9月12日説教「神の恵みを分かち合う教会」

2021年9月12日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:申命記24章17~22節

    使徒言行録4章32~37節

説教題:「神の恵みを分かち合う教会」

 使徒言行録4章32節からは、エルサレムの初代教会の信仰生活についてまとめの報告が書かれています。同じような報告は2章42~47節にも書かれていました。この二つの報告には似通っている点と違っている点があります。この二つの報告を比べながら学んでいきたいと思います。

 まず、それぞれの報告が語られている時期ですが、2章はペンテコステの日に教会が誕生して間もなくのころ、紀元30年ころの春から夏にかけて、エルサレム教会の会員数は2章41によれば3千人余りでした。きょうの個所は、それからおそらく数か月後、4章4節によれば教会員は男の数が5千にほどに増えています。ペトロとヨハネを中心とした主イエスの12弟子の宣教活動によって、エルサレム初代教会は大きく成長しました。それは、聖霊なる神のお働きです。ペンテコステの日に聖霊によって誕生した教会は、それ以後2千年間のすべての活動もまた聖霊なる神のお導きによります。そして、わたしたちの教会、秋田教会がこの地で130年近くの歴史を歩み続けることがゆるされたのも聖霊なる神の恵みと憐れみによることです。

 では、32節から読んでいきましょう。【32節】。2章の最初のまとめの報告でもそうであったように、ここでも、信じた人々・教会員の一致、結束がまず強調されています。2章42節では、「相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった」、44節では、「信者たちは皆一つになって、すべての物を共有し」、46節以下でも、「ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まって、……一緒に食事をし」と繰り返されていました。4章32節では、「心も思いも一つにし」という表現でまとめられています。

 聖書では「心」とは、人間の感情や意志、言葉や行いのすべてが現れ出る元、それらの源泉と考えられています。「心を一つにする」とは、喜びや悲しみ、泣き笑い、祈りと讃美、奉仕と献身、神のみ言葉を聞き、神を礼拝すること、それらのすべてを信者たちが一つの信仰共同体として共有し、一緒に経験することです。また、「思い」とは、聖書では多くの場合「魂」と訳されており、人間の命、人間が生きていることを意味しています。「思いを一つにする」とは、命を共有していること、一つの命を共に生きていること、いわば生命共同体であることを言い表しています。

 初代エルサレム教会に集められた信者たちがこのような一致と共同体としての交わりが与えられていたのはなぜであったのか、その答えは、32節の冒頭にあるように、「信じた人々の群れ」であったからにほかなりません。主イエス・キリストを信じる信仰による一致です。信仰によって、彼らはさまざまな違いにもかかわらず、「心も思いも一つに」することができたのです。生まれた環境や性格や持っている能力や社会的地の違いにもかかわらず、その違いを持ちながらも、その違いをはるかに超えた主イエス・キリストを信じる信仰の恵みによって、彼らは一つの共同体とされているのです。主イエス・キリストの十字架と復活の福音によって、それを信じる信仰によって、共に罪ゆるされた共同体とされ、共に復活の命を生きている共同体として、共に来るべき神の国の到来を待ち望んでいる共同体として、「心も思いも一つに」しているのです。

 32節後半の「一人として持ち物を自分のものだと言う者はなく、すべてを共有していた」は内容的には34節以下に続きますので、先に33節を読みましょう。【33節】。「使徒たち」とは、主イエスと地上の歩みを共にした12弟子たちのことです。イスカリオテのユダの代わりにマティアが補充されたことが1章に書かれていました。1章22節では、彼らは「主の復活の証人」になるべきだと言われています。弟子たちは主イエスの地上でのご生涯の証人であり、十字架の死の証人であり、そして主の復活の証人となりました。

 「証人」にはいくつかの務めがあります。第一は、そのことの目撃者となることです。主イエスの地上でのご生涯と十字架の死と復活が確かに歴史の中で起こった出来事であり、世界史の中で、わたしたち人間の歴史の中で起こった事実であることを証しする務めです。主イエスの地上のご生涯と十字架の死と復活は、だれかが創作した物語ではなく、単なる思想とか教でもなく、歴史の中での出来事であることを弟子たち・使徒たちは証ししています。

第二には、彼らが見た主イエスの出来事が自分たちのための救いの出来事であると信じ、その救いの恵みによって生きるということです。主イエスの出来事はただ外から観察したり、記録したりする出来事ではなく、その出来事がわたしにとって意味を持ち、わたしの生き方を根本から変え、それまでは死に向かって進んでいたわたしが、主イエスの復活によって、新しい命に向かって進んでいくという、わたしの救いの体験となるのです。

第三には、彼らが主イエスの出来事を教会の民と全世界の民にとっての救いの恵みとして語り伝え、説教をするということです。33節によれば、使徒たちは初代エルサレム教会で説教職を担っていたと推測されます。

すでにわたしたちはこれまで使徒言行録に記録されている使徒ペトロの説教を3回聞いてきました。2章14節からのペンテコステの時の説教、3章12節からのエルサレム神殿広場での説教、そして4章8節からのユダヤ最高議会での説教、それらの3回の説教の内容は主イエスの十字架の死と復活であったということをわたしたちは見てきました。エルサレム初代教会でそうであったように、そののちの2千年の教会も同じように、主イエスの十字架の死と復活の福音を語り、聞き、信じることによって生きてきましたし、これからもそうです。主イエスの十字架の死によって罪が贖われ、救われた民として、そして主イエスの復活によって罪と死と滅びから解放され、朽ちることのない永遠の命の約束に生きる民として、わたしたちの教会は歩み続けるのです。

33節の後半は、「皆、人々から非常に好意を持たれていた」と訳されていますが、原文では口語訳聖書のように、「大きな恵みが彼ら一同に注がれていた」と訳すのがよいと思われます。「大きな恵み」とは、神から与えられた恵みと理解すべきです。神から与えられた大きな恵みによって、ひとたび十字架の主イエスを見捨てて逃げ去った弟子たちが、再び呼び集められ、聖霊の賜物を受けて、主イエスの復活の証人として立てられました。土の器に過ぎない彼らが、主イエスの復活の証人として立てられ、永遠の命をもたらす神のみ言葉の説教者として立てられているのです。それは神の大きな恵みによることです。

また、この神の大きな恵みは32節後半と34節とを結びつける役割をも果たしているように思われます。すなわち、エルサレム初代教会に神の大きな恵みが注がれていたゆえに、教会は神の恵みで満たされ、すべての信者が神の恵みで豊かにされていたので、「一人として持ち物を自分のものだと言う者はなく、すべてを共有していた」のです。

そしてさらに、教会に神の大きな恵みが与えられていたゆえに、「信者の中には、一人も貧しい人がいなかった」と34節で言われているのです。34節以下には、一般にエルサレム教会の原始共有社会とか、愛の共有制度と呼ばれたりする特徴ある共同生活が描かれていますが、そのような共有生活を可能にしている土台が、神の大きな恵みであったということをも、わたしたちはここで確認することができます。

同じような共有生活については2章44~45節にこう書かれていました。【44~45節】。4章ではより具体的に、【34節b~35節】と説明されています。神の恵みによって豊かにされている信者たちは、だれ一人自分の持ち物を自分だけに独占することなく、すべての所有欲から解放されており、またそれゆえに、だれ一人貧しくて飢えたり、不足して困窮したりする人はなく、もちろん自分の持ち物を誇ったり、他者から奪ったりすることはなく、互いに与え合い、互いに分かち合うという、愛の共同体が形成されていたのです。

エルサレム教会の愛の共有生活とはどのようなものであったのかを、ここに描かれている短い記述から正確に再現することは難しいと思われますが、いくつかのことを読み取ることができます。まず、この共有生活は一つの制度とか規則ではなかったということは明らかです。したがって、近代社会の共産制度とは根本的に違っています。エルサレム教会の信者が持っている財産のすべてが法的に個人から教会へ移されるとか、個人の所有が法的に禁止されているというのではありません。各自が信仰による自由の中で、感謝をもって神にささげられたものとして、自分の持ち物や財産を売り、その代金を教会にささげました。使徒たちはそれを、神のみ言葉の恵みをすべての人に語り、分かち与えるのと同様に、必要な人に分配しました。それはすべて信仰による交わりの中で、愛による分かち合いとして行われていました。それは、主イエス・キリストの福音によって罪ゆるされ、新しい命を与えられ、来るべきみ国を待ち望んでいる信仰共同体としての共有生活でした。

教会に召されている信者たちは、主イエス・キリストの十字架の死によって、その尊い血の値によって贖われ、主キリストのものとされています。すべての信者に神の救いの恵みが豊かに与えられています。だれも地上の財産によって富む必要はありません。だれも自分の所有物に縛られることもありません。それゆえに、だれも乏しい人はいません。主イエス・キリストにある信仰者はすべて神の恵みによって豊かにされ、富む者とされています。それゆえにまた、主キリストにある信仰者はみな、惜しみなく与え、惜しみなくささげ、惜しみなく分かち合う信仰共同体とされているのです。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、わたしたちが日々にあなたから与えられている豊かな恵みを、信仰の目をもって受け取り、心から感謝し、またそれを互いに分かち合う者たちとしてください。

〇天の神よ、この世の過ぎ去り、朽ちいくものを追い求めるのではなく、永遠の命であるあなたのみ言葉によって生きる者としてください。

〇神よ、深く病んでいるこの世界を憐れんでください。傷ついている人、悲しんでいる人、孤独な人、重荷を負っている人を、憐れんでください。一人一人にあなたからの慰めと励ましが与えられますように。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

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