7月11日説教「あなたの敵を愛しなさい」

2021年7月11日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:申命記15章12~18節

    ルカによる福音書6章27~36節

説教題:「あなたの敵を愛しなさい」

 キリスト教は愛の宗教であると言われます。事実、愛は聖書の中心的な教えであると言えます。聖書の中には、「愛する」という動詞形と「愛」という名詞形の言葉が、旧約聖書と新約聖書で合計500回以上用いられていることからも、そのことが確認できます。愛という言葉が直接用いられていなくても、聖書はその全ページで愛について語り、また教えていると言ってよいでしょう。  聖書が語り、教えている愛は、まず第一には神の人間への愛です。神の人間への愛は、聖書の最初のページから読み取ることができます。創世記に書かれているように、神は人間をすべての被造物の頭(かしら)、冠として、ご自分のかたちに似せて、ご自分に最も近い生き物として創造されました。神はまた世界の民の中からイスラエルの民をお選びになりました。ここでははっきりと神の愛が語られています。申命記7章にはこのように書かれています。「主なる神があなたがたイスラエルの民を選ばれ、ご自身の民とされたのは、あなたがたが大きな民であったからではない。あなたがたはどの民よりも貧弱であったが、ただ、あなたがたに対する主なる神の愛のゆえに、神はあなたがたを奴隷の家エジプトから導き出されたのだ」(6~8節参照)。人間に対するこのような神の愛は、新約聖書に至って、神がご自身のひとり子をわたしたち罪びとの救いのために十字架におささげくださったほどにわたしたちを愛されたということによって頂点に達しました。  聖書はまた、わたしたち人間が神を愛すべきこと、さらにはわたしたちが互いに愛し合うべきことをも教えています。申命記6章4、5節ではこのように命じられています。「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」。また、レビ記19章18節では、「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」と命じられています。主イエスは、「神を愛しなさい」と「あなたの隣人を愛しなさい」というこの二つの愛の戒めが旧約聖書の中で最も大切な戒めであり、旧約聖書全体の戒めがここに集約されているとお語りになりました(マタイ福音書22章37~40節参照)。旧約聖書と新約聖書の教え、そしてまた主イエスの教えの中心また全体が愛であるということを確認できたと思います。  そこで次に、きょうの聖書のテキストであるルカ福音書6章27節以下を読んでいくことにしましょう。この個所は、マタイ福音書5章からの主イエスの「山上の説教」に対応して「平地の説教」と呼ばれています。ここにはクリスチャンでなくても一般的によく知られた聖句がたくさんあります。「敵を愛しなさい」(27、35節)。「あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬をも向けなさい」(29節)。「人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい」(31節)。これらの聖句は、聖書を読んだことがない人でも、一般的な教訓として口に出すことがありますし、キリスト教の愛、キリスト教の倫理の特徴として取り上げられることもあります。 けれども、あまりにもよく知られているために、かえって安易に理解されたり、誤解されたりすることもあります。たとえば、キリスト教の愛を一つの理想として追い求めたり、あるいは人に愛を強要するためにこれらの聖句を持ち出したり、あるいはまた、非暴力主義とか無抵抗主義という言葉で説明されたりすることもあります。ドイツの哲学者ニーチェはこれらの主イエスの教えを「弱者の倫理」「敗北者の倫理」と批判しました。  しかし、わたしたちは主イエスのこれらの説教を正しく理解するために、主イエスご自身と主イエスの父なる神にまず目を向ける必要があります。主イエスは35、36節でこのように言われます。【35~36節】。このみ言葉から二つの重要な点を聞き取ることができます。一つには、主イエスがここで語っておられる愛は、本来は憐れみ深い天の父なる神から来るということです。二つには、主イエスはわたしたちを天の父なる神の子どもたちとなるように招いておられ、その神の愛へと招いておられるということです。つまり、わたしたちが真実の愛とは何かを考える場合、まず自分自身や人間から目を離して、天の神へと向けなればならない、主イエスへと目を向けなければならないということなのです。  わたしたち人間は、本来どのような者であるのか、またわたしたちの愛は本来どのようなものであるのかについて、32~34節で主イエスはこのように言われます。【32~34節】。自分を愛する人を愛する愛は罪びとの愛だと主イエスは言われます。自分によくしてくれる人に善いことをするのは罪びとの善意だと主イエスは言われます。返してもらうつもりで貸すのは罪びとの親切だと主イエスは言われます。それらはみな罪びとの愛であり、罪のこの世に属する愛であり、それがわたしたちの愛なのです。わたしたち人間の愛は、愛すべきものを愛します。美しいものとか、価値あるものとか、自分にとって何か益あるものを愛します。しかし、主イエスはそのような愛は真実の愛ではない、それがどんなにか強く、激しくあっても、それは罪びとの愛であって、罪と死と滅びとに支配されていると言われます。真実の愛とは何かを考える時、わたしたちはまず自らの愛の貧しさと破れを告白しなければなりません。主イエスがここでわたしたちに命じておられる愛は、そのような愛ではありません。天の父なる神、情け深く、憐れみ深い神から来る愛のことであり、そのような愛へと主イエスはわたしたちを招いておられるのです。  では、神の愛とはどのような愛なのでしょうか。その神の愛へとわたしたちを招くとはどういうことなのでしょうか。35節で、主イエスは父なる神を「いと高き方」と呼んでおられます。この神の呼び名は、旧約聖書の時代からイスラエルの民が用いていた伝統的な神のお名前の一つであり、その中には、神は人間が住んでいるこの地から遠く隔たった高い所におられ、この地上にあるどんなものよりもはるかに高く、偉大であり、力あり、聖なる方、永遠なる方であるという意味が含まれています。それゆえに、神は人間世界やこの地上にある価値基準、あるいは倫理や社会秩序をはるかに超えておられます。それゆえにまた、神は「恩を知らない者にも悪人にも、情け深く」あることができるのです。そのような神の愛を、無条件の愛、無限の愛、一方的に神から与えられる愛ということができるでしょう。神の愛は、愛される対象によって左右されません。いやむしろ、神の愛は愛される価値がなく、小さなもの、貧しいものにこそ集中的に注がれるのです。  そして、そのような神の愛をわたしたちは神のひとり子なる主イエス・キリストによって、いよいよはっきりと知らされました。いと高きにいます主なる神は、地に住むわたしたち罪びとと共にいますインマヌエルなる神となってくださり、天から下って来てくださいました。聖なる永遠の神が罪と死とに支配されているこの罪の世に人間のお姿でおいでくださったのです。ここに、すでに神の偉大な愛が現わされています。神はわたしたち人間がまだおのれの罪に気づかず、神を知らず、神に背いていた時に、ご自身のみ子主イエス・キリストをわたしたちの罪のための贖いの供え物として十字架におささげくださいました。ここに、神の無条件の愛、無限の愛、一方的に罪びとに注がれる愛があります。主イエス・キリストをわたしの救い主と信じる時、その神の愛が信じる者たちに注がれ、罪ゆるされ、救われるのです。  「あなたの敵を愛しなさい」と命じられる主イエスご自身が、罪なき神のみ子でありながら、敵対する者たちの侮辱とあざけりの中を十字架の死に至るまで従順に父なる神のみ心に服従され、わたしたち罪びとに対する愛を示されました。「あなたを侮辱する者のために祈りなさい。あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬をも向けなさい」とお命じになった主イエスご自身が、十字架の上で「父よ、彼らをゆるしたまえ」と祈られ、わたしたち罪びとたちに対する無条件の愛、無限の愛をお示しくださいました。わたしたちはこの主イエス・キリストの愛によって、罪ゆるされ、救われるのです。これが35、36節で教えられている第一のことです。 第二のことは、主イエスはわたしたちを神の子たちとしてお招きくださり、神の偉大なる愛へとお招きくださるということです。神は恩を知らない者にも悪人にも、情け深く、憐れみ深いお方であるだけでなく、わたしたち信仰者をもそのような者になるようにとお招きになるのです。わたしたちをそのような者として造り変えてくださるのです。主イエス・キリストによって注がれた神の偉大な愛はわたしたちの罪をゆるし、わたしたちを神と結びつけ、わたしたちを神の子たちとするのです。  35節では、「あなた方はいと高き方の子となる」と言われ、36節では、「あなたがたの父が」と言われています。主イエスは説教を聞いている弟子たち、群衆、そしてわたしたちを、神の子たちと呼び、神をわたしたちの父と呼んでおられます。どのようにして、わたしたちは神の子たちとされるのでしょうか。もう少し深く探っていきましょう。ヨハネ福音書1章12、13節にこのように書かれています。【12、13節】(163ページ)。また、ヨハネの手紙一3章1~2節にはこう書かれています。【1節ab】(443ページ)。  わたしたちが神の子とされるのは、主イエスを信じる信仰によってであって、それ以外によるのではありません。また、わたしたちが神の子とされるのは神の大きな愛によるのであって、それ以外によるのではありません。父なる神の家から迷い出て、罪の支配下にあり、罪の子であったわたしたちを主イエスはご自身の十字架の死という尊い贖いの代価を支払って買い戻してくださいました。神の所有としてくださいました。この主イエス・キリストをわたしの救い主と信じ、告白することによって、わたしは神の子とされるのです。  神の子とされたわたしたちは、父なる神が情け深く、憐れみ深いように、わたしもまた隣人に対して愛と憐れみを示すことができます。なぜなら、わたしは罪の支配から解放され、自己中心的な自我から自由にされ、この世の欲望や所有欲からも解き放たれているからです。主イエス・キリストの十字架の福音に生かされているわたしたちは、喜んで神と隣人とに仕える者とされているからです。 (執り成しの祈り) 〇天の父なる神よ、愛の貧しさや破れを覚え、時に傷つき倒れるほかないるわたしたちを憐れんでください。わたしたちにあなたの真実な愛を注いでください。この世界をあなたの真実な愛で満たしてください。 〇主なる神よ、大きな試練の中にあって苦悩している日本とアジアと世界を顧みてください。あなたから与えられる慰めと平安といやしによって、まことの光と希望を見いだすことができますように。 主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

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