられるということが語られています。この二つの説教のテーマは2章12節以下の最初の説教とも一致しています。今日のすべての教会の説教のテーマとも一致します。わたしたちは主の日ごとの礼拝で、聖書の至る所から、同じテーマの説教を繰り返し聞いているのです。

 ではまず、12節と16節を読んでみましょう。【12節、16節】。ペトロはここで民衆があれほどに驚いたその真の意味を明らかにします。それは、ペトロたちが何か大きな力や魔術を用いて行ったことではなく、主イエス・キリストのみ名を信じる信仰によって、神がなしてくださった奇跡でなのであると説明します。生まれながらにして全く歩いたことがなかったこの人が、彼らの見ている前で起き上がり、踊りだし、神を賛美し礼拝するために神殿に走っていったのは、十字架につけられ、三日目に復活された主イエスが、彼の罪をゆるし、彼を支配していた悪の力から彼を解放し、彼を新しい命によって生かしてくださったからであると、ペトロは語ります。ペトロは驚いている彼らの目を、歩き出した男の人とペトロたちに注がれていた彼らの目を、主イエス・キリストへと向けさせるのです。主イエス・キリストの福音を信じる信仰によって歩き出す、新しい救いの時が今始まったのです。そのことをこそ、彼らは、すべての人は驚くべきなのです。

 16節では、「イエスの名」という言葉と「信仰」という言葉がそれぞれ二度用いられており、強調されています。つまり、主イエスのみ名こそが、またそれを信じる信仰こそが、この人の足をいやし、立ち上がらせるという奇跡を生み出し、罪から救われた感謝と喜びに生きるという新しい歩みを生み出しているのだということが強調されているのです。

 主イエスのみ名とは、主イエスの存在と行為の全体、その救いのみわざ全体を言い表しています。主イエスの十字架と復活の福音という救いの恵みと力とのすべてが主イエスのみ名に結びついています。主イエスを信じる信仰においては、主イエスのお名前とその実体とその救いの恵みとは分かちがたく結合しているのです。

 「その名を信じる信仰」がだれの信仰を意味しているのかはこの文章からははっきりしません。不自由な足をいやされた男の人の信仰か、それとも主イエスの福音を語ったペトロの信仰かをここで区別することはできません。おそらくその両方を含んでいると理解すべきでしょう。と同時に、「イエスによる信仰が」という言い方で暗示されているように、その両者の信仰は主イエスによって与えられ、造り出された信仰であるということが強調されているように思われます。

 次に13~15節で、ペテロは主イエスの十字架の死と死者の中からの復活について語ります。これが説教の第一のテーマです。13節に「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」という神の呼び名が書かれていますが、これは出エジプト記3章15節などで用いられているイスラエルの神の呼び名です。その神のお名前が「その僕イエス」と結びつけられています。イスラエルの民をお選びになり、この民によってご自身の救いのみわざをお始めになった旧約聖書の神が、今や神の愛された僕(しもべ)であられる主イエス・キリストによって、その救いのみわざを全人類のために成就され、完成されたのです。

 主イエスの救いのみわざは、その十字架の死と死者の中からの復活によって成就されました。それがどのような状況の中で起こったのかをペトロは語っています。神がその愛する僕である主イエスに栄光をお与えになりましたが、神に選ばれた民であるあなたがたエルサレムの住民は主イエスに与えられた神の栄光を見ることを拒み、主イエスを異邦人の支配者であるピラトに引き渡した。それだけでなく、異邦人ピラトでさえも無罪と判断して釈放しようとした主イエスを、あなたがたは十字架の死へと追いやった。更には、死刑になって当然の罪を犯した犯罪人の方をあなたがたはゆるし、すべての人にまことの命をお与えくださるお方である主イエスを殺してしまった。あなたがたエルサレムの住民はこのように何度も判断を誤り、神のみ心に背いて罪を犯したのではなかったのかという、彼らの罪に対する厳しい告発がここにはあります。

 しかし、このペトロの告発は彼らの罪を責めるためのものでは決してありませんでした。「神はこの方を死者の中から復活させてくださいました」とペトロは説教します。神は人間たちのたび重なる過ちや背きの罪にもかかわらず、その罪をはるかに超えて、救いのみわざをなしたもうのです。人間の無知や反逆や罪にもかかわらず、神の救いのご計画は変更されることも中止されることもなく、主イエスのご受難と十字架の死と復活によって、その最終目的へと進んでいったのです。

 15節でペトロは「わたしたちは、このことの証人です」と言っています。使徒たちは主イエスの死と復活の証人として立てられました。そして、使徒たちの宣教によって、その説教を聞いた人たちが新たに主イエスの復活の証人として立てられていくのです。わたしたちもまたその一人です。

 ペトロの説教の後半を読みましょう。【17~19節】。主イエスのご受難と十字架の死はエルサレムのユダヤ人たちの無知の罪が勝利した結果ではありません。そうではなく、それは神が旧約聖書の中であらかじめ預言者たちを通してお語りになった預言の成就だったとペトロは語ります。イザヤ書53章の「苦難の主の僕」の預言が主イエスのご受難によって成就したのです。旧約聖書と新約聖書とは神の永遠の救いのご計画の中で一つに結ばれます。イスラエルのつまずきと人間たちの罪を超えて、神の救いのみわざは成就されます。

 そのことを知らされた会衆に必要なことはただ一つ、自らの罪を知り、それを悔い改めて神に立ち返ることです。救い主・主イエスを信じることです。そうすれば、神は信じる人すべての罪をおゆるしくださり、慰めと平安をお与えくださいます。16節では信仰が強調されていたということをすでに学びましたが、主イエスの福音によって与えられる救いをわたしたちが受け取るのは、ただ信仰によってです。旧約聖書の民イスラエルは神の律法によって導かれてきました。彼らは神の律法を守り行うことによって神の救いの道を歩んできました。けれども、その道にはまだ本当の救いは与えられていませんでした。なぜならば、だれも神の律法を完全に行うことができる人はおらず、かえって律法に違反する罪が増すだけだからです。しかし今や、神はメシア・救い主・主イエスを世にお遣わしになり、主イエスの十字架と復活によって人間の罪を贖い、ゆるし、主イエスの福音を信じる信仰によって、全き救いお与えくださいました。

 ペトロの説教の後半は、終わりの日、終末の完成を目指しています。【20~21節】。ここでは、主イエスの再臨のことが預言されています。地上での救いのみわざをなし終えられた主イエスは、今は天の父なる神の右に座しておられ、全地を支配しておられます。その主イエスが再び地上においでくださる終末の時、救いは完成し、神の国での完全な慰め、永遠の安息が実現します。もはや死はなく、悲しみも嘆きも労苦もない、新しい天と地が到来します。神がイスラエルの民をお選びになって始められた救いのみわざは、主イエスによって全世界の教会の民へと受け継がれ、終末の時の神の国の到来によって完成するのです。わたしたちの信仰の歩みはその終末の時を目指しています。

(執り成しの祈り)

〇天の神よ、「み国を来たらせ給え」とのわたしたちの祈りを更に強めてください。わたしたちの信仰の歩みを、来るべきみ国に向けて整えてください。わたしたちが移り行き、過ぎ去りゆくものに目と心とを奪われることなく、常に永遠なるものを追い求めることができますように、お導きください。

〇神よ、わたしたち一人一人を主イエス・キリストの復活の証人として立て、この世へ派遣してください。罪と死と滅びに支配されているこの世界に、復活の福音を持ち運ぶ者としてください。

〇神よ、この世界を憐れんでください。恐れや不安、病や痛み、試練や重荷に苦しむ人たちを助けてください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

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