10月10日説教「神を欺く罪」

2021年10月10日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:民数記20章1~13節

    使徒言行録5章1~11節

説教題:「神を欺く罪」

 紀元30年ころのペンテコステの日に誕生した世界最初の教会、エルサレム教会の生き生きとした宣教活動と目覚ましい成長について、使徒言行録2章から詳しく記録されています。これは、エルサレム教会に大迫害が起こって、教会員の多くがエルサレムから追放されることになった8章3節まで続いています。

この中で特に強調されているエルサレム教会の特徴を、きょうの説教のテキストととの関連で二つ挙げます。一つは聖霊なる神のお働きです。主イエスの十字架の死のあと、指導者を失った失意とユダヤ人からの攻撃の恐怖の中で絶望していた弟子たちの上に聖霊が注がれ、彼らは大きな力を与えられて大胆に神のみ言葉を語りだし、主イエスの復活の証人として立ち上がりました。最初に経験した迫害の中で、捕らえられ、法廷に立たされたペトロは、聖霊に満たされて、エルサレムの指導者たちの前でも恐れることなく、主イエスの復活を語りました。聖霊はエルサレム教会の命と力の源であったということを、わたしたちは確認してきました。これは使徒言行録全体に貫かれている特徴です。

 第二には、教会の一致と教会員の交わりの強さ、深さが強調されていました。この一致と交わりは、彼らの心と思い、行動のすべてにまで及んでおり、それが、財産の共有というかたちで具体化されていました。そのことが、2章44節以下と4章32節以下に報告されており、またその具体例として、4章32節以下のバルナバの行動と、きょうの礼拝で朗読された5章1節以下のアナニアとサフィラ夫妻の行動として紹介されています。初代エルサレム教会の一致と交わりがどのようなものであったのか、それは今日のわたしたちの教会に何を教えているのかについて、学んでいきたいと思います。

 まず、バルナバの例ですが、これは教会の一致と交わりの理想的な姿の例として紹介されています。バルナバとは「慰めの子」という意味を持つ名前であるということが4章36節に紹介されています。彼の本名はヨセフでしたが、使徒たちからはそう呼ばれていました。彼の名前は11章22節以下と13章1節以下に再び出てきます。バルナバはエルサレム教会とのちにはアンティオキア教会で、主キリストの教会のためによき働きをし、多くの人々に仕え、多くの人々に慰めを与えていたので、そのように呼ばれていたと推測されます。あるいは、それ以上に、彼自身が主なる神からの大きな慰めを与えられていたからかもしれません。

 そのバルナバが自分の所有していた畑を売って、その代金を使徒たちの足元に置きました。「足元に置く」とは、その代金を教会にささげたこと、また使徒たちがそのお金を管理していたことを言い表しています。使徒たちはそれを教会の貧しい人たちに配分していました。のちにこの務めは、6章で選ばれた7人の執事たちが引き継ぐようになります。

 このように、エルサレム教会ではすべての教会員が持ち物のすべてを共有にし、教会員が自由に自分の土地や財産を売却してその代金を教会にささげていました。また、必要に応じてそれを教会員に配分していました。しかし、それは一つの制度とか規則による強制ではなく、あくまでも信仰の自由による行為であり、各自の献身と愛の行為として行われていました。

 エルサレム教会のこのような財産共有には主に二つの信仰が背景になっていると考えられます。一つは、主イエス・キリストを信じる信仰によってキリスト者は地上の財産を所有する欲望から解放されているからです。主イエスによって罪ゆるされ、神の国の民として招かれているキリスト者は、地上では旅人であり寄留者であって、この地上のどこにも永住の住まいを持っていません。天におられる父なる神のみもとに、永遠の故郷を持っています。それゆえに、地上のいかなるものにも束縛されることはありません。

 もう一つには、主イエス・キリストを信じる信仰によって、キリスト者は一つの同じ神の恵みによって生かされ、豊かにされているからです。教会の民は神から与えられている救いの恵みによって一つの信仰共同体として結び合わされています。神から与えられているもろもろの恵みは、互いに分かち合うことによって、また他者に惜しみなく与えることによって、いよいよ豊かになっていきます。そして、神の恵みによって豊かにされているキリスト者にとっては、地上の富によって豊かになる必要は全くなくなります。

 次に、5章1節からはアナニアとサフィラ夫妻の例が取り挙げられていますが、これは財産共有の悪い例として、教会の交わりと一致を根本から破壊する例として挙げられています。これまでは理想的な信仰共同体として描かれてきたエルサレム教会に、ここで暗い影が入り込んできます。アナニアとサフィラ夫妻が自分たちの土地を売却し、その代金の一部をごまかして手元に残しておき、これが全部ですと偽り、それによって聖霊を欺き、神を欺いたために、神の裁きを受け、二人とも死の判決を神から受けて死んだということが報告されています。

 使徒言行録の著者であるルカはエルサレム教会の暗い側面であるこの不幸な事件をも率直に報告しているということを、わたしたちはまず注目したいと思います。教会はこの地上に建てられている限り、欠けの多い罪びとたちの集まりであるゆえに、さまざまなあやまちやつまずきを避けることはできません。教会に聖人たちの理想世界を期待するのは正しくありません。しかしまた、教会は主イエス・キリストの十字架によって罪ゆるされていることを信じている罪びとたちの集まりですから、群れの中で起こった過ちやつまずきをどのようにして乗り越えていくべきかについては、この世のもろもろの集団や社会・国家とは全く違った道を神から備えられているのです。わたしたちはこの個所からそのことを読み取っていかなければなりません。

 アナニアという名前は「主なる神は恵み深い」という意味を持ち、またサフィラは「美しい」という意味です。でも、二人はバルナバ「慰めの子」とは違って、その名前に全くふさわしくない行為を行いました。彼らはサタンの道具となって、教会の信仰による一致と愛の交わりを破壊し、聖霊なる神と父なる神を欺いたのです。

 3~4節のペトロの言葉から、エルサレム教会の財産共有は定まった制度でも強制でもなく、信仰による自由に根差したものであったということが読み取れます。【3~4節】。ペトロがどのようにしてアナニアが代金の一部だけを持ってきたことを知ったのかについては書かれていません。主イエスがユダの裏切りをあらかじめ見抜いておられたように、ペトロはアナニアの嘘を見抜く霊的な力が与えられていたのだと推測されます。ペトロは言います。「あなたは人間を欺いたのではなく、神を欺いたのだ」と。財産共有と自由なささげものは、制度でも規則でもなく、信仰による自由によってなされる行為であるゆえに、その行為に意図的な欺きがあるとすれば、それは信仰による自由を侵害することであり、それだけでなく、信仰をお与えくださった神ご自身に対する欺きなのだとペトロは言うのです。ここに、アナニアが犯した罪の重大さがあるのです。

 アナニアが行った悪と罪は、自分の財産をささげなかったことにあるのではなく、売却した代金を渡さなかったことにあるのでもなく、その一部をごまかして、ひそかに自分の手元に残しておき、あたかも全部をささげたかのように装ったという欺瞞的な行為にありました。そのようにして、自分を立派な信仰者に見せようとした偽善的な行為にあったのです。この行為はエルサレム教会の信仰による一致と愛の交わりを破壊し、否定するものです。それだけでなく、教会をお立てになり、その命と存在の源である聖霊なる神を欺き、そのお働きを否定するものです。この世の法律や倫理を基準にしているのではなく、神の救いのみわざそのものを破壊し、否定する罪がここでは問われているのです。

それゆえに、彼の行為には神の厳しい裁きが下されます。しかも、直ちに下されます。「この言葉を聞くと、アナニアは倒れて息が絶えた。そのことを耳にした人々は皆、非常に恐れた」と5節に書かれているとおりです。これは、何と身震いするほどの恐るべき神の裁きであることでしょうか。

妻のサフィラもまた同様の罪によって神の裁きを受けました。7節以下にそのことが書かれています。アナニアとサフィラ夫妻は共に神に仕え主キリストの教会に仕えるべきであったのに、共にサタンに仕え、罪に仕え、神と聖霊とを欺いたために、共に神の裁きを受け、同じ墓に葬られることになりました。

創世記に書かれているように、神が人間アダムを創造された時、ふさわしい助け手としてエバを創造されたのは、二人が共にエデンの園で喜びをもって神のみ言葉に聞き従うためでした。しかし、続けて書かれているように、アダムとエバは共に神のみ言葉に聞き従うのではなく、共に蛇の誘惑の声に聞き従い、共に神に禁じられていた木の実を食べ、罪を犯しました。それによって、二人は共に死すべきものとなりました。アナニアとサフィラはこのアダムとエバの罪を受け継いでいます。そして、直ちに死の判決を受けました。

アナニアの場合は、聖霊を欺き、神を欺いたことが彼の許されざる罪であると言われていましたが、サフィラの場合は、二人で示し合わせて、主の霊を試したことが彼らの罪であると9節で言われています。教会は聖霊によって誕生し、聖霊によって生き、聖霊によって導かれています。その聖霊を欺き、そのお働きを否定することは教会の死を招くことになります。神はそれをお許しになりません。

11節に、「教会全体とこれを聞いた人は皆、非常に恐れた」と書かれています。5節でも「このことを耳にした人々は皆、非常に恐れた」と書かれていました。この出来事が教会とその周辺の人々に大きな恐れを与えたことが強調されています。この恐れとは、聖書全体に共通している特別な恐れのことです。それは、天におられる神が地上の出来事の中に入り込んでこられ、その出来事に決定的な変化や変革を生じさせ、人間がだれも抵抗することができないような圧倒的な神の力と権威と威厳とが明らかにされる時に感じる恐れのことです。

このことと関連して、11節でもう一つ注目したい点は、ここで初めて「教会」(エクレーシア)という言葉が用いられているということです。2章に書かれていたように、ペンテコステの日にすでに教会は誕生していましたが、使徒言行録の著者ルカはこの個所に至るまで、教会という言葉をあえて用いなかったのではないかと推測できます。このあと、教会という言葉は23回も用いられているということからも、ここで初めて教会という言葉が用いられたことの意味を考えることができるのではないでしょうか。つまり、アナニアとサフィラ夫妻の出来事を通して、その時に生じた神への大きな恐れによって、教会は本当の意味で教会となったのだと著者は言っているのではないでしょうか。言葉を換えれば、教会とは神を恐れるべきことを知っている、事実、神を恐れている人たちの群れであるということです。教会は迫害をもこの世のいかなる権力をも、時に襲い来る災いや災害をも、決して恐れることはありません。なぜならば、教会はただお一人、人間の生と死とをご支配しておられる神を、最後の審判者であられ、信じる者たちと不信仰な者たちとを最終的にお裁きになる神をのみ恐れ、この神のみ前で忠実な僕であろうとする信仰者たちの群れ、それが主キリストの教会であるからです。わたしたちの教会も、神を恐れる信仰者の群れでありたいと願います。

(執り成しの祈り)

〇天におられる主なる神よ、わたしたちをすべての恐れから解放し、ただあなたのみを恐れる者としてください。あなたのもとにこそ、真実の平安があり慰めがあり、また希望があることを固く信じさせてください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

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