1月9日説教「人間に従うのではなく、神に従うべき」

2022年1月9日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:イザヤ書2章12~22節

    使徒言行録5章27~42節

説教題:「人間に従うのではなく、神に従うべき」

 初代エルサレム教会は誕生してすぐに、ユダヤ人からの迫害を受けました。最初の迫害は使徒言行録4章に書かれていました。この時には、使徒たちの代表者であったペトロとヨハネが逮捕、投獄されました。2回目は5章17節以下、この時には、18節に「使徒たちを捕えて」とありますので、12人の使徒たち全員が捕らえられ、大祭司の官邸の地下にあった公の牢に投獄されました。そして、ユダヤ最高議会、サンヘドリンと言われる大法廷で全員裁判を受けることになりました。ユダヤ人、またはユダヤ教からの迫害がより激しさを増しているのが分かります。

 わたしたちはここであらかじめ次のことを確認しておきましょう。エルサレム教会は迫害が繰り返され、しかもその激しさが増していくことによって、教会の中に恐れや不安が大きくなり、教会から去って行く信者が増えたり、使徒たちも宣教の力が弱くなって、教会の中に閉じこもるようになったのかというと、決してそうではなかったということです。教会は幾度も迫害を経験することによって、より一層、教会の頭なる主イエス・キリストに堅く結びつき、それにより、より力と勇気とを増し加えて、大胆に主キリストの福音を語り、この世の権力をも恐れずに教会の外に出て行ったということ、そのことをわたしたちは使徒言行録から繰り返し聞くのです。また、その後の教会も同様に、神のみ言葉はどのようなこの世の鎖によっても決してつながれないということを証しし続けてきたということを、わたしたちは知らされています。

27節からは、使徒たちの裁判について書かれています。ユダヤ最高法院の議長であり裁判長である大祭司が尋問します。【28節】。大祭司は主イエスのお名前を口に出すことを注意深く避けて、「あの名」とか「あの男」と言っています。4章17節の1回目の裁判でもそうでした。名前には特別な力が含まれており、名前を口に出すと、その名前の力が及ぶと、当時の人たちは考えていました。大祭司も他のユダヤ人指導者たちも、主イエスのお名前を恐れていました。実際に、主イエスのお名前によって驚くべき奇跡やしるしが人々の間で行われている様子を彼らは見ていたからです。彼らが必死になってこの新しい教えを封じ込めようとしても、主イエスのみ名によって語られる福音が、エルサレムだけでなくパレスチナ全域へ、さらにはローマ帝国全体へと拡大されていくのを、彼らはこれからも目撃するでしょう。迫害者たちは、そのような偉大な力を持った主イエスのお名前をうっかり口にして、その力が自分自身に及ぶことを恐れているのです。

 大祭司はまた主イエスを十字架につけて血を流した責任を自分たちが問われていると感じていることを、図らずも告白しています。確かに、彼らにはその責任がありました。彼らはこの同じ最高法院で主イエスを裁判にかけ、有罪とし、最終的にはローマの法律による十字架刑に引き渡したのでした。確かに、罪なき神のみ子を偽りの裁判によって裁き、イスラエルの救いのために神から遣わされたメシア・キリストを自分たちの手で拒絶し、投げ捨ててしまったという、大きな罪の責任を彼らは問われているのです。彼ら自身はその責任の意味を正しく理解していなかったとしても、彼らがその行為を行ったという事実からは逃れることはできません。

 そのことは、実際に主イエスを十字架につけたユダヤ人だけが問われている責任ではなく、その場にはいなかった、その時代には生きていなかった、すべての人間もまた問われている責任だと言ってよいでしょう。だれであっても、主イエスの十字架の福音を聞く人は、主イエスの血を流した責任がこの自分にもあるのだということに気づかされるのです。罪なき神のみ子が、このわたしの罪のために苦難の道を歩まれ、このわたしの罪をあがなうために十字架で血を流してくださったのだという福音を聞くのです。

 大祭司の尋問に対して使徒たちはこのように答えます。【29~32節】。この世の権力者によって脅かされても、命の危険が迫っていても、「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません」、これが迫害を受けている使徒たちの答えです。この答えは最初の迫害の時にペトロとヨハネが裁判の席で答えた内容とほぼ一致しています。もう一度その個所を読んでみましょう。【4章19~20節】。誕生して間もないエルサレム教会が2度にわたる迫害の中で問われたことは、このことでした。教会はこの世の人間の言葉や命令に従うべきなのか、それとも、神のみ言葉に聞き従うのか―この問いに対して、教会は決然とした態度をもって、はっきりと、自分たちは人間に聞き従うのではなく、神に聞き従う群れなのだということを告白したのです。主イエス・キリストを救い主と信じる者たちの群れである教会は、こののちにも、2千年近い歩みの中でたびたび経験した迫害で、繰り返してこの同じ問いの前に立たされ、いついかなる時にも、その答えは、「人間に従うのではなく、神に従うべきである」と告白することによって、生き続けてきたのでした。時に、苦しい拷問や殉教の血を伴いながら、教会はそのように告白し続けてきたのでした。そのようにしてのみ、教会はこれからも、どのような困難の中でも、生き続けることができるでしょう。

 30節で、使徒たちは、確かにあなたがたユダヤ人指導者には主イエスを十字架につけて殺したことの責任があると明言しています。この世の権力者たちの反撃を恐れて、あなたがたに罪の責任はないとは言いません。あなたがた指導者たちに、すべてのユダヤ人に、それだけでなく、すべての時代のすべての人に、主イエスを十字架につけた罪の責任が確かにあるのです。ペトロたちはそれを否定しません。

しかしながら、彼らは続けます。「神は、あなたがたが木にかけて殺した主イエスを復活させられたのだ」と。それは、イスラエルを、また主イエスの十字架の福音を聞いたすべての人を悔い改めさせ、その罪をゆるすためであると。神は主イエスの十字架の福音を聞くすべての人を罪のゆるしと救いへと招いておられるのです。神は人間の罪を最終的には人間自身に問うことをされませんでした。そうではなく、罪なきご自身のみ子にすべての人間たちの罪を負わせたもうたのです。そうすることによって、すべての人の罪をゆるしたもうたのです。主イエスの十字架の福音を聞かされた人はみな、この救いへと招かれているのです。

ここでは、裁判にかけられ裁かれるべき使徒たちが、裁こうとしているユダヤ人指導者たちに罪のゆるしを語っています。裁く人と裁かれる人の立場が逆転しているだけでなく、人間同士の裁きそのものをはるかに超えて、この世の裁判の席そのものが、神の救いの恵みによって満たされているということをわたしたちは見るのです。使徒たちが主イエス・キリストの十字架と復活の証人として立つとき、このような驚くべき救いの出来事が起こるのです。

けれども、ユダヤ最高法院の議員たちはその救いへの招きを拒絶します。33節以下を読みましょう。【33~35節】。救いへと招かれたユダヤ最高法院の議員たちはそれを拒否しました。主イエスの救いを拒否するということは彼らにとっては使徒たちの存在をも拒否することになります。彼らは使徒たちに怒りを爆発させ、彼らを死刑にしようとします。議場全体が騒然としました。ところがその時、一人の議員が立ち上がりました。彼の名はガマリエルです。彼の冷静で理性的な判断によって、議場は落ち着きを取り戻すことになりました。もし彼がここで立ち上がり、議場を落ち着かせていなかったなら、使徒たちは死刑を免れなかったのかもしれません。神は使徒たちを危機から救い出すために、必要な時に、必要な人を立たせてくださいました。

ガマリエルの名は使徒言行録でもう一度出てきます。22章3節です。この個所で、使徒パウロは自分の回心のことを回想しているのですが、そこで彼はこう言っています。【3節】(258ページ)。ガマリエルがのちにキリスト教信者になったかどうかははっきりしませんが、使徒パウロの先生として、またここでは初代教会の使徒たちを死刑の判決から回避させた指導者として、キリスト教会と深くかかわっていたということは、神の隠れたご配慮を思わざるを得ません。

ガマリエルはユダヤ教の指導者として神を恐れる敬虔な信仰を持っていました。神が歴史の主であり、神が歴史を通してみ心を行われることを信じていました。彼は36節から過去に起こった二つのメシア運動について触れています。メシア運動とは、長く苦難の歴史を歩んできたイスラエルの民に、神がまことの預言者であるメシア・救い主を遣わしてくださるという当時の民衆の期待に乗じて、「我こそはイスラエルを救うメシアである」と名のって、民衆を扇動する運動のことです。テウダとガリラヤのユダがその運動の首謀者でした。しかし、この二つの運動は神の救いのご計画ではなく、人間が自分の名を挙げるための運動であったために、おのずと滅びの道をたどることになったと、ガマリエルは結論づけます。

そこで彼は、結論としてこのように提案します。【38~39節】。ガマリエルが使徒たちの教え、主キリストの福音を正しく理解していたかどうかは不明ですが、彼は主なる神を恐れ、神がイスラエルの救いのために今もみわざをなしてくださるであろうと信じていたことがここから分かります。

ユダヤ最高法院はこのガマリエルの提案を受け入れ、使徒たちを死刑にすることはせず、むち打ちの刑にしたのち、釈放することにしました。最初の裁判での判決も、4章18節に書かれていたように、「決してイエスの名によって話したり、教えたりしないようにと命じた」のと同じように、今回もまた、「イエスの名によって話してはならない」と命じました。

けれども、今回もまた、使徒たちはユダヤ最高法院の命令には聞き従いませんでした。【41~42節】。釈放された使徒たちは、より一層大胆に、勇気をもって、力を込めて、大きな喜びをもって、主イエス・キリストの福音を語り続けました。「人間の言葉や命令に従うのではなく、ただ主なる神のみ言葉にのみ聞き従う」。これが、迫害の中で教会が繰り返して確認した基本姿勢であったのです。

ここではさらに驚くべきことが語られています。「主イエスのみ名のために辱めを受けるほどの者にされたことを喜んだ」と書かれています。使徒たちは、迫害され、苦しめられ、辱めを受けることを決して恐れませんでした。それを避けようとはしませんでした。いや、むしろ、それを喜びました。なぜなら、それによって使徒たちは、わたしたちすべての人のために苦難の道を進まれ、十字架で死なれた主イエス・キリストと同じ道を進むことになるからです。主イエスが山上の説教の中で教えられたみ言葉が、信じ、従う人たちによって成就するからです。そのみ言葉を読みましょう。【マタイ福音書5章11~12節】(6ページ)。

(執り成しの祈り)

〇天の神よ、あなたのみ言葉に聞き従うわたしたちを祝福してください。わたしたちの信仰の歩みが、どんなに困難であっても、常にあなたが伴っていてくださることを信じ続けさせてください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

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