10月3日説教「真の神であり、真の人」

2021年10月3日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:イザヤ書53章1~10節

    フィリピの信徒への手紙2章1~11節

説教題:「真の神であり、真の人」③

 『日本キリスト教会信仰の告白』の冒頭の文章、「わたしたちが主とあがめる神のひとり子イエス・キリストは、真の神であり真の人です」、この個所の「まことの神であり、まことの人」について、これまで2回にわたって学んできました。きょうは3回目です。この一句に、これだけの時間をかけて学ぶ理由は、それだけこれが重要な告白であるからです。わたしたちが救い主であると信じている主イエス・キリストは、永遠に、まことの神、完全なる神であり、また同時に、永遠に、まことの人、完全な人であられる。そのようなまことの神であり、まことの人であられる主イエス・キリストこそが、わたしたちの罪を、一回の十字架の死によって、完全に、永遠に、贖うことができ、わたしたちのすべての罪をゆるすことができ、また、わたしたちに復活の希望を与えてくださり、わたしたちの死すべき体を朽ちることのない霊の体に変え、神の国での永遠の命の約束をお与えくださる。そのようにして、わたしたちの唯一の、完全な救い主であられる。これがわたしたちキリスト者の信仰の中心だからです。もし、主イエスが、まことの神ではないとか、まことの人ではないということになれば、わたしたちの救いは不完全なものになってしまうからです。

キリスト教会はこれまでの2千年の歴史の中で、主イエス・キリストはまことの神であり、まことの人であるという信仰告白を確立するために、それを否定する様々な異端的な教えと戦ってきました。「まことの神であり、まことの人」という告白が最初に確立されたのは、紀元451年に小アジアのカルケドンで開催された世界教会会議で決議された『カルケドン信条』においてでありましたが、その後の16世紀、宗教改革の時代、大きな世界戦争を引き起こした20世紀、そして今日わたしたちが生きている21世紀と、いつの時代にも教会はさまざまな異端的な教えと戦い、また教会の外からの多くの誘惑やチャレンジと戦いながら、主イエスはまことの神であり、まことの人であるという信仰告白を貫き通してきました。

近年になってからのいくつかの例を挙げるならば、現在のキリスト教三大異端と言われる統一協会(正式にはは世界平和統一家庭連合)、ものみの塔(エホバの証人とも言います)、それにモルモン教、これらの異端はみな一様に三位一体論を否定し、主イエスがまことの神であり、まことの人であるという信仰告白を放棄しています。その結果として、主イエス・キリスト以外にも救い主がいるかのように教えています。それらの教派の創立者、教祖やその教えが、主イエス・キリストと聖書以外にも、救いに必要な役割を演じています。

第二次世界大戦のドイツでは、ドイツ第三帝国総督ヒトラーがドイツ国民の救い主として、神のようにあがめられていました。日本でも天皇は現人神とされ、国民は絶対服従を強いられました。その中で、戦時下の教会は主イエスのみが唯一の救い主であり、まことの神、まことの人であるとの信仰告白を貫き通すことができなかったという、大きな破れや欠けを覚えざるを得ません。わたしたちの身近にも、多くの神々と言われるものがあり、わたしたちの心を支配しようとするさまざまな神のような存在にわたしたちは取り囲まれています。

そのような中で、わたしたちが主イエス・キリストがわたしたちの唯一の救い主であり、まことの神、まことの人である。この主イエスにわたしたちの救いのすべてがある。わたしたちの命のすべてがある。わたしたちが生きるべきすべての道が示されていると告白することは、確かに困難な信仰の戦いを必要とします。けれども、長い教会の歴史と伝統を受け継ぎながら、今も生きて働きたもう聖霊なる神のお導きを信じながら、また最後の勝利をお与えくださる主イエス・キリストを仰ぎながら、前進していくことがゆるされているのです。わたしたちが「主イエス・キリストはまことの神であり、まことの人です」と、正しく告白することこそが、その信仰の戦いを力強く進めていく力になるのです。

前回は、主イエス誕生の記録、それはマタイによる福音書1章とルカによる福音書1、2章に書かれていますが、その中で主イエスが誕生の時から、まことの神であられたことが繰り返して告白されていることを確認しました。主イエスはヨセフとマリアの子としてお生まれになりましたが、その命は聖霊によるのであり、そこには人間の営みが全く関与しておらず、100パーセント神のみわざであり、神から生まれた神のみ子であり、まことの神であるということが書かれています。『使徒信条』で「おとめマリアから生まれ」と告白しているとおりです。

主イエスが神のみ子であり、神ご自身であるという聖書の教えをさらに挙げていきましょう。第一に、主イエスの説教が神の権威によって語られたということ、預言者や律法学者のようにではなく、権威ある者のように語られたことを多くの人々が驚いたと、マタイ福音書7章28節に書かれています。主イエスがお語りになる言葉は、神のみ言葉そのものでありました。ルカ福音書4章には、主イエスが故郷ナザレの会堂で説教されたときに、イザヤ書のみ言葉を朗読されたあとで、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と言われました。主イエスは神のみ言葉を預言したり、またそれを解説されるのではなく、主イエスが神のみ言葉をお語りになるまさにその時に、神のみ言葉を成就され、神の救いのみわざを実行される、神ご自身であられるのです。

第二には、主イエスは神の権威によって罪のゆるしを宣言されました。罪をゆるすことは神以外にはできません。罪は神に対するわたしたち人間の不正であり負債であるからです。それをゆるすのは神だけです。主イエスは「娘よ、あなたの罪はゆるされた。安心して行きなさい」と言われ、「子よ、わたしはあなたの罪をゆるす」と言われ、「婦人よ、わたしはあなたを罰しない。お帰りなさい。これからはもう罪を犯さないように」と言われました。主イエスはまた十字架の上で、「父よ、彼らをおゆるしください」と祈られました。主イエスの地上の歩みのすべては、そして特に十字架の死は、まことの神として、神の権威とあわれみによって、人間の罪をゆるすための歩みでありました。まことの神である主イエスこそが、また主イエスだけが、わたしたち人間の罪を完全にゆるすことがおできになります。

第三に、主イエスはまた、神の権威によってガリラヤ湖の嵐を静められ、湖の上を歩かれ、多くの病める人をいやされました。不治の病と考えられていた重い皮膚病の人をいやされ、生まれつき目が見えない人の目を開かれ、悪霊に取りつかれている人から悪霊を追い出されました。それらの奇跡のみわざは、主イエスが神の権威によって自然を支配しておられること、神がお造りになったすべての被造物の主であられること、そしてこの世の人間たちを悩ましているすべての悪霊、悪しき力をご自身の支配下に置かれ、新しい神のご支配、神の国を来たらせる神のみ子であられることを証ししています。

第四に、主イエスは十字架の死によって、ご自身が神のみ子としての罪も汚れもない清い血、尊い血を流され、その血をわたしたちすべての人間の罪の贖いのための供え物としておささげになり、それによってわたしたちを罪の奴隷から解放してくださったということです。旧約聖書時代には、エルサレムの神殿で、聖別された動物の血がイスラエルの民の罪を贖うためにささげられていました。しかし、それは人間の血の代用品であるゆえに、不十分な贖いでしかありませんでした。そのために、エルサレムの神殿では毎日繰り返して動物の犠牲がささげられていました。

ただ、神のみ子であられ、まことの神であられる主イエス・キリストの聖なる血だけが、すべての人の罪を永遠に贖う力を持っているのです。まことの神であられる主イエス・キリストの十字架こそがわたしたちの唯一の、そして完全な救いなのです。わたしたちは主イエス・キリストの十字架の福音を聞き、信じることによって、罪ゆるされ、救われるのです。まことの神であられる主イエス・キリスト以外には、わたしたちの救いはありませんし、どこかほかの場所に、ほかの人に、救いを求める必要もありません。

第五に、主イエスは十字架の死の後、三日目に墓から復活され、そして40日目に天に昇られました。今は父なる神の右に座しておられます。『使徒信条』の中で「全能の父なる神の右に座しておられます」と告白されています。主イエスは罪と死に勝利され、天に凱旋帰国されました。それによって、まことの神であられることを最終的に証しされたのです。主イエスは今もまことの神として、天の父なる神の右に座しておられ、わたしたちのために執り成しをしておられます。そして、終わりの日に、最後の審判の時には、わたしたちひとり一人の弁護人となって、わたしのかたわらに立ってくださり、わたしを神のみ前で義なる者と認めてくださり、わたしのすべての罪と重荷と労苦とを取り去ってくださり、朽ちることのない永遠の命を与え、神の国へと導いてくださるのです。まことの神であり、まことの人であられる主イエス・キリストが最後の日にこの地に再臨され、神の国を完成させてくださることを、わたしたちは希望と喜びとをもって待ち望むのです。

まことの神であられる主イエスは、また同時にまことの人であられます。主イエスがまことの人であられたということも、聖書の至るところで証言されています。主イエスはマリアからお生まれになりました。布でくるまれ、飼い葉おけの中に寝かされました。12歳の時、両親と一緒にエルサレムで過ぎ越しの祭りに参加されました。30歳の時、神の国の福音を宣べ伝えるために家を出られました。それからおよそ3年後、ユダヤ人指導者たちによって裁判にかけられ、十字架で血を流され、死なれ、墓に葬られました。主イエスは誕生から葬りまで、わたしたち人間と全く同じ道を歩まれました。

ヘブライ人への手紙4章15節には、「罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われた」と書かれてあり、またペトロの手紙一2章22節では、イザヤ書53章9節のみ言葉を引用して、「この方は、罪を犯したことがなく、その口には偽りがなかった」とあり、そしてコリントの信徒への手紙二5章21節では、「罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです」と教えられています。

神は、神ご自身であることをおやめにならずに、まことの人となってくださったのです。神は、神ご自身であることをおやめにならずに、まことの人となられ、しかもすべての罪びとたちにお仕えくださる僕(しもべ)・奴隷となられて、苦難と十字架の死の道を進まれたのです。それゆえに、まことの神であられ、まことの人であられる主イエス・キリストによって、わたしたちはみな罪ゆるされ、救われるのです。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、あなたが罪のこの世を顧みてくださり、愛してくださり、あなたのひとり子の十字架の血によって救ってくださいましたことを、心から感謝いたします。あなたに愛され、救われているひとり一人として、あなたと隣人とに仕える者となりますように、お導きください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA