12月5日説教「神の永遠の計画に従い、人となられた主イエス」

2021年12月5日(日) 秋田教会主日礼拝説教・『日本キリスト教会信仰の告白』講解⑧(駒井利則牧師)

聖 書:イザヤ書42章1~9節

    ガラテヤの信徒への手紙4章1~7節

説教題:「神の永遠の計画にしたがい、人となられた主イエス」

 『日本キリスト教会信仰の告白』を続けて学んでいますが、なぜ『信仰告白』を説教で取り上げるのか、『信仰告白』について学ぶことの意義は何かということを絶えず確認しておくことが大切です。というのは、日本キリスト教会が1951年に日本基督教団から離脱して、39個の教会で新しい日本キリスト教会を建設した際の主な動機が、まさに『信仰告白』にあったからです。『信仰告白』を学ぶということは、わたしたちの秋田教会が日本キリスト教会に属する教会であることの原点なのです。

 戦時中の1941年に、日本のプロテスタント教会はほとんどすべてが日本基督教団に合同しました。これは、長老派の旧日本基督教会をはじめ、組合教会、メソヂスト派、バプテスト派など、多種多様な教派・教会の集合体でしたから、統一した信仰告白を持っていませんでしたし、政治形態も違っていました。そこで、戦後、信仰告白によって教会形成をしなければ真実の教会は建たないと考えた旧日本基督教会に属していた一部の教会が日本基督教団を離脱する決意をし、1951年(昭和26年)に新しい日本キリスト教会を建設し、ただちに信仰告白の制定に取りかかったのでした。

 日本キリスト教会が信仰告白によって立ち、宣教活動を行い、教会の一致と交わりを強める教会であるということの具体的な例は、わたし自身の信仰そのものがこの『信仰告白』を土台としていることにあります。わたしたちが信仰を告白し、キリスト者・信仰者となり、秋田教会の会員となった時、わたしは洗礼式で『日本キリスト教会信仰の告白』を誠実に受け入れると誓約しました。長老・執事に任職された時、日曜学校教師に就職した時にも『日本キリスト教会信仰の告白』に誠実に従うことを誓約しました。牧師が教師の職に就く時、教会に就職する時、あるいは教会を建設する時、あらゆるときに、わたしたちは『日本キリスト教会信仰の告白』を共に告白し、この告白のもとでの一致を確認します。『日本キリスト教会信仰の告白』を学ぶということは、わたしたちの信仰の原点、土台について確認することであり、またわたしたちが信仰告白のもとになっている神のみ言葉によって生きている群れであり、そこで告白されている主キリストを頭とする一つの群れであることを確認することでもあるのです。

 では、きょうは前回に引き続き「主は、神の永遠の計画にしたがい」から「人となって」までを取り挙げます。まず、この文章の主語を改めて確認しておきましょう。主語は「主」、「主イエス・キリスト」です。主イエス・キリストが神の永遠のご計画に従われたということがここでは告白されているのです。「神の永遠のご計画」と言えば、多くの人は神が教会や世界の歴史を、またわたしたち一人一人の信仰の歩みを永遠の救いのご計画にしたがって導いておられると考えるかもしれませんが、もちろんそうであることには間違いないのですが、ここでは主イエス・キリストご自身が何よりもまず第一に神の永遠のご計画に従われたと告白されているのです。神の永遠の救いのご計画は何よりもまず主イエス・キリストご自身に現わされている、主イエス・キリストが人となられたことに最もよく現わされていると告白されている点が重要なのです。

 ここではまだ、わたしたち人間のこととか、教会、世界のことは問題にされていません。もっぱら主イエス・キリストのことが語られています。このあとに続く告白もすべて主イエスが主語です。主イエスが誕生から十字架の死に至るまでの全ご生涯において、また復活と昇天、更には終わりの日の再臨に至るまで、そのすべてが父なる神の永遠なる救いのご計画に基づいていることであり、主イエスはその父なる神が備えたもうた救いの道を従順に歩まれた。そこにこそ、神の永遠のご計画が、文語体の『信仰告白』の言葉では、「永遠なる神の経綸」が、別の言葉では神の摂理、神の配剤が最もよく現わされていると、ここでは告白されているのです。

 この信仰から、それゆえにまた、わたしたちはこの世界と教会の、そしてわたしたち一人一人の神の摂理・配剤を固く信じることができるようにされているのです。なぜならば、主イエス・キリストご自身の歩みの中ですでに神の永遠なる救いのご計画が実現し、神の摂理、配済が確実に行われたゆえに、主イエス・キリストを救い主と信じるわたしたちにも神は確かに最も良き道を備えたもうからです。主イエス・キリストを救い主と信じる者たちにとっては、偶然とか、得体のしれない不気味な運命とかは全くなく、すべてのことが神の国の完成を目指していると固く信じることができるのです。ローマの信徒への手紙8章でパウロが語っているとおりです。【8章28~30節】(285ページ)。

 神は永遠の救いのご計画にしたがって、神の摂理と配済によって、世が始まる前から、わたしがこの世に誕生するはるか以前から、わたしを選び、わたしを救いの道へと招き入れ、終わりの日には栄光のみ国へ入れてくださり、わたしの信仰を完成させてくださる。それゆえに、わたしのすべての日々は、幸いな日も災いの日も、健康な時にも病める時にも、富も貧しさも、神の永遠の救いのご計画の中にあるのであり、神のみ心がなければ、わたしの髪の毛一本すらも地に落ちることがないと信じることができるのです。

 宗教改革の時代、1563年に制定された「ハイデルベルク信仰問答」の第28問では次のように教えられています。「神の創造と摂理を知ることから、わたしたちはどのような益を受けるのでしょうか」。答「どんな逆境の中でも忍耐強く、順境では感謝し、将来については、わたしの忠実な父によく信頼し、どの被造物も一つとしてわたしをかれの愛から引き離すことはないと確信するのです。というのは、すべての被造物がかれの御手の中にあって、かれの御意志がなければ、立ち上がることも身動きすることさえも、できないからです」(登家勝也訳)。永遠なる神の救いのご計画に従われた主イエス・キリストのご生涯が、まさにそのことをわたしたちに明らかにしています。

 次に、「人となって」という箇所を学びます。「人となって」とは、主イエス・キリストが人間としてこの世に来られたこと、すなわち主イエスの誕生のことを言います。神が人となられたことを言います。わたしたちは今その日を待ち望む待降節の中を歩んでいます。「神の永遠の計画にしたがい、人となって」と続きますから、神の永遠の計画は神が人となられたことによってその頂点に達した。主イエスがこの世に誕生されたことこそが、神の永遠の救いのご計画の最も重要な出来事であり、その第一の目的であった、あるいは最終目的であったということです。神の永遠の救いのご計画、神の摂理、神の配済は、主イエスがこの世に到来されたことによって成就した、その最終目的に達したということが、ここでは告白されているのです。

 きょうの礼拝で朗読されたガラテヤの信徒への手紙4章4~5節にはこのように書かれています。「しかし、時が満ちると、神は、その御子を女から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました。それは、律法の支配下にある者を贖い出して、わたしたちを神の子となさるためでした」。「時が満ちる」とは、神ご自身が救いのご計画の中で定めておられた時、その頂点、その最終目的に今到達して、という意味であることが理解されます。マルコによる福音書1章15節によれば、主イエスご自身もまたそのことを知っておられ、ガリラヤでの福音宣教の初めにこう言われました。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」。主イエスのこの世への到来と主イエスの神の国の福音の宣教が、神が永遠から計画しておられた救いのみわざを満たしたのです。いや、このことなしには、時は満たされることはありません。世界の歴史は満たされることはありません。わたしたちの人生も満たされることはありません。ただ、すべての時は過去という闇の中に消え去ってしまうだけです。「神の永遠の計画にしたがい、人となって」この世においでくださった主イエス・キリストだけが、すべての時を満たすことがおできになります。わたしたちの罪のために十字架で死んでくださった主イエス・キリスト、そして三日目に復活され、今も天の父なる神の右に座しておられる主イエス・キリスト、終わりの日に再びこの地においでくださる主イエス・キリストだけが、世界とわたしたちひとり一人の時を本当の意味で満たすことがおできになるのです。

 神が人となられたことを、マタイによる福音書とルカ福音書は、主イエスが誕生するクリスマスの出来事として描いていますが、ヨハネ福音書1章では、言葉(ギリシャ語ではロゴス)が肉となったという表現をしています。「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」(14節)。永遠の昔から神と共におられた言葉(ロゴス)が肉となってこの世に、わたしたちのところにおいでくださいました。また、1章29節では主イエスが「世の罪を取り除く神の小羊」と言われています。世の罪を取り除く神の小羊であられる主イエス・キリストによって、神の永遠の救いのご計画が満たされ、成就したのです。

 神は人となってこの世に来てくださったという出来事が、いかに驚くべき、大きな出来事であるかということ、またそこに神の偉大な愛が現わされているということを、聖書は至る所で証言しています。ヨハネ福音書3章16~17節にはこうあります。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」。また、フィリピの信徒への手紙2章6~11節にはこう書かれています。「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました」。

 神は天にとどまってはおられませんでした。また、罪のこの世をお見捨てにもなりませんでした。天におられる、永遠で全能なる神、罪なく汚れなき聖なる神が、この世に降って来られ、罪の世に入ってきてくださり、わたしたち罪びとたちと歩みを共にされ、それのみならず、わたしたちの罪をご自身に担われ、わたしたちに代わって十字架で死んでくださった。それによってわたしたちを罪と死と滅びから救い出してくださったのです。神が人となったということには、なんと大きく深い神の愛があることでしょうか。わたしたちはその大きな神の愛の中に招き入れられているのです。その神の愛に応答して、わたしたちも神と隣人とを愛し、仕えていくことが、わたしたち信仰者の歩みです。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、あなたが罪のこの世界を顧みてくださり、愛してくだり、み子を人間のお姿でお遣わしくださったことを心から感謝いたします。あなたが常にわたしたちと共にいてくださるインマヌエルなる神であることを信じます。どうぞ、この地であなたの永遠の救いのご計画が成就しますように。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

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