12月12日説教「迫害の中で命の言葉を語る」

2021年12月12日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:詩編23編1~6節

    使徒言行録5章17~26節

説教題:「迫害の中で命の言葉を語る」

 きょうの礼拝で朗読された使徒言行録5章17節以下には、初代エルサレム教会が経験した2回目の迫害のことが書かれています。最初の迫害については4章1節以下に書かれていました。4章では、ユダヤ人指導者たちによって逮捕されたのはエルサレム教会の代表者ペトロとヨハネでしたが、5章では18節に「使徒たちをとらえて」とありますから、ペトロを始めとして主イエスの12人の弟子たち全員が捕らえられたのではないかと推測されます。迫害の規模が拡大しています。初代教会の宣教の範囲が拡大されるとともに、迫害の規模もまた拡大していきます。

また、17節によれば、今回も迫害のきっかけをつくったのはサドカイ派の人たちでした。【17~18節】。サドカイ派はファリサイ派と並んで当時のユダヤ教の二大教派でした。サドカイ派は祭司や貴族階級によって構成されており、保守的で現実主義者でした。彼らは復活や奇跡や天使の存在などを信じていませんでした。4章ではペトロとヨハネが主イエスの復活について説教しているのを聞いたサドカイ派の人たちは、自分たちが否定している復活について語っているのを聞いて、腹立たしく思ってペトロとヨハネを捕え、牢に入れたと書かれていましたが、ここでは使徒たちによってなされていた病気のいやしや奇跡などの不思議なしるしによって民衆の多くがエルサレム教会に関心を寄せているのを見て、それを妬ましく思い、またもや使徒たちを捕えたのでした。

保守的で現実主義的な考えを持っていたサドカイ派の人たちにとっては、主イエス・キリストの十字架と復活の福音は自分たちの存在や信仰を根本的に否定するほどの脅威だったと推測されます。彼らはエルサレム神殿を中心とした当時のユダヤ教の制度の中で安定した地位と生活を営んでいました。その生活基盤が変えられることを望んでいません。新しい信仰や教えによって今の現実が変えられることは、彼らの生活が脅かされることになります。この時にはまだ彼らははっきりと悟ってはいませんでしたが、主イエス・キリストの十字架によって、エルサレム神殿で彼らが行っていた動物犠牲の礼拝がもはや不要になったのです。したがって、神殿での祭司の職も終わりになったのです。主イエス・キリストの十字架の死によって、完全で永遠の罪の贖いが完成されたからです。彼らはやがてそのことに気づくでしょう。そして、彼らに新しい救いの道が用意されていることにも気づくでしょう。けれども、彼らの多くは自らその救いの道を閉ざしていたのです。

ところが、牢に捕らえられている使徒たちに不思議なことが起こりました。【19~21節a】。公の牢は大祭司の官邸の地下にありました。投獄した犯罪人の逃亡を防ぐための厳重な構造と監視体制が整っていました。けれども、神の命のみ言葉、神の救いのみ言葉は、どのように太い鎖によっても、地下の頑丈な鉄格子によっても、つなぎとめておくことはできません。不思議な奇跡によって、使徒たちは牢獄から解放され、自由にされました。主の天使とは、主なる神がお遣わしになった天使で、神が地上で力強いお働きをなさる時にはしばしばこのようなお姿で行動されます。使徒たちは鉄格子に囲まれて、行動の自由を失っていました。しかし、神が彼らのためにみわざを行ってくださいます。神が牢獄の戸を開け、厳しい監視を打ち破り、彼らに自由をお与えになります。

ここで注目すべきは、天使によって使徒たちに語られた神のみ言葉です。神は使徒たちに、「神殿に行って、命のみこ言葉を、主イエス・キリストの福音を語れ」とお命じになります。使徒たちが牢獄から解放されたのは、彼らの身の安全のためではありません。彼らが迫害にあわないように、敵の手から逃亡させるためでもありません。いやむしろ、彼らが捕らえられたまさにその現場に彼らを派遣するためです。しかも、最も人目につきやすい神殿の境内に行きなさいと命じるのです。それだけではありません。彼らが捕らえられた原因となった神の命のみ言葉を再び語るために、主イエス・キリストの十字架の福音をユダヤ人に語るために、そこへ行けと命じるのです。彼らをまさに迫害のただ中へと派遣するのです。

そこで、使徒たちはその命令に従い、朝早くに神殿に行き、朝の祈りのために集まってきたユダヤ人たちに主イエス・キリストの福音を語ります。そのことは、当然彼らの再逮捕に通じる道であり、事実そのようになるのですが、神はあえて使徒たちを迫害のただ中へと派遣されました。それが神のみ心であり、ご計画なのです。そして、それが使徒たちの服従の道なのです。これによって、神の命のみ言葉が決してこの世の鎖によってつながれることはないことを神は明らかにされるのです。また、使徒たちの福音宣教の働きがこの世の権力によっても決して中止されることはないことを神は彼らに悟らせたもうのです。

ここにはもう一つのことが暗示されているように思われます。主イエス・キリストの福音が「この命の言葉」と言われています。それを彼らはエルサレム神殿で語れと命じられているのです。エルサレム神殿での古い礼拝に終わりが告げられ、ユダヤ教の律法によって生きる道が閉ざされ、その死が宣告されるのです。そして、すべての人の罪のために十字架で死なれた主イエス・キリストを救い主と信じることによって生きる信仰者たちの新しい礼拝が教会で始まるということがここでは暗示されています。

【21節~26節】。大祭司を議長としたユダヤ最高議会のメンバー70人が集合し、使徒たちの裁判を行おうとしましたが、彼らは牢の中にはいません。自分たちが裁こうとしていた使徒たちが何か不思議な力によって牢獄から姿を消してしまったという報告を受けて、ユダヤ最高議会の議員たちや民の指導者たちは困惑し、心を乱しています。そこへ、使徒たちが神殿で人々の前で説教しているとの報告が入りました。そこで、再び彼らを逮捕します。その様子が、ここには臨場感あふれる筆致で描かれています。

ここでは、迫害する側であるユダヤ最高議会の議員たちと、迫害される側にいる使徒たちの姿とが対照的に描かれています。一方では、ユダヤ教の中での自分たちの立場や地位、古い律法による信仰を守ろうと躍起になり、そのためにこの世の権力を用いて使徒たちと主イエス・キリストの福音を消し去ろうとしているユダヤ最高議会のメンバーたち。大祭司、祭司長、長老などのユダヤ教指導者たち。しかし、自分たちが捕らえて獄に投げ込んだ使徒たちがそこにいないと知って、あわてふためいておろおろしている彼ら。また、この世の権力を持ち、それを行使していながら、使徒たちの説教に耳を傾けている民衆を恐れている彼ら。

しかし、他方では、この世のいかなる権力をも恐れず、迫害や投獄をも恐れず、神殿の中で大胆に主イエス・キリストの福音を語り続けている使徒たち。そして、民衆の心をとらえている使徒たち。ここには、人間の声に聞き従う者たちの姿と、神のみ声に聞き従う信仰者たちの姿が、対照的に描かれています。

ここでもう一度、20節の「この命の言葉を残らず民衆に語りなさい」というみ言葉を思い起こしたいと思います。このみ言葉は、すでに学んだように、神の命のみ言葉はこの世のいかなる鎖によっても、権力や暴力、迫害によっても、決してその命を奪い取られることはない。またその命の力、生命力といったものを失うことはない。それらの敵対する勢力の中でなおも神のみ言葉はその命を発揮するということを意味している。これが第一の意味です。

第二には、神の命のみ言葉がエルサレム神殿で語られることによって、律法によって生きるユダヤ教の信仰がもはやその役割を終えて死を迎えた。主イエス・キリストの十字架の福音によってこそ、この福音を信じる信仰によってこそ、神のまことの命が信仰者に与えられるようになった。エルサレム神殿で行われていた動物を犠牲としてささげる礼拝はもはやその役割を終えて、死を迎えた。主イエス・キリストによる十字架の死の贖いによって完全な罪の贖いが成就した。主イエス・キリストの十字架の福音を信じる信仰によってこそ、すべての信仰者にまことの命が与えられるようになった。これが第二の意味です。

それに加えて、わたしたちはもう一つの意味をここから読み取ることができます。それは、2回の迫害を経験した初代エルサレム教会と使徒たちがまさにこの神の命のみ言葉によってこそ生きるべきであるということ、今現実に、迫害の中で生かされているということを、彼らはここで強く教えられたということです。使徒言行録ではこの後、教会の宣教活動が全世界に拡大されていくにしたがって、いよいよ激しくこの世の抵抗にあい、迫害を経験するということを繰り返して語ります。

この章の終わりの41、42節には次のような興味深いみ言葉が書かれています。【41~42節】。使徒たちは主イエスのみ名のために迫害を受けることをむしろ喜び、誇りさえしているのです。ある古代の神学者はこう言いました。「教会は殉教者たちの血によって生きている」と。正確に言うならば、「殉教者たちが流した血にもかかわらず」とか「彼らの血を超えて」、神の命のみ言葉によって教会は生きてきたと言うべきでしょう。教会は2千年の歩みの中で、幾度も厳しい迫害を経験してきました。日本の地でもそうでした。しかし、教会は迫害の中で繰り返して教えられました。神の命のみ言葉はこの世のいかなる鎖によっても決してつながれない。その命の力を失うことはない。いやむしろ、その中でこそ、まことの命の力を発揮し、教会を生かし、信仰者たちを強めるのだということを。

わたしたちもまた、この神の命のみ言葉を信じ続け、さまざまな困難や労苦や試練の中で、また弱さや欠けを覚えつつも、主キリストの教会のために希望をもってお仕えしていきたいと願います。

(執り成しの祈り)

○天の父なる神よ、主イエスのご降誕を待ち望む待降節のこの時に、あなたが全世界にお建てくださった主キリストの教会を、あなたの命にみ言葉で養い、強め、その福音宣教の務めをいよいよ忠実に果たしていくことができますように、お導きください。

〇主なる神よ、どうか、あなたが天からのみ光によって、暗闇に閉ざされているこの世界を明るく照らしてください。病んでいる人たち、その看護にあたっている人たち、重荷を負って疲れている人たち、試練や困窮の中にある人たち、道に迷っている人たち、孤独な人たち、すべてあなたの助けを必要としている人たちに、あなたがその一人一人の近くにいてくださり、助けと救いのみ手を差し伸べてくださいますように。

〇主なる神よ、わたしたちは先週に愛する教会員の一人をみもとに送りました。あなたが兄弟をこの教会へとお導きくださり、彼に信仰の道を備えてくださいましたことを感謝いたします。どうか、悲しみと寂しさの中にあるご遺族のお一人お一人にあなたにある慰めをお与えくださいますように。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

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