4月25日説教「アブラハムとサラの家族計画」

2021年4月25日(日) 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:創世記16章1~16節

    ガラテヤの信徒への手紙4章21~31節

説教題:「アブラハムとサラの家族計画」

 きょうの礼拝で朗読された創世記16章には、アブラハムが神の約束の地カナンについてから10年後のことが書かれています。3節後半にこうあります。【3節b】。12章に書かれていたように、アブラハムは75歳の時に神の約束のみ言葉を聞き、それに従ってこの地にやって来ました。妻のサライ(のちにサラに変えられます)も一緒でした。

アブラハムが聞いた神の約束は二つ、一つはカナンの土地を彼と彼の子孫とに受け継がせるという約束、もう一つは彼の子孫が増し加えられ、その子孫に神の祝福が受け継がれるという約束でした。16章ではその第二の約束が問題になります。すなわち、アブラハムとサラ夫妻に子どもが与えられ、その子にまた子どもが与えられ、更にその子孫が増し加えられ、全地に増え広がり、それとともに神の祝福がアブラハムからその子へ、その子孫へと受け継がれていく。ついには、全世界の民が神の祝福に入るようになるという約束です。

当然のことながら、この約束を担っているのはアブラハム一人だけではなく、妻サラも一緒です。二人でこの約束を担っています。二人一緒でなければこの約束を担うことはできません。ところが、この約束が危険にさらされる事態が、かつてあったということを、わたしたちは思い起こします。12章10節以下に書かれていたエジプト行きがそのきっかけでした。飢饉を避けてエジプト行きを決断したアブラハムは、美しい妻がエジプト人にねらわれた場合、自分が夫だと分かればエジプト人は自分を殺して妻を奪うであろう。しかし、妹だと言えば、その危険性がなくなるだけでなく、兄として優遇されるに違いないと考え、妻のサラを妹と偽り、しかもサラが王宮に召し入れられるのをよしとしました。アブラハムは自分の命を守るために夫婦の関係を投げ捨てたのです。妻サラをエジプト王に売り渡したのです。それだけではありません。神の約束をも投げ捨てたのでした。このようなアブラハムの大きな過ちにもかかわらず、神は寸前のところでアブラハムとサラを危機から救い、二人は共にカナンの地へと帰ることができました。神はアブラハムとサラをお守りになり、またご自身の約束をも守られました。

そのような夫婦の危機を共に乗り越えてきたアブラハムとサラでしたが、あれから10年が過ぎ、再び危機が迫ってきました。サラには未だ子どもが与えられません。「あなたの子どもが神の祝福を受け継ぐであろう」と言われた神の約束は未だ果たされません。そこでサラは夫アブラハムに一つの提案をします。【1~2節】。これまではアブラハムが主体的に行動していましたが、ここでは妻サラの方が先に行動します。このサラの提案は、古代近東諸国では法的に認められていた慣習でした。紀元前18世紀ころの古代バビロンの法律集であるハムラビ法典や15世紀の古代アッシリアのヌズ文書には、夫婦に子どもがなく、その責任が妻に帰せられる場合、妻は自分の所有する女奴隷の一人を第二の妻として夫に与え、彼女によって子どもをもうけなければならないと定められていました。創世記30章でも同じような慣習について書かれていますが、そこでは女奴隷に生まれた子を女主人の膝に置くことによって、その子どもが女主人から生まれた子どもと見なされることが説明されています。15章2、3節によれば、アブラハムは彼の家で仕える奴隷の子が跡継ぎになるであろうと言っていました。

しかしながら、当時の慣習に合っているとしても、夫の考えと一致しているとしても、そしてそれが夫に対する妻の配慮であるとしても、それは神のご計画、神の契約とは合致してはいないと言わざるを得ません。神はすでに15章4節でアブラハムに対して「あなたから生まれる者が跡を継ぐ」とはっきりと言っておられます。サラのこの提案が神のご計画に一致しているとは言えません。

ところが2節の終わりには「アブラムは、サライの願いを聞き入れた」と書かれています。アブラハムも妻サラの家族計画に同意します。彼は15章4節で神が言われた約束を早くも忘れてしまったのでしょうか。あの時神の約束のみ言葉を聞き、夜空に瞬く無数の星空を見て、「あなたの子孫はこのようになる」と言われた神のみ言葉を信じたはずなのに、そしてその信仰が神に義と認められたのに。彼の信仰は何だったのかと改めて問わざるを得ません。

わたしたちはこの疑問をそのままにしてはおけませんので、ここでアブラハムとサラはどうすべきだったのかを、わたしたちなりに少し考えてみたいと思います。まず、結婚については創世記1章、2章が教えているように、神のみ心によって男と女とに創造された人間が、神の導きによって出会い、互いにふさわしい助ける者となり、父と母の家から独立して一体となることです。アブラハムとサラもそのようにして夫婦となったのですが、彼らにはさらなる神からの選びが、召しがありました。「あなたから生まれる子が神の祝福を受け継ぎ、更にその子孫へと受け継がれるであろう」という神の約束を共に担っていく夫婦であるということです。彼らは共にこの神の約束を聞きつつ、夫婦であり続けるのです。したがって、未だに子どもが与えられないとすれば、それは神のみ心だと理解すべきでしょう。2節でサラは「主はわたしに子供を授けてくださいません」と言っているように、子どもを授けるのは神です。とすれば、子どもが未だに授けられなのも神のみ心です。そうであるとすれば、忍耐強く、信仰をもって、神の約束の時を待つべきだったのではないでしょうか。

しかしながら、サラは神の約束を信じて待つことができませんでした。アブラハムもそうでした。彼らは自分たちの考えや知恵で、いわば神の約束を無理やりに引き寄せようとしているのです。それは神に対する不信仰です。不従順です。特に、信仰の父と言われるアブラハムには、その罪の責任が問われなければなりません。彼は神のみ言葉を聞くことによって生きるべきでした。けれども、ここではサラの言葉に同意しています。共に、一緒になって神のみ言葉を聞く夫婦こそが幸いです。けれども、共に神のみ言葉を聞くことをせずに、夫や妻の言葉だけを聞くならば、その夫婦は必ずしも幸いではありません。アブラハムとサラの夫婦にも直ちに不幸がやってきました。

【4~5節】。女奴隷ハガルのこの反応は、当初はサラの家族計画の中には入っていなかったのかもしれません。5節のサラのアブラハムに対する抗議からもそれがうかがい知ることができます。サラはハガルが自分を軽んじるようになったのはアブラハムのせいだと言っています。サラ自身が提案したにもかかわらず、それを夫のせいにしているのです。ここでは、夫婦の関係は破綻しています。互いに助ける者とはなっていません。

けれども、わたしたちがあらかじめ考えたように、これは神に聞き従わなかった夫婦の当然の成り行きだと言ってよいでしょう。この夫婦の家から平和が消え去りました。共に神の約束を担っていく夫婦ではもはやなくなりました。女主人と女奴隷との間に、夫と妻との間に、嫉妬、争い、分裂が生じました、神なしで始められた家族計画は、ついにはこのような結果になるほかありません。

【6節】。サラは夫であるアブラハムに訴え、このトラブルの処理を願っています。アブラハムは部族の長として部族内でのトラブルを調停する責任があり、家庭の長として家庭内のトラブルを解決する責任があります。けれども、彼にはそれができません。彼は二人の女たちの間を執りなすことができません。彼は二人の女たちの間に立って、全く哀れで無力な男でしかありません。神に服従しない人間は、人間同士の争いを真に解決できないのです。

ハガルは女主人サラから逃れるためにアブラハムの家を出ました。彼女は故郷のエジプトを目指していたと思われます。シュル街道はカナンの地から砂漠地帯を抜けエジプトに続いていました。その道の途中で、ハガルは主なる神と出会います。7節に、「主の御使いが荒れ野の泉のほとり、シュル街道に沿う泉のほとりで彼女と出会った」と書かれています。

この時のハガルの心境を考えてみましょう。奴隷の身でありながらアブラハムの子どもを宿すことになった大きな喜び、しかし女主人の辛い仕打ち。奴隷は主人の所有物と考えられ、生かすも殺すも主人次第。何の抵抗もできず、頼みのアブラハムも全く助けてくれない。孤独と不安の中で砂漠をさまようほかないハガル。けれども、アブラハムの神、イスラエルの神であられる主は、選びの民ではなかった異邦人ハガルをも決してお見捨てにはなりませんでした。神はイスラエルの神であるだけでなく、異邦人の神でもあられます。神は全人類の唯一の主なる神であるということを、わたしたちはここでも知らされます。

【8~12節】。アブラハムとサラの家族計画によって破壊されてしまった家族の関係を神が修正されます。女奴隷ハガルが女主人サラのもとに帰ることによって、奴隷と主人との関係が修復されました。それだけではありません。アブラハムとサラの夫婦の関係も修復されるのです。わたしたちはこのあと15節でそのことをはっきりと知るでしょう。そこには、「アブラハムはハガルが産んだ子をイシュマエルと名付けた」とあります。名前を付けるのは家の主人の務めでした。アブラハムはここで、11節の神の命令に従っているのです。アブラハムはここで再び神のみ言葉に従順に聞き従い、それによって、「あなたの子孫が星の数ほどに増え広がるであろう」と言われた神の約束をサラと共に担っていく者とされているのです。

ハガルの子イシュマエルは神の選びの民ではありませんが、その子孫が数えきれないほどに増えるであろうと10節に書かれています。旧約聖書においては、神は選ばれた民イスラエルによってご自身の救いのみわざをなし続けられますが、選ばれなかった民もまた神の救いのご計画の中で用いられます。それによって、新約聖書に至って、神は主イエス・キリストの福音を信じる信仰によって、全世界のすべての民を教会の民として召し集めてくださるのです。

イシュマエルとは「主がお聞きくださる」という意味です。13節のエル・ロイとは「神はわたしを見ておられる」と言う意味です。神はアブラハムとサラの不従順で不信仰な家族計画という失敗を通しても、また異邦人の奴隷であったハガルを通しても、ご自身がわたしたちの願いをお聞きくださる主なる神であられ、わたしたちをいつも見ておられ、顧みてくださる主なる神であられることをお示しくださったのです。

(執り成しの祈り)

〇主なる神よ、あなたはわたしたちの不信仰や貧しさや困窮のすべてを見ておられます。わたしたちの迷いや不安や重荷のすべてを知っておられます。どうか、わたしたちを憐れみ、顧みてください。わたしたちをなくてならないあなたの真理のみ言葉で導いてください。

〇神よ、日本と世界を憐れみ、顧みてください。恐れや不安、混乱、痛み、争いの中で苦悩する一人一人の叫びと祈りをお聞きください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA