5月30日説教「神の契約と割礼のしるし」

2021年5月30日(日) 秋田教会主日礼拝説教(牧師駒井利則)

聖 書:創世記17章1~19節

    ローマの信徒への手紙4章9~12節

説教題:「神の契約と割礼のしるし」

 創世記17章で、アブラハムは神の二つの約束を聞きます。一つは、【1~6節】。もう一つは、【7~8節】。アブラハムがこの二つの神の約束を聞くのは、実にこれが4度目なのです。最初は12章1~3節と7節、彼が70歳になった時、神の召命を受けて故郷をいで、約束の地カナンに着いた時でした。二度目は13章14~17節、一緒に旅立った甥のロトと別れた後でした。三度目は15章4~7節、ここでアブラハムは古い契約の儀式に従って神と正式な契約締結をしました。そして、きょうの17章が4度めということになります。なぜ神は同じ約束をこのように繰り返してお語りになるのでしょうか。

 その理由の一つは、わたしたちがこれまでアブラハムの生涯について読んできたことから知らされるように、彼がしばしば神との約束を忘れ、時には約束の地カナンを離れてエジプトにパンを求めたり、時には自分たち夫婦に子どもが与えられないことにしびれを切らして、自分たちで勝手に家族計画を立てたりして、神の約束を投げ捨てるというようなことを繰り返してきたからです。アブラハムの罪と弱さ、疑いと背きが繰り返されてきたから、神は何度も同じ約束を語らなければならなかったのでした。しかしまたそこには、アブラハムの繰り返しての罪と背きにもかかわらず、神の忍耐とゆるし、神の約束のみ言葉の確かさがあったということをも、わたしたちは聞いてきました。アブラハムの繰り返しの罪と背きにもかかわらず、神の約束は廃棄されることはありません。神は忍耐とゆるしとをもって、アブラハムを導かれました。

 もう一つの理由は1節から推測できます。「アブラムが九十九歳になった時」と書かれています。彼が12章で最初に神の約束を聞いたのが75歳の時、それから24年の歳月が過ぎました。すぐ前の16章3節にはカナン地方に住んで10年後と書かれていますので、あの彼らの家族計画の失敗から14年が過ぎていたことになります。この間、相変わらず神の約束は二つともに果たされてはいません。アブラハムとサラ夫妻には子どもは与えられず、約束の地カナンではその地の一角をも所有しておらず、旅人、寄留者のままです。しかも、アブラハムもサラも年老いています。彼は17節でこう言っています。「百歳の男に子供が生まれるだろうか。九十歳のサラに子供が産めるだろうか」。人間の側の可能性が全く消え去ってしまったあとにこそ、神の約束のみ言葉が語られ、それが成就するのだということをわたしたちはここで知らされるのです。そのことのために、神は今一度、4度目に同じ約束をアブラハムに語られるのです。

 1節で神は「わたしは全能の神である」と言われるのはその意味からです。神を「全能の神」と表現するのは創世記ではこれが最初です。このあと、創世記や出エジプト記などでたびたび用いられます。イスラエルの古い時代の神の呼び名であったと推測されています。全能の神というイスラエルの古い伝統的な神の呼び名が、そのままわたしたちキリスト者の信仰に受け継がれています。神の全能のみ力がアブラハムとサラの人間的な可能性が全く消え去ってしまったときにこそ、最もよく現わされるということは、わたしたちの信仰でもあります。それゆえに、わたしたちは弱った時にこそ神のみ力に頼り、絶望しかないときにもなおも希望をもって前進することがゆるされているのです。

 「わたしは全能の神」という神の自己宣言に続いて、「あなたはわたしに従って歩み、全き者となりなさい」というアブラハムへの命令が語られます。「全き者」とは人格的・道徳的な意味ではなく、神との関係において完全であるということです。神と自分との間に何か第三者の中間的な存在を置かない、あるいは主イエスが教えられたように、神とこの世の富の両方に仕えることをしない、ただ神にのみ従って生きるということです。99歳になったアブラハムの残りの人生はこの神の命令によって規定されています。彼の残りの人生は神によって、いわば差し押さえられているのです。アブラハム自身は、もう残りの人生には何の希望もない、神の約束を担っていく可能性もないと考えていたのかもしれません。けれども、神にとっては彼はもう御用済みの人間なのではありません。神はなおも彼をお用いになります。のちの世のすべて信じる者たちの信仰の父となるべく、アブラハムはなおも神の約束を担い、それを信じ続けていくために、今99歳になって再び、いや四度(よたび)、神に呼び出され、神の命令を聞かされているのです。

 4度目の契約更新となるこの章には、「契約を立てる」「契約」という言葉が何度も用いられています。一般にアブラハム契約と呼ばれる神とアブラハムとの契約について、その特徴などをここから学んでいきましょう。第一の特徴は、この契約のイニシャチブ・主導権はすべて神の側にあるということです。2節では、「わたし(神)はわたしの契約を立てる」、4節でも、「わたしがあなたと結ぶわたしの契約」と神は言われます。この契約を結ばれるのは神です。また、この契約を実行し、実現するのも神です。アブラハムとサラにはまだ子どもがおらず、二人ともすでに年老い、人間的には子どもが生まれる可能性はほとんどなくなっているのですが、にもかかわらず神が、この契約をお立てになった神が、アブラハムの子孫を増やし、彼を多くの国民の父とされると言われます。アブラハムはこの契約のために神によって選び出されました。神の契約にはこのような神の側の恵みの選びがあり、また神ご自身がその契約を実行されるという確かな約束があるのです。アブラハムはその神の契約のみ言葉を聞き、それを信じる以外にありません。また、それで十分なのです。

 カナンの地を受け継がせるという契約についても、7節では「わたしはあなたと子孫との間に契約を立てる」と神は言われます。アブラハムはカナンの地に来て24年、しかし未だその地の一角をも所有しておらず、旅人・寄留者のままですが、神はアブラハムをご自身が定められた国の民として、すべての必要な物を備えて彼を導かれます。アブラハムは地上では旅人・寄留者のままですが、すでに神の嗣業を受け継いでいるのです。わたしたちキリスト者が今すでに来るべき神の国の世継ぎとされ、神の国の民として生きる者とされているように。

 第二の特徴は、7節に「永遠の契約とする」、13節、19節でも「永遠の契約」といわれているように、契約の永遠性です。この契約の永遠性は、子孫を増やすという約束にも、カナンの地を受け継がせるという約束にも共通する特徴です。それはまた、神のすべての契約にも共通しています。「ノアの契約」にも、「アブラハム契約」、「ダビデ契約」にも、そして主イエス・キリストによって教会の民に与えられた「新しい契約」にも、この永遠性はみな共通しています。

 神はある時代のある特定の人物や特定の民を選んで契約を結ばれます。でも、その人物の生涯が終わり、その民の歴史が終われば、その契約は無効になってしまうということはありません。あるいは、その人物やその民が神の契約に違反したり、その契約を忘れてしまえば、それで契約が無効になってしまうということでもありません。たとえ、人間の側がそうなったとしても、神は決してご自身の契約をお忘れになったり、廃棄されたりすることはありません。神は人間たちのすべての不従順や、不信仰を超えて、あるいはまた、人間の死をも超えて、ご自身の契約を最後まで守られ、それを成就してくださいます。それゆえに、わたしたちは神の永遠の契約を覚えて、いつでも神に立ち返ることができます。死をも恐れることなく。

 神とアブラハムとの契約のもう一つの特徴は、その契約にはしるしが伴っているということです。【9~11節】。アブラハム契約には割礼というしるしが伴っています。このしるしには二つの役割があります。一つは、神とアブラハムの契約がアブラハムとのちの子孫とにとって永遠で確かな目に見えるしるしとなるということです。のちの子孫は割礼を受けることによって、神の契約が確かに自分たちの契約であるということを確認するしるしとなるのです。二つには、この割礼のしるしはアブラハムとのちの子孫とが神の契約に対して忠実であることのしるしとなるということです。割礼のしるしはアブラハムとのちの子孫とが神の契約を忠実に守り、その契約を喜びとし、神に応答し、服従し、信仰の歩みを続けていく目に見えるしるしとなるのです。

 割礼については11節以下に説明されているように、アブラハムの子孫として生まれた男子と、イスラエルの民の中に加えられた男子が、子どもの場合は生まれて8日目に、男性の性器の皮の一部を切り取るという儀式です。古代社会ではエジプト人やアラビア人の間で広く行われていました。古代社会では男子の成人式の儀式として行われていたのではないかと推測されていますが、アブラハムとその子孫にとっては全く違った意味を持っていました。生後8日目に行われると定められていますので、人間の成長段階とは関係なく、神との関係の中で、神が一方的に選び、神との契約の相手とされたという、人間のわざや意志や決断に先行する神の恵みの選びを表すしるしなのです。今日の教会は、小児洗礼の意義もまたそこにあると考えています。神の選びと神の恵みの契約は人間のあらゆるわざに先立っている、またそれを超えています。そのことは、大人になってから神の選びを受け、神の契約の民の中に加えられた人にとっても同様です。

 終わりに、もう一つここで特徴的なことについて触れておきます。それは、この4度目の契約更新の時にアブラハムとサラの名前が変えられたことです。【5節】。「アブラム」という前の名前の意味は、「わたしの父は高い、あるいは偉大である」という意味だろうと考えられています。「アブラハム」はそこで説明されているように「多くの民の父」という意味に理解されています。また、妻サラについては、【15~16節】。サライもサラもその正確な意味の違いは分かっていません。両方とも「女性の王、女性の君主」という意味だろうと考えられています。アブラハムの場合にもサラの場合にも、その名前の意味の違いがはっきりとは分かっていませんが、重要なことは二人ともここで神から新しい名前が与えられたということです。

 一般に古代社会に共通していることですが、特に聖書の民にとっては、名前はその人自身と、その人格、またその運命、生き方と深く結びついています。神から新しい名前が与えられるということは、神から新しい務め、使命が託されるということを意味します。100歳近くなったアブラハムと90歳近くなった妻サラとに今改めて神の使命が授けられ、彼らは共に神の契約を担って、その契約の成就に向かって進んでいくのです。わたしたちもまた、老いた者も若い者も共に、神の約束の民として、神の国の完成の時に向かって前進していくのです。

(執り成しの祈り)

〇主なる神よ、あなたがみ子イエス・キリストによってわたしたちと新しい契約を結んでくださり、わたしたちがあなたの福音を聞いて、罪ゆるされ救われた民として、み国の到来の時までみ手によって導かれておりますことを感謝いたします。わたしたちは時として迷い、疑い、また不安や恐れによって心を悩ます者ですが、どうかあなたのみ言葉によって、わたしたちを強くとらえてください。

み子、主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

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