8月15日説教「アブラハムの執り成しの祈り」

2021年8月15日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:創世記18章16~33節

    マタイよる福音書18章15~20節

説教題:「アブラハムの執り成しの祈り」

 アブラハムが故郷カルデアのウルを出発して神の約束の地カナンに旅立った時、彼は妻サラと甥のロトも一緒でした。ところが、カナンの地でアブラハムとロトの財産や家畜が余りにも増えたために一緒には住めなくなり、二人は別れることになったことが創世記13章に書かれていました。きょうの18章16節以下を学ぶにあたって、その時のことを今一度振り返ってみましょう。13章10節以下を読んでみましょう。【10~13節】(17ページ)。ここにすでに、ソドムとゴモラの滅びのことが予告されていました。そしてきょうの個所18章16節以下で、アブラハムはソドムとゴモラの罪が非常に重いので、神がその地をお裁きになるために調査をされるという神のご計画を知らされました。そこでアブラハムは23節から、ロトが住んでいるソドムのための執り成しの祈りをささげます。この執り成しの祈りは、ソドムの人々のためと言うよりは、その町に住んでいる甥のロトの救いのための執り成しの祈りであると考えてよいでしょう。いやそれだけでなく、アブラハムのこの執り成しの祈りは、わたしたちすべての人間たちのため、すなわち、罪びとであり、神の裁きを受けなければならないわたしたと一人一人の救いのための執り成しの祈りであるのだと言うべきでしょう。アブラハムはこの執り成しの祈りによっても、後の世のすべての信仰者たちの「信仰の父」としての役割を果たしているのです。  そこできょうは、アブラハムの執り成しの祈りの最後の個所から読んでいくことにしましょう。【32~33節】。神はアブラハムの執り成しの祈りに応えて、ソドムの町にわずか10人でも正しい人がいたら、その町を滅ぼさないと言われます。その10人の正しい人たちのゆえに、その町を憐れみ、その町をおゆるしになると言われます。当時、ソドムの町に何千人、何万人が住んでいたのかは分かりませんが、13章に書かれてあったように、カナンの地で最もよく潤っていた地域であったので、かなりの人が住んでいたと思われます。何千人、何万人の中のほんの10人の正しい人たちのゆえに、神は他の人々、とは言ってもそれがほとんどなのですが、その町の人々全部をゆるすと言われます。神は他の多くの悪しき人々、罪びとたちに目を留めることをなさらず、彼らをその罪のゆえに裁くことをなさらずに、わずか10人の正しい人たちに目をお留めになり、その10人の正しい人たち、神を信じる人たちのゆえに、その町全体をおゆるしになるのです。  神はまたきょうここに集められた小さな神を礼拝するわたしたちの群れにも目を留めてくださるに違いないと信じます。日本の1億2千万人の神を知らず、神無き人たちにではなく、また秋田県の94万人にではなく、わずか20人ばかりの神を礼拝する人たちに目を留めてくださるに違いないと信じます。そして、この20人の執り成しの祈りゆえに、この国を、この町をゆるしてくださるに違いないと信じます。  けれども、もしわたしたちの中で5人欠けたらどうでしょうか。神にすべてを委ねて神に従うことをせず、自分の欲望と傲慢な思いを捨てきれず、悔い改めることをせず、心かたくなにして罪の中にとどまっている人が5人いたらどうでしょうか。その欠けた5人のために、神はこの群を見捨て、この国を見捨てられるのでしょうか。いな、神は確かに残った15人のゆえに、なおもこの群を顧みてくださり、この国とこの町を滅ぼすことはなさらないと信じます。しかしもし、10人だけになったらどうでしょうか。「その10人のためにわたしは滅ぼさない」と神は言われます。神は確かに10人の真実の礼拝者のゆえに、他のすべての人々をゆるしてくださるの違いないと信じます。  アブラハムは神への恐れのために正しい人の数を10人まで減らして、そこで神との対話を終えました。もしわたしたちがアブラハムよりも大胆にその数をさらに減らすとしたらどうでしょうか。もし、わたしたちの数が20人から10人減って10人だけしか残らなかったとしたら? 5人だけになったら? ただ一人だけになったら? それでも神はその一人のゆえに、他のすべての人々をおゆるしくださるのでしょうか。そしてさらに、神のお怒りを覚悟して,あえて問うとしたらどうでしょうか。もしここに、正しい人が一人もいないとしたらどうでしょうか。  ここまで数を減らしていくならば、わたしたちは絶望してしまわざるを得ません。いったい、わたしたちの中でだれが神のみ前に正しい10人に、そして一人に数えられることができるでしょうか。いったい、だれが神のみ前に正しく、罪のない義なる人として立つことができるでしょうか。使徒パウロはローマの信徒への手紙3章で詩編のみ言葉を引用しながらこう言っているではありませんか。「正しい者はいない。一人もいない。……、皆迷い、だれもかれも役に立たない者となった。善を行う者はいない。ただの一人もいない。……」(10~18節参照)。  おそらく、ソドム・ゴモラの町にも、わたしたちの礼拝の群れの中にも、神のみ前に正しく義なる人は一人もいないに違いありません。アブラハムが正しい人の数を10人まで絞って、それで終わりにしたのは、彼の謙虚さ、優しさなのかもしれませんし、神への恐れからだったのかもしれません。いずれにしても、たとえソドム・ゴモラの町に正しい人がただの一人もいないとしても、そしてまたわたしたちの中にもそうだとしても、それにもかかわらず、アブラハムは今ここで、ソドム・ゴモラのために執りなす人として立つことを許されている、神はそのアブラハムの執り成しの祈りをお聞きになっておられるということをわたしたちは大きな驚きをもって知らされるのです。それだけではありません。たとえ、わたしたちの中に正しい人がただの一人もいないとしても、わたしたちのすべてが倒れてしまわざるを得ないとしても、わたしたちの中にただお一人立ち続けてくださる方がおられる。わたしたちすべての罪びとたちのために、そのすべての罪をご自身の身に負われ、神の怒りと裁きを忍耐され、全き服従と全き献身によって、罪と死とに勝利された主イエス・キリストがおられ、その方が今も天においてわたしたちのために執り成しておられるということを、わたしたちは大きな驚きと感謝とをもって知らされるのです。ただお一人神のみ前に義なる方として、神のみ言葉をすべて成就された方として立っておられる主イエス・キリストが、今ここでわたしたちの礼拝の中心にも立っていてくださり、わたしたち一人一人を信仰によって義と認めてくださり、神の国の民として招きいれてくださるということを、わたしたちは大きな感謝と喜びとをもって知らされるのです。  では、アブラハムはどのようにしてソドムとゴモラのための、またわたしたちすべての信仰者たちのための執り成しの祈りへと導かれたのでしょうか。16節から見ていきましょう。【16節】。夏の暑い昼にアブラハムの天幕を訪れた3人の旅人たちは夕方涼しくなってからさらに旅を続けます。アブラハムは途中まで彼らを見送りました。これもまた旅人をあつくもてなす当時の習慣でした。しかしここではそれ以上の意味を持つことになりました。アブラハムはここで旅人たちのもう一つの目的を知らされます。  先に、アブラハムは旅人たちが彼の天幕を訪れた大切な目的を聞きました。それは、10節以下に書かれていたように、来年妻のサラに男の子が生まれるという神の約束についてでした。無から有を呼び出だし、死から命を創造される神が、年老いたアブラハムとサラに、奇跡によって、神の恵みによって、世継ぎとなる男の子が与えられるという知らせです。それに加えて、旅人たちのもう一つの目的は、17節以下に書かれているように、アブラハムが神に選ばれて、神が世界の歴史の中で行おうとしておられることの証人となり、世界のすべての民のための預言者としての務めを託されていることを彼に告げるということです。 【17~19節】を読んでみましょう。年老いたアブラハムとサラに男の子が生まれるという神の約束は、いわば彼らの家庭の中の出来事だと言えます。しかし、神の約束の成就は単に一つの家庭内のことにとどまらず、アブラハムに続く全世界の民、すなわち神の祝福を受け継ぐべきのちの世のすべての信仰者たちの信仰の歩みにかかわる出来事なのです。アブラハムの家庭内での出来事は、全世界の信仰の民と無関係ではありません。彼が神によって選ばれたのは、彼がのちの世の全世界の神の民に仕えるため、彼らに対して預言者としての務めを担うためでもあったということを、アブラハムはここで知らされます。 旅人は20節で続けて言います。【20~21節】。ここでは、旅人は「主」と呼ばれています。主なる神の使い、主なる神ご自身がアブラハムに預言者としての務めを与えます。彼はソドムとゴモラの滅亡という世界の出来事を傍観者として眺めていることはゆるされません。悪と罪に染まったソドムとゴモラの運命とその運命に神がどのようにかかわっておられるのかということの証人になるように、ここで召し出されているのです。アブラハムは一人の信仰者として、神に選ばれてすべて信じる人たちの信仰の父とされ、後の世の神の民の祝福の基となるように召し出されているアブラハムは、今新たに世界の出来事に対して、神がその出来事にどのようにかかわっておられるのかを知らされ、それゆえに彼自身がその出来事にどのようにどのように関与すべきなのかを悟るようにと招かれているのです。 そのアブラハムの務めが23節以下に書かれている、ソドムとゴモラのための執り成しの祈りなのです。アブラハムはすべて信じる信仰者たちの父として、世界のすべての罪びとたちのための執り成しの祈りの務めを授けられたのです。それによって、彼は世界の出来事に対して預言者としての、また祭司としての務めを果たしているのです。 そしてそれは、わたしたちキリスト者の務めでもあります。天におられる主イエス・キリストの執り成しによって、罪あるままで神の民とされ、この世界の出来事の証人となるべく召し出されているわたしたちキリスト者は、罪と死と滅びの中にあるこの世のために執り成しの祈りをする務めを託されていることを知らされます。神はわたしたちの執り成しの祈りを必ずやお聞きくださることを信じます。

(執り成しの祈り) 〇天の父なる神よ、あなたに選ばれ、召されて、すでに救いの恵みにあずかっているわたしたちが、その恵みに感謝して、あなたの救いのみわざの証人となり、すべての人たちの救いのために執り成しの祈りをささげる者となりますように。

〇天の神よ、どうぞこの世界を顧みてください。戦争や奪い合いのあるところに、和解と平和をお与えください。住む家を失い、貧困と混乱の中で不安におののく人々に、食料とテント、愛と分かち合いの心が届けられますように。感染症の拡大によって世界中の国々が大きな困難と試練の中にあります。神よ、どうぞあなたからのいやしと希望とが与えられますように。 主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

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