8月29日説教「裁きではなく、ゆるしを」

2021年8月29日(日) 秋田教会主日礼拝説教(牧師駒井利則)

聖 書:イザヤ書61章1~3節

    ルカによる福音書6章37~42節

説教題:「裁きではなく、ゆるしを」

 ルカによる福音書6章20節以下で、主イエスが教えられた「平地の説教」を続けて学んでいます。27節~36節では、愛することについて、特に、わたしの敵をも全く無条件で愛する特別な愛について教えられていました。きょうの礼拝で朗読された37節からは、ゆるしについて、裁くのではなく、人をゆるし、人に与えることについて教えられています。愛とゆるし、この二つはキリスト教の教えの大きな特徴です。キリスト教は「愛の宗教である」とよく言われますが、より正確には、「愛とゆるしの宗教である」と言うべきでしょう。

 その際に、わたしたちが第一に確認しておくべきことは、聖書が語る愛とゆるしは、その起源、その土台、またその目標は、主イエス・キリストの十字架の福音によってわたしたちに示された神の愛とゆるしにあるということです。神の愛とゆるしこそがわたしたちの愛とゆるしの起源、土台、また目標であるということです。

 そのことを語るみ言葉が、前回読んだ35節後半~36節です。【35節c~36節】。いと高き天におられる父なる神が、すべての人に対して、神から離れていた罪びとにも、神に背いていた悪人にも、情け深く、憐れみ深く、愛に満ちたお方であり、すべての罪をおゆるしになる神であられるから、そしてわたしたち一人一人が、主イエス・キリストの福音を信じる信仰によって、その神の愛とゆるしにあずかっているのだから、さらにはまた、わたしたちも愛とゆるしへと招かれているのだから、主イエスはここで「あなたの敵を愛しなさい」と命じ、「人を裁くな、ゆるしなさい」と命じておられるのです。

 ここで確認しておくべきもう一つの重要な点は、神の憐れみを受けているわたしたちが、その神の憐れみを手本にして、それを真似て、わたしもまた憐れみ深くなることができるということではなくて、そこには神の憐れみによる人間の罪のゆるしと新しい人間の再創造があるということをとらえておくことが重要です。わたしたち人間はみな無慈悲で、自己中心的で、愛も思い遣りもない、罪多い者たちです。そうでありながら、神の大きな憐みによって神に愛されており、主イエス・キリストの福音によって罪ゆるされているのです。わたしたちはすでに神に愛されている者たちとして、すでに神によって罪ゆるされている者たちとして、「あなたの敵を愛しなさい」「人を裁くな。ゆるしなさい」という主イエスの戒めを聞いているのです。そのような新しい歩みへと招かれているのです。

 では、37節から読んでいきましょう。【37節】。「人を裁くな」「人を罪に定めるな」「ゆるしなさい」、この主イエスの命令の背後には、常に自分を主と考え、自分だけは正しいとする人間の傲慢と、他の人を簡単に裁くことによって自分を防御し、自己主張しようとする人間の罪の姿があります。また、そのような人間の罪によって深く病んでおり、傷ついている現実社会があります。主イエスの時代もそうでした。主イエスは当時の宗教的指導者たちを非難してこう言われました。「あなたがたファリサイ派・律法学者たちは不幸だ。会堂では上席につき、広場では挨拶されることを好んでいる。人には背負いきれない重荷を負わせながら、自分では指一本もその重荷に触れようとはしない。やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。そのような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる」と(ルカ福音書11章37節以下、20章46節以下参照)。他の人を裁き、その小さな悪をもゆるすことができず、互いに裁き合い、奪い合っている人間の罪の現実、深く病み、傷ついている社会の現実、それは主イエスの時代から2千年を経た今も変わりません。

 そのようなわたしたちに向かって、主イエスは「人を裁くな」「人を罪に定めるな」「ゆるしなさい」とお命じになります。そして、その命令のあとには、「そうすれば、あなたがたも裁かれることがない」という約束を語っておられます。後半の約束の個所はすべて受動態です。「裁かれない」「罪びとだと決められない」「ゆるされる」。この受動態の文章の意味上の主語は神だと考えられます。聖書の中で、意味上の主語が隠されている受動態の文章は数多くありますが、そのほとんどは神が主語と考えられています。つまり、「あなたがたは神によって裁かれない」「あなたがたは神によって罪びとだと決められない」「あなたがたは神によってゆるされる」という主イエスの約束がここでは語られているのです。

 わたしたちはここからさらに深く主イエス・キリストの福音を聞き取ることができます。わたしたちに「人を裁くな」とお命じになった主イエスは、ご自身が罪なき神のみ子であられたにもかかわらず、わたしたちすべての罪びとたちに代わって、父なる神によって裁かれ、それによってわたしたちが受けるべき神の裁きを取り去ってくださったのだということをわたしたちは知らされるのです。それゆえに、わたしたちはだれをも裁くべきではないし、裁く必要はないのです。

また、わたしたちに「人を罪びとだと決めるな」とお命じになった主イエスは、ご自身が罪なき聖なる方であられたにもかかわらず、わたしたちすべての罪びとたちに代わって、罪ありとされ、十字架につけられて神の呪いを受けてくださり、それによってわたしたちを呪いから解放してくださったということをわたしたちは知らされるのです。それゆえに、わたしたちはだれをも罪びとだと決めるべきではありません。

そしてまた、わたしたちに「ゆるしなさい」とお命じになった主イエスは、罪の中で滅ぶべきであったわたしたちすべての罪びとたちの罪をおゆるしになるために、ご受難と十字架への道を進み行かれました。それゆえに、わたしたちはみな罪ゆるされ、罪の奴隷から解放されているのですから、すべての人をゆるすべきであり、ゆるすことができるということをわたしたちは知らされるのです。

 次の38節も同じ形式の文章ですが、「そうすれば」のあとに多くの約束が付け加えられています。【38節】。わたしたちはここでも、「そうすれば」以下の後半に注目したいと思います。神はわたしたち罪びとたちにご自身の最愛のみ子をすらお与えくださいました。わたしたちを罪から救うために、み子を十字架の死へと引き渡されました。わたしたちは何と大きな、豊かな、尊い恵みを与えられていることでしょうか。しかも、神はその恵みをわたしの体と心の隅の隅までもいっぱいにして、あふれるほどに与えてくださるというのです。わたしが他の人に惜しみなく与えれば与えるほどに、神はわたしにあふれるほどに豊かに与えてくださると言われる主イエスの約束は、わたしを感謝と喜びに満たし、わたしをすべての欲望と自我と傲慢から解放します。奪い取るのではなく、惜しみなく与える新しい人にわたしを再創造します。

 39節と40節は、マタイ福音書では違った文脈に置かれています。39節は、マタイ福音書では15章1節以下のファリサイ派と律法学者の偽善的な信仰を主イエスが非難される文脈に置かれています。また40節は、マタイ福音書10章24~25節では、教師であられる主イエスがこの世から迫害を受けるならば、弟子である者もそれと同じ道を行くことになるであろうという文脈に置かれています。

ルカ福音書のこの個所でも、主イエスは当時のユダヤ教の偽善的な指導者たちに対する批判を含め、正しく人を導く指導者のあり方を教えておられると理解してよいと思います。わたしたちキリスト者にとっての唯一の正しい指導者は、わたしのためにご自身の命を投げ出しくださった主イエス・キリストですから、いついかなる時にも、主イエスの導きに従い、主イエスがお示しくださる道を進むことこそが、わたしにとっての救いの道であり、命の道です。主イエスに聞き従っているならば、わたしたちは滅びの穴に落ち込むことはありません。

 41節以下を読んでみましょう。【41~42節】。マタイ福音書7章1~2節では、「人を裁くな」という主イエスの戒めにすぐ続いて、3節から「目の中にある丸太とおが屑のたとえ」が語られています。つまり、ルカ福音書では7章39節と40節がその間に挿入されていることになります。

人を簡単に裁こうとし、人をゆるすことができないわたしたちは、他人の欠点や過ちにはすぐに気づき、過敏に反応しますが、自分の欠点や失敗には目をつぶろうとします。自分にはもっと大きな欠点や欠けがあるのに、それには気づかずに他の人を裁こうとします。目の中にある丸太とおが屑という、グロテスクな比喩によって、主イエスはわたしの中にある罪の大きさに気づかせようとしておられます。自分の罪に気づかず、それを認めようとしない人間の愚かさ、かたくなさを語っておられます。

 それと同時に、罪を知らず、罪を認めず、依然として罪の中にとどまり続けようとするわたしたちのために、ただお一人、罪と戦うために十字架への道を進み行かれた主イエスへとわたしたちの目を注がせます。主イエスはわたしたちの目の中にあった大きな丸太をご自身の十字架の死によって取り除いてくださいました。わたしたちが信仰の目をもってわたしの隣人を見ることができるように、そしてその隣人のためにも主イエスは死んでくださったのだということを証しするようにとわたしたちを導いておられるのです。主イエス・キリストの十字架の福音を聞いているわたしたちは、裁きではなくゆるしの道を、奪い合うのではなく与え合う道を、そして共に罪ゆるされているゆるしの共同体としての道を、共に進む者たちとされているのです。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、わたしたちに与えられているあなたの大きな恵みを信仰の目を開いて受け止め、それに心から感謝し、またそれをわたしの隣人に分け与えることができますように、わたしたちを導いてください。

〇天の神よ、この世界に戦いや奪い合いではなく、和解と分かち合いをお与えください。人々の心に裁きではなくゆるしをお与えください。

〇心や体に痛みを覚えている人たち、重荷を背負っている人たち、道に迷い、不安や恐れの中にある人たち、飢えと渇きの中で泣き叫んでいる子どもたち、その一人一人に、神よ、あなたが共にいてくださり、必要な助けを与え、慰めと励ましをお与えくださいますように。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

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