11月14日説教「死を忘れるな、そして、主を忘れるな」

2021年11月14日(日) 秋田教会主日礼拝・逝去者記念礼拝説教

(駒井利則牧師)

聖 書:詩編90編1~14節

    ローマの信徒への手紙5章12~14節

説教題:「死を忘れるな、そして、主を忘れるな」

 秋田教会の逝去者名簿を今回改めて整備しました。それによると、明治25年、1892年9月に秋田講義所として伝道を開始して以来130年近くの間に、信仰を持ってこの世を去った秋田教会員は約150人おられることが分かりました。教会員家族やその他の関係者で、秋田教会で葬儀を行った人たちを加えると、180人以上の逝去者がおられます。これらの方々一人一人の信仰の歩みが、そのまま秋田教会の歴史です。神の救いの歴史です。ヘブライ人への手紙12章1節にはこうあります。「こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競争を忍耐強く走り抜こうではありませんか。信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら」。

きょうはこれら証人たちの信仰の歩みを覚えながら、またその歩みを導かれた神の豊かな恵みを覚えながら、ご一緒に神のみ言葉を聞き、礼拝をささげたいと思います。

 きょう朗読された旧約聖書の詩編90編は、神の永遠性と人間のはかなさを歌った、よく知られた詩編ですが、この中にはわたしたちの多くが共感を覚えるみ言葉がいくつもあります。たとえば10節です。【10節】。詩人がこのように歌ったのは、今から2500年以上も前で、当時の平均寿命は50歳前後と推測されていますが、詩人はそれを大幅に長く見積もって70年から80年と言っています。これはおそらく神の豊かな恵みをいただいて長寿を与えられた信仰者のことでしょうが、それにしても70年、80年というのは、今日21世紀のわたしたちの平均寿命であるという点で、まさにこの詩編はわたしたちのことを歌っていると深い共感を覚えるのです。しかも、「得るところは労苦と禍に過ぎず」、「瞬く間に時が過ぎ去る」というみ言葉は、まさにわたしたちその年代に達した人たちの多くが思い抱く感情と一致するのではないでしょうか。

 しかし、わたしたちはこの詩人にただ共感を覚えるだけでは本当に聖書を読んだことにはなりませんから、さらに深くその真理に迫っていくことにしましょう。最初にも言いましたように、この詩編は神の永遠性と人間のはかなさをテーマにしています。【1~2節】。これが神の永遠性です。神は天地創造のはるか以前から神であられ、またこの世界が終わる終末ののちにも、永遠に神として存在しておられ、神として働いておられます。したがってまた、わたしがこの世に誕生するよりもはるか以前に、またわたしが地上を去ったのちにも永遠に神であられ、神としてわたしの前に存在しておられます。時が過ぎ、時代が変わり、国の支配者が交代し、新しいものが次々と造られては消え去っていく中で、神は永遠に同じお一人の神としてそれらのすべてを支配され、導いておられます。

 それに対して、人間のはかなさについては、【5~6節、10節】。聖書では人間が死すべき者であり、その存在がはかないものであることのたとえとして、草や花がしばしば用いられます。詩編103編15~16節には、「人の生涯は草のよう、野の花のように咲く。風がその上に吹けば、消え失せ、生えていた所を知る者もなくなる」。また、イザヤ書40章6~8節はさらに印象的です。「呼びかけよ、と声は言う。わたしは言う、何と呼びかけたらよいのか、と。肉なる者は皆、草に等しい。永らえても、すべては野の花のようなもの。草は枯れ、花はしぼむ。主の風が吹きつけたのだ。この民は草に等しい。草は枯れ、花はしぼむが、わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ」。

聖書の舞台となっている近東地域では砂漠や荒れ地が多く、雨季になって一斉に咲く花の美しさは目に鮮やかだと言います。それだけに、乾季になって、あっという間に草花が枯れてしまう光景は目に憐れに映るのでしょう。人間の生涯はそれらの草花と同じだと詩人は言います、朝には美しく咲いてはいても、夕になれば枯れていく花のようだと。しかも、その生涯を振り返ってみれば、労苦と災いだけであったと。

 詩編90編の詩人は、神の永遠性と人間のはかなさとを語っているのですが、その両者をただ単純に並べ、比較しているのではありません。人間のはかなさを嘆いて、人生をあきらめ、失望しているのでもありません。むしろ、この詩人は人間のはかなさと神の永遠性とが堅く結びついることを強調するのです。永遠なる神が人間のはかなさを最もよく知っておられ、それだけでなく、神ご自身が人間をはかない者にしておられるというのです。神が人間に死を定め、人間の命に限界を定めておられるということを詩人は告白し、それゆえに、この神こそがはかない存在である人間の生涯に意味を与え、その日々の歩みを豊かに祝福してくださるであろうということを信じ、またそれを願っているのです。ここに、この詩編の最も中心的なメッセージがあります。それを聞き取っていきましょう。

 3節を読んでみましょう。【3節】。「帰れ」とは、人間を塵に返す神のご命令です。創世記2章によれば、神は最初の人間アダムを土の塵から創造され、これに命の息を吹き入れられ、それによって人間は生きる者となったと書かれています。神は人間の命と死とをご支配しておられ、人間に対して「塵に帰れ、あなたの命をわたしに返せ」と言われるのです。人間の命は神から与えられ、神に返されるというのが聖書の、またわたしたちの信仰です。ヨブがすべてを失った大きな苦難の中で、「主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ」と神を賛美したように、すべての命が神から与えられた神のもの、それゆえに神に帰るべきものです。教会では死のことを召天と言います。天の神のみもとに召されるということです。天におられる神から「帰れ」と呼ばれ、神のもとへと帰るのが信仰者の死です。人間の命と死とは永遠なる神のみ手の中に置かれているのです。

 永遠なる神のみ前でのはかない存在である人間の死を考えるにあたって、ここでもう一つの重要な点があります。それは人間の罪です。【7~9節】。人間がはかない存在であり、死すべき存在であるのは、人間の罪のゆえであり、人間の罪に対する神の怒り、裁きによるのだということです。人間が罪を犯して神に背き、永遠なる神から離れ、命の主である神を捨てたこと自体が人間の死を意味するのですが、その人間の罪が最終的に支払わなければならない報酬が人間の現実的な死なのです

 わたしたちはここで二つのことを確認することができます。一つは、人間は自然に寿命が尽きて死んでいくのではなく、神とは無関係なところで死ぬのでもなく、どのような命も神のみ手の中に置かれているように、どのような死もまた、神のみ手を離れてあるのではないということです。わたしたちは、すべての命と同様にすべての死にも、そこには神の隠れたみ心があると信じるべきであり、また信じることができるのです。神は永遠であり、すべての造り主であられ、すべての命の主であられるからであり、神は永遠にそのような神として、わたしたちを捕らえていてくださるからです。すべての人の死にも、神はその人と共にいてくださいます。

もう一つのことは、人間の死は人間の罪に対する神の裁きであるという厳粛な事実です。創世記3章には、最初の人間アダムとエヴァが神の戒めを破って、禁じられていた木の実を食べ、罪を犯したために死すべき者となったことが語られています。これがいわゆる原罪、original sinです。すべての人間はこの原罪を受け継ぎ、生まれながらにして罪に傾いていると聖書は言います。また、パウロはローマの信徒への手紙5章12節で、「一人の人によって罪がこの世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。すべての人が罪を犯したからです」と書いています。

そこで詩人は続けて、【11~12節】と祈り求めます。「生涯の日を正しく数える」ことには二つの意味が含まれます。一つは、文字どおり、自らの人生の日数を数えることです。神は永遠なる存在ですから、その日数を数え終わることができませんが、人間はその日数を数えて、これで終わりという限界を持っています。人間のはかなさとは、人間は死すべき者であるという厳粛な事実のことです。「死を忘れるな」ということです。ある哲学者が言ったように、「人間は死に至る存在」なのです。詩人は人間のこの厳粛な事実を、永遠なる神との関係の中で、永遠なる神のみ前に立つことによって、知らされました。それゆえに詩人は、「生涯の日を正しく数えることを教えてください」と神に願い求めるのです。人間は永遠なる神のみ前に立つときにはじめて、本当の意味で、自ら限りある存在であり、死すべき者であり、神の裁きを受けて滅びなければならない者であることを知らされ、神のみ前で謙遜にされ、神を恐れる者とされるのです。そして、ただ自らのはかなさを嘆くのではなく、永遠なる神に目を注ぎ、神から与えられるまことの知恵を願い求めるようにされるのです。

「生涯の日を正しく数える」というみ言葉のもう一つの意味は、わたしの生涯の日々、その一日一日のすべてが、神から与えられた日として、神に覚えられている日として、神に感謝をささげながら生きるようにさせてくださいということです。「主なる神を忘れるな」ということです。わたしのすべての日々は神に覚えられています。神に導かれています。わたしの健やかな日も病む日も、わたしの幸いな日も災いの日も、神はすべてを知っていてくださいます。すべての日々に伴ってくださいます。そのことを覚えて神に感謝すること、それが「生涯の日を正しく数える」ことです。

 そのようにして、「死を忘れないこと」そして「主なる神を忘れないこと」、この二つを常に覚えること、それが人間に与えられた最大の知恵だと詩人は言うのです。わたしたちはさらに進んで、この二つのことが主イエス・キリストによって一つに堅く結ばれていることを知らされています。主イエスはわたしたち人間が自らの罪のゆえに死の判決を神から受けなければならなかったのに、罪なき神のみ子であられた主イエスが、わたしたちの罪をご自身の身に負われ、わたしたちに代わって神の裁きをお受けくださり、十字架で死んでくださったのです。それによって、わたしたちを死の判決から救い出してくださったのです。そして、主イエスは三日目に死の墓から復活され、罪と死とに勝利されました。主イエスの十字架の死の中にわたしたちの死があり、また主イエスの復活の命の中にわたしたちの新しい命があるのです。「主イエス・キリストの十字架の死と復活を忘れるな」、ここにこそ、わたしたちの祝福された生涯があり、祝福された一日一日があるのです。

(執り成しの祈り)

〇天の父かる神よ、あなたがこの教会に多くの信仰者をお集めくださり、その信仰の歩みを祝福し、お導きくださったことを、心から感謝いたします。どうか、今ここに集められているわたしたち一人一人をも、あなたの救いの恵みと平安とで満たしてください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

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