10月17日説教「約束の子イサクの誕生」

2021年10月17日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:創世記21章1~8節

    ヘブライ人への手紙11章8~12節

説教題:「約束の子イサクの誕生」

 創世記12章から始まった族長アブラハムの歩みについて続けて読んできましたが、きょうの個所でその時に与えられた神の約束の一つがようやくにして成就するというみ言葉を読みます。【21章1~2節】。アブラハムが最初に神の約束のみ言葉、すなわち、「あなたの子孫が地に増え、世界中の民の祝福の源となるであろう」という約束を聞いてからおよそ25年を経て、彼が百歳になってようやくその約束が実現されます。信仰の父アブラハムの25年の歩みは、神の約束の地で、神の約束のみ言葉の成就を待ち望む歩みでした。

けれども、わたしたちがこれまで学んできたように、その歩みは、挫折と疑いと失敗の歩みでもありました。いやそれ以上に、神が忍耐と愛とをもって、アブラハムから離れることなく、彼との契約を守り続け、導き続けてこられたという、神の救いの歴史であったのだということを、わたしたちは聞いてきました。

 そこで、きょう朗読された個所に入る前に、なお少しの間、神の約束の成就に至るまでの途中の道のりについて振り返ってみたいと思います。連続して聖書のテキストを取り挙げてきましたが、20章を読み忘れたことに気づいておられる人がいるかもしれません。20章は重要なテキストではないから省略したということではありません。この章全体のテーマはすでに学んだ12章10~20節と非常によく似ています。12章では、アブラハムは飢饉で食料が無くなったので、エジプトに下り、その時に妻のサラを自分の妹だと偽ってエジプトの宮廷に召し入れられるように計らったということが書かれていました。20章では、アブラハムはゲラルに移住した時に、妻サラを自分の妹だと偽って、ゲラルの王アビメレクに召し入れられることになったという、同じような内容が描かれています。一部の学者は、本来一つの出来事が二つの多少違ったかたちで伝承されたのではないかと考えています。アブラハムが同じような過ちを繰り返すはずがないという、彼を擁護したい意図もそこにはあるように思われますが、わたしたちはむしろアブラハムが同じような過ちを繰り返したにもかかわらず、神の契約は変わらなかったと理解したいと思います。

 では、12章と20章のアブラハムの過ち、失敗を二つのポイントにまとめて振り返ってみましょう。第一点は、アブラハムが神の約束の地を捨てたということです。神は「この地をあなたとあなたの子孫とに受け継がせる」と約束されて、アブラハムをカナンの地へと導き入れました。しかし、彼は飢饉の時に食料を求めてエジプトに移住しました。自分と家族を養うためとはいえ、神の約束の地を捨てるということは、パンだけで生きるのではなく、神のみ言葉を聞いて生きるべきである信仰者としては失敗だと言うべきです。

20章でゲラルの地へ移住した理由は具体的には書かれていませんが、ここでも約束のカナンを捨てています。ゲラルはパレスチナ地方の南部に位置し、そこでは王国が形成され、16節によれば貨幣制度があり、富み栄えていた都市であったと推測されますが、神の約束の地の外であることには間違いありません。アブラハムは先にエジプトに移住した時と全く同じ失敗をここでも繰り返しています。

 第二点は、妻のサラを妹だと偽って地元の人に紹介したことです。古代社会では、異国の地での法的な保護はほとんど期待できず、他の国からやって来た男が美しい奥さんを連れているのを見たらその夫を殺してでも自分のものにしようとすることがよく行われていたということです。アブラハムは自分の命を救うために、妻を妹だと偽って、エジプトでもこのゲラルの地でも、サラは王宮に召し入れられることになりました。

しかし、これには重大な過ちがありました。一つには、アブラハムは妻との夫婦の関係を投げ捨てたということです。自分の身を守るために、妻への愛と信頼を裏切ったのです。しかし、それ以上に深刻な過ちは、それによって神の約束をも投げ捨てたことになります。「あなたの子孫を星の数ほどに増やす」という神の約束は、アブラハムとサラ夫妻に与えられた約束でした。二人で共にこの約束を担っていかなければならなかったのに、アブラハムはそれを放棄したのです。それは神への不従順であり罪です。アブラハムはエジプトでもこのゲラルの地でも、同じ過ち、同じ罪を繰り返しているのです。

 しかしながら、今回もまた、決定的な場面で神が介入され、アブラハムとサラを危機から救い出されました。神は夢の中でアビメレクに現れ、彼がサラに触れないようにされました。神はアブラハムとサラに対する契約を守られました。そして、17~18節にこのように書かれています。【17~18節】。アブラハムは異教の王アビメレクとその国のために執り成しの祈りをする者に変えられています。そして、ここでもう一つ教えられていることは、神がすべての婦人たちの胎を閉ざすことも開くこともなさる権限を持っておられるということ、すなわち、子どもを与え、新しい命を生み出すのはただ神のみがなさるということがここで教えられているのです。そして、次の21章で、それまで子どもが与えられなかったサラに神の約束の子が与えられるという神の奇跡と恵みが語られていくことになるのです。

 21章1節に、「主は、約束されたとおりサラを顧み」と書かれています。長い間サラの胎を閉ざしておられたのが神であるならば、定められた時、神が良しとされた時に、サラの胎を開かれるのも神です。約束されたのが神であるならば、約束を成就し、実現されるのも神です。この神を信じ、この神のみ言葉を信じ続ける信仰者は幸いです。エジプトとゲラルでのアブラハムの失敗にもかかわらず、それだけでな、たびたびのアブラハムの疑いや迷いや不信仰にもかかわらず、神の真実と憐れみは絶えることなく、アブラハムとの契約は廃棄されませんでした。たとえ、罪と失敗を繰り返すほかにないとしても、この神のみ言葉を聞き続ける信仰者は幸いです。その人は神の顧みを受けるからです。

 「顧みる」という言葉は本来「訪れる」という意味です。18章10節では、「わたしは来年の今ごろ、必ずここにまた来ます」の「来る」と訳され、14節では、「来年の今ごろ、わたしはここに戻って来る」の「戻って来る」と訳されているのが同じ言葉です。アブラハムとサラに約束のみ言葉をお語りになった神は、その約束を成就されるために彼らのもとへとやって来られます。創世記12章で二人が最初に神の約束を聞いてから25年の時が過ぎていました。彼らはたびたび神の約束のみ言葉を疑い、忘れることがありましたが、神は決して彼らをお見捨てにはなりませんでした。彼らの不信仰と不従順とを超えて、また人間的な不可能を超えて、神の約束は成就の時を迎えます。11章30節によれば、サラは不妊の女で、子どもができない体質であったにもかかわらず、そしてアブラハムが百歳、サラが90歳という高齢になったにもかかわらず、神の奇跡によって、神の恵みによって、彼らに男の子が与えられたのです。神の約束の子の誕生です。それは、アブラハムとサラの家庭にとっての神の約束の成就であっただけでなく、アブラハム以後のすべての信仰者に対する神の約束の成就でもありました。この子によって、アブラハムに与えられた神の祝福がのちのすべての信仰者へと受け継がれていくからです。

 「顧みる」「訪れる」という言葉を聞くと、わたしたちは主イエスが天に昇られた時のことを思い起こします。使徒言行録1章11節にはこのように書かれています。「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる」。十字架につけられ、復活され、天に昇られた主イエスは、終わりの日に、再びこの地上に戻って来られます。そして、わたしたちの信仰を完成され、わたしたちをみ国へと招き入れてくださいます。再びおいでになる主イエスを待ち望むわたしたちの待望は決して空しく終わることはありません。主イエスはこの地を顧みてくださり、再び訪れてくださいます。

 1節に「主は、約束されたとおり」「さきに語られたとおり」、そして2節では「神が約束されていた時期」と、神の約束が確かであり、神のみ言葉が必ず実現するということが何度も強調されています。たとえ、人間の側の疑いや不信仰がどれだけ繰り返されようが、たとえ人間の側の可能性が限りなくゼロに近くなろうとも、神は無から有を呼び出し、死から命を生み出すようにして、ご自身の救いのご計画を実現なさいます。わたしたち人間は「主よ、いつまでですか。いつまで待たなければならないのですか。いつまでこの苦悩は続くのですか」と嘆いている間にも、神はご自身の救いのみわざを確実に前進させておられます。そのことを信じつつ、成就の時を待ち続ける信仰者は幸いです。

 【3~5節】。生まれた子に名前を付けるのは一般に父親の役割でした。けれども、この場合は、すでに神によってその名前が決定されていました。【17章19節】(22ページ)。洗礼者ヨハネの場合も、主イエスの場合も同じでした。神の約束によって与えられた子どもは、神からの特別な使命を託されています。そのことをあらかじめ明らかにするために、神はその子が生まれる前からその子にふさわしい名前を備えておられます。ヨハネ=神は恵み深い、イエス=神は救われる、イサク=彼は笑う、神の約束の子はそれぞれの特別な務めを神から与えられています。そして、神がその子をお用いになって、神ご自身がそのことをなしてくださるという保証のために、神はあらかじめその子の名前をお決めになるのです。

 では、イサク=彼は笑うという名前にはどのような務め、使命が託されているのでしょうか。【6~8節】。百歳と90歳の年老いた夫婦に神の奇跡によって男の子が与えられた。それは何という大きな恵みであることか、何という大きな喜びであることでしょうか。そのことを体験した老夫婦に心からの笑いがあふれ、そのことを聞いた人々にも心からの笑いが広がっていきます。そのようにしてすべての人々に心からの笑いをお与えくださる主なる神をほめたたえる感謝の歌が世界中に響き渡ります。そのために神はこの成就の時を定め、イサクと名付けられる一人の男の子を誕生させられたのです。

 したがってこの笑いは天の神から与えられた笑いであり、この世にあるもろもろの笑いよりもはるかに大きく、はるかに高く、力強く、そして永遠に変わることがない笑いであり、喜びです。それだけでなく、この世にある憂いや悲しみや憎しみ、怒り、あるいは疑いや不信仰をもはるかに超えて、それらのすべてを笑いに変える力を持っています。

 そのことと関連して、思い起こすことがあります。かつてアブラハムもサラも神から男の子の誕生を予告された時に、それが信じられないので笑ったということが17章17節と18章12節に書かれていました。【17章17節】(22ページ)。【18章12~15節】(23ページ)。アブラハムとサラのこの笑いは、不信仰から来る疑いの笑い、神をあざける笑いでした。しかし今、この不信仰の笑いは確かに信仰による笑いに変えられています。神は不可能を可能に変えてくださいます。疑いや不信仰をも心からの信頼と確信と喜びに変えてくださいます。この神を信じ、この神のみ言葉を聞き続ける信仰者は幸いです。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、わたしたちの中からすべての疑いや迷いを取り去り、憂いや悲しみ不安に変えて心からの笑いと喜びで満たしてください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

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