7月4日説教「約束の子イサク誕生の予告」

2021年7月4日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:創世記18章1~15節    

    ルカによる福音書1章26~38節

説教題:「約束の子イサク誕生の予告」  

きょうの礼拝で朗読された創世記18章14節のみ言葉にまず注目したいと思います。「主に不可能なことがあろうか。来年の今ごろ、わたしはここに戻ってくる。そのころ、サラには必ず男の子が生まれている」。「主に不可能なことがあろうか」、この疑問文は、反語的な問いかけであって、「否、そんなことはない、主なる神にとっては何一つ不可能なことはない」ということを強調しています。神の約束のみ言葉を聞いて25年近くになり、今ようやくそれが実現されるという神の確かなみ言葉を聞かされた年老いたアブラハムとサラは、何と幸いなことでしょうか。ルカによる福音書1章37節で、同じように「神にできないことは何一つない」というみ言葉を聞かされた主イエスの母となるおとめマリアは、何と幸いなことでしょうか。そして、また、「主に不可能なことがあろうか」「神にできないことは何一つない」というみ言葉を礼拝の冒頭で聞かされているわたしたちは、何と幸いなことでしょうか。わたしたちはこのみ言葉を聞き、信じるために、きょうの礼拝に招かれているのです。このみ言葉を聞くことができる場、またこのことを信じる信仰へと招かれる場は、教会の礼拝以外にはありません。もし、わたしの耳に他のすべての言葉が聞こえず、あるいは他のすべての言葉が空しく消え去っていくしかないと思われる時でも、この神のみ言葉が強く響いているならば、それは何と幸いなことでしょうか。また、もしわたしが他のすべての言葉が信じられなくなり、絶望するほかない時でも、「主に不可能なことがあろうか」「神にできないことは何一つない」というこのみ言葉が信じられているならば、何と幸いなことでしょうか。  わたしたち人間にとっては、不可能なことは何一つないということは決して当てはまりません。むしろ、わたしたちはたくさんの不可能に取り囲まれており、時としてそのことがわたしを苦しめ、不安にし、いらだたせます。わたしが長く願ってきたこと、努力してきたこと、それらの多くは未だに実現していませんし、将来とも実現の可能性がないように思われます。その中には、いくつかの非常に切実な願いがあり、また信仰的な願いや祈りもあります。確かに、わたしたち人間は多くの不可能に取り囲まれているのです。真剣に人生に取り組もうとすればするほど、まじめに生きようとすればするほど、自分の能力の及ばないことがどんなに多くあるかを知らされると言ってよいでしょう。  しかし、わたしたち人間にとってはそうであることが確かだとしても、主なる神にとっては何一つ不可能なことはない、神のみ言葉には不可能はない、神がお語りになったことはことごとく実現するということを、聖書はくり返して語っています。そして、たくさんの不可能に取り囲まれているわたしたちにも、その神のみ言葉を聞き、「神には何も不可能はない」ということを信じる可能性は残されているという事実をわたしたちは思い起こすべきです。おそらくは、これこそがわたしたちに与えられている最大の可能性なのではないでしょうか。「主なる神には不可能はない」という聖書のみ言葉を聞き、それを信じることができるという大きな可能性へと、わたしたちはきょうの礼拝で招かれているのです。  では、アブラハムにとってこのみ言葉はどのような意味を持つのでしょうか。彼は75歳の時、神の約束のみ言葉を最初に聞き、それを信じて故郷カルデアのウルを旅立ち、神が示されたカナンの地へと移り住みました。神の約束の一つは、アブラハムの子孫を星の数ほどに増やし、神の祝福を受け継がせるということ、もう一つは、カナンの地を彼と彼の子孫との永遠の嗣業の地として受け継がせるということでした。けれども、それから25年近くが過ぎても神の約束はまだその実現を見ていませんでした。アブラハムも妻サラも年老いて、人間としての能力からみれば、子孫を授かるということは全く不可能な年齢に達していました。  そのようにして、アブラハムには全く可能性がなくなった時に、「主にとって不可能なことがあろうか」というみ言葉が語られ、「来年の今ごろ、あなたの妻サラには必ず男の子が生まれている」という神の約束の成就のみ言葉が語られているのです。わたしたちはここに至って、神の約束の実現が25年間もの長い間延期されてきたのは、アブラハムがこの神のみ言葉を聞き、信じるためであったのだということに気づかされるのです。「主なる神にとっては何一つ不可能はない」。アブラハムの不可能性のただ中で、全能なる神の可能性について語られているのです。いや、それだけではありません。このみ言葉はアブラハム個人に対して語られているだけでなく、すべての時代のすべての信仰者にとっての永遠の真理として語られている偉大な神のみ言葉なのだということに気づかされるのです。  さらにここで気づかされるもう一つのことは、全能なる神の可能性ついて語られる時、アブラハムの不可能が可能に変えられることになったということです。100歳と90歳という高齢の夫婦に神の奇跡によって子どもが与えられるようになるというのです。あらゆる不可能に取り囲まれているわたしたち人間に対して全能なる神の可能性が語られる時、わたしの不可能が可能に変えられるということなのです。そのようにして、神のみ言葉を聞き、信じるわたしたちのために、神は無から有を呼び出だし、死から命を生み出されます。  18章の冒頭を読んでみましょう。【1節a】。主なる神がアブラハムに現れて、彼と出会われることから、不可能のただ中にいたアブラハムに新しい可能性が開かれました。たくさんの不可能に取り囲まれているわたしたち人間に神が出会ってくださり、神の命のみ言葉を語ってくださり、それをわたしたちが聞き、信じる、そこからわたしたちの新しい可能性の道が開かれていきます。  神はここで3人の旅人の姿でアブラハムに出会われます。神は時に天使の姿で、あるいは人間の姿で、あるいはまた自然現象の雲や風、火、雷などによっても信仰者と出会ってくださいます。アブラハムは初めはそれが神の使い、あるいは神ご自身だとは気づいていなかったようです。いつの時点で気づいたのかは聖書の記述からは分かりません。2節では「三人の人」と書かれています。そのあとでは「その人たちは、彼らは」と言われています。10節でそのうちの一人が語ります。ところが、13節になって「主はアブラハムに言われた」と書かれ、14節では「わたしはここに戻ってくる」と言っています。16節以下のソドムに関する箇所では、16節では「その人たち」、17節では「主は」、19章1節では「二人の御使い」と言われていますが、それらはすべて神ご自身のことです。  パレスチナ地方の南部の夏の時期は非常に暑く、当時の遊牧民は昼にはテントの中で休んでいるのが一般的でした。アブラハムはテントの入り口で目を上げて3人の旅人が彼に向かって立っているのを見ました。昼の暑い中を旅行することはめずらしいことですし、またアブラハムがたまたま目を上げたら目の前に3人の旅人が立っていたということも不思議です。アブラハム自身はまだそのことに全く気づいてはいなかったのですが、神はこのようにして彼と出会われたのです。ヘブライ人の手紙13章1~2節には、おそらくこの場面を想起して、このように書かれています。「兄弟としていつも愛し合いなさい。旅人をもてなすことを忘れてはいけません。そうすることで、ある人たちは、気づかずに天使たちをもてなしました」。  旅人や客人を丁寧にもてなすことは古代近東諸国の遊牧民では一般的な慣習でした。そのことは、アブラハムとイスラエルの民にとっては特に意味あることであったということをわたしたちは知っています。アブラハム自身、このカナンの地で長く寄留者、旅人として過ごしてきました。また、イスラエルの民は400年間エジプトで寄留者として過ごし、そののちに主なる神によってそこから導き出されたという経験を持っていたからです。そこで彼らは旅人や寄留者をもてなすことを神から命じられていたのです。それは、神の導きと救いのみわざを忘れないためです。  アブラハムが3人の旅人たちを最大限の愛をもってもてなす様子が、生き生きと描かれています。彼はまず旅人の足を洗います。客人を木陰で休ませてから、急いで食事の用意に取りかかります。料理を並べてからは客人のそばで給仕をします。アブラハムは100歳近い老人とは思えないほどに、俊敏に行動していることがここでは強調されています。2節には「アブラハムはすぐに天幕の入口から走り出て迎え」とあり、6節には「アブラハムは急いで天幕に戻り」、サラには「早く」と命じ、7節でも「牛の群れのところに走って行き」、「急いで料理させた」と書かれています。アブラハムは若者のように、新しい命を注ぎ込まれた人のように行動し、客人たちをもてなしています。イザヤ書40章31節のみ言葉を思い起こします。「主に望みをおく人は新たな力を得、鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない」。神を信じる信仰者に与えられる力、命、希望です。 食卓でのアブラハムと客人の会話を読んでみましょう。【10~15節】。この突然の訪問者はアブラハムの妻がサラという名前であることを知っています。また、二人には子どもがいないということ、子どもが与えられるという神の約束が二人に語られていたということをもこの訪問者は知っているようです。それだけでなく、一年後には子どもが与えられるという話を聞いた時に、サラが天幕の入り口で笑ったということまでをも、彼らは見ています。それもそのはずです。主なる神はすべてを見ておられ、すべてをなさいます。神はアブラハムに対する約束を必ず実行されます。彼らの不可能を超えて、彼らの不信仰を超えて。 サラが笑ったのは、不信仰の笑いです。神のみ言葉がこの年老いたわたしの身に成就することなどあり得ないと考え、神には不可能なことは何一つないということを信じることができない疑いの笑いです。この個所では、アブラハム自身の反応については書かれていませんが、17章17節には、神の約束のみ言葉を聞いた時にアブラハムも笑ったと書かれていました。アブラハムにとっても妻サラにとっても、自分たちの現状を知っている彼らにとっては、「主に不可能なことがあろうか」というみ言葉を聞くことは大きな驚きであり、信じがたいことであるには違いありません。神のみ言葉の真実の前では、人間の不信仰と罪が浮き彫りになります。しかしまた、神はそのような人間たちの不信仰と罪の中で、彼らを通して、み言葉を成就さるのです。神にとっては不可能なことは何一つありません。わたしたちはそのことを信じる信仰へと招かれています。 (執り成しの祈り) 〇天の父なる神よ、あなたは天においてすべてのみ心を行われます。また、あなたは天において地の出来事のすべてをご覧になっておられ、すべてのことを知っておられます。主なる神よ、どうぞわたしたちを顧みてください。わたしたちを憐れんで、罪の世からわたしたちをお救いください。あなたがこの地ですべての人たちのために救いのみわざを行ってください。 主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

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