1月16日説教「アブラハムのイサク奉献」

2022年1月16日(日) 秋田教会主日礼拝説教(牧師駒井利則)

聖 書:創世記22章1~19節

    ヨハネによる福音書3章16~21せつ

説教題:「アブラハムのイサク奉献」

 創世記22章に書かれているアブラハムのイサク奉献の個所を、前回に続いて読んでいきます。きょうは4節から読みます。【4節】。その場所とは、2節で神に行けと命じられた場所のことです。【2節】。モリヤの地がどこであるのか、はっきりとはわかっていません。旧約聖書の中ではモリヤという地名はもう1回だけ出てきます。歴代誌下3章1節です。そこにはこのように書かれています。「ソロモンはエルサレムのモリヤ山で、主の神殿の建築を始めた」。ここでは、エルサレムの町がある小高い丘がモリヤ山と呼ばれていますので、何人かの研究者はモリヤとはエルサレムのことだと推測しています。アブラハムが住んでいた場所が21章33節ではベエル・シェバとあり、また22章19節ではベエル・シェバに戻ったとありますから、ベエル・シェバからエルサレムまでは70キロメートル余りの道のりを三日かかったという4節のみ言葉とも符合します。アブラハムがイサクを燔祭として、すなわち焼き尽くすささげものとしてささげた場所がモリヤ・エルサレムであったということについては、14節の個所でもう一度触れることにします。

 その場所が見えた時、アブラハムは同行した二人の若者に、「お前たちはここで待っていなさい、わたしとイサクとはあの場所で神を礼拝して、また戻ってきます」と命じました。このアブラハムの言葉から、彼はもともと自分の子イサクを燔祭の犠牲として神にささげる気はなかったのだとか、あるいは彼がこの時点ですでに神がイサクの代わりになる動物を備えてくださるということを知っていたのだと理解することはできません。また、そう理解すべきではありません。アブラハムが最初から、10節で「手を伸ばして刃物をとり、息子を屠ろうとした」その瞬間まで、ずっと「イサクを燔祭としてささげよ」との神の命令に忠実に従っていたということは確かです。「恐れとおののき」とをもって、しかし、黙々と、わが子を神にささげるために、神が定めたもうた厳しく困難な信仰と服従の道を歩み続けていたということは否定できません。

 そのことは6節以下でも変わりません。【6節】。わたしたちはこの場面をどのように説明したらよいでしょうか。息子イサクは自分自身がその上で火に焼かれるはずの薪を背中に背負っています。父親アブラハムは自らの手で息子イサクの首を切り裂くはずの刃物と薪を燃やす火とを手に持っています。そして、二人は一緒に歩いていきます。それが、主なる神への服従の道だとしても、だれも、だれ一人として、この場面を直視できる者はいないのでないでしょうか。しかしそうであるのに、後の時代のすべて信じる者たちの信仰の父と呼ばれるアブラハムは、黙々と服従しているのを、わたしたちは驚きをもって見るのです。

 【7~8節】。ここで、父と子との会話が初めて書かれています。これまでの三日間の旅路の間、二人がどのような会話を交わしたのか、わたしたちには分かりません。もしかしたら、全く会話がなかったのかもしれません。少なくとも、楽しい会話を交わしながらの旅路ではなかったでしょうし、どんな会話もこの場面の父と子の会話としてふさわしくはないに違いありません。

 ここにきて、イサクは気づきました。神を礼拝し、燔祭の犠牲をささげるために父と一緒に来たのに、父は犠牲としてささげる動物を用意していなかったということに。父アブラハム自身はその理由を知っていましたが、彼はイサクに「その子羊はきっと神が備えてくださる」と答えます。このアブラハムの答えも、彼がそれをあらかじめ予測していたとか、期待していたと考えることはできませんし、そう考えるべきではないことは、はっきりしています。9~10節にこのように書かれているからです。【9~10節】。その瞬間まで、アブラハムは神の命令に忠実に従っていたことが、ここからはっきりと分かります。

 アブラハムのこの服従の道がいかに厳しいものであり、深刻で、過酷で、「恐れとおののき」に満ちたものであったかを、わたしたちは改めて思わざるを得ません。「あなたに子どもを授ける。その子の子孫は星の数ほどに増え、あなたに与えられた祝福を受け継ぎ、その祝福は永遠に続くであろう」と言われた神の約束のみ言葉を信じて、行き先を知らずして旅立ったアブラハム、その約束が25年後に、彼が100歳になってからようやくにして成就し、彼に与えられた愛する独り子イサク。そのイサクを神が燔祭の犠牲としてささげよとお命じになる。神はアブラハムから、彼の命であり、彼のすべてでもあるイサクを取りあげようとしておられる。その子によって神の約束が受け継がれていくはずのイサクを、神は取り去ろうとしておられる。神のみ心はいったいどこにあるのだろうか。これは、何とも過酷で、しかも理不尽な神の試練であることか。アブラハムはこの大きな試練に耐えることができるだろうか。

 けれども、アブラハムは徹底して神の命令に服従しています。「手を伸ばして刃物を取り、息子を屠ろうとする」その瞬間まで。

 6節の終わりと8節の終わりに、「二人は一緒に歩いて行った」と、同じ言葉が繰り返されています。この繰り返しは意図的と考えられます。ここにどんな意図を読み取るべきでしょうか。父と子、アブラハムとイサクの二人は一緒にモリヤの山に登っています。父が子を神に犠牲としてささげるために。それは表面的に見れば、父と子の関係の終わり、断絶に向かっている道であることはだれの目にも明らかです。けれども、聖書は強調して言います。「二人は一緒に歩いて行った」と。父と子が、神の命令に服従しているのならば、その二人の関係は決して引き裂かれることはない、分かたれることはない、神は二人を固く結びつけておられ、二人は神がお定めになった救いの道を一緒に歩いているのだということを語っているように思われます。

 わたしたちはここで、主イエスが福音書の中で言われたみ言葉を思い起こします。マルコ福音書10章29~30節で主イエスはこのように言われました。「はっきり言っておく。わたしのためまた福音のために、家、兄弟、姉妹、母、子供、畑を捨てた者はだれでも、今この世で、迫害も受けるが、家、兄弟、姉妹、母、子供、畑も百倍受け、後の世では永遠の命を受ける」と。主イエス・キリストの福音のためにわが命とわがすべてのものを神におささげする時、その人は最も祝福された人となり、最も祝福された神の家族となり、決して引き裂かれることがない永遠の交わりのうちに生きる神の国の民とされるのです。

 【11~13節】。1節で、「アブラハムよ」と呼びかけられ、彼にイサクをささげなさいとお命じになられた神は、11節でも、「アブラハム、アブラハム」と呼びかけられます。そして、「その子に手くだすな」とお命じになります。イサクは今や完全に神にささげられたものとなったからです。アブラハムはイサクをもう自分の自由にできません。イサクはもはやアブラハムのものではなく、神にささげられた、神のものだからです。そして、イサクをご自分のものとされた神は、それゆえに、イサクの代わりに一匹の雄羊をアブラハムのために備えられたのです。

 【14節】。アブラハムがイサクをささげた山がモリヤという名前であったと2節に書かれていました。また、そのモリヤが歴代誌下3章1節からエルサレムと推測されることをお話ししましたが、ここからいくつかのことを教えられます。研究者が推測している一つのことは、ここではイスラエルがダビデ、ソロモン王時代になって、エルサレムの神殿でささげられるようになる動物犠牲の礼拝形式が暗示されているということです。礼拝についての規則はレビ記などで具体的に定められることのなるのですが、神はイスラエルの罪をあがなうために、人間の命を要求されることをなさらず、動物を代わりにささげることをお命じになります。神がここでイサクの代わりに雄羊を備えられたように、エルサレム神殿での礼拝においては、人間の罪の贖いのために、家畜を備えてくださり、その家畜の命をささげることによって、神はそれを人間の命の身代わりと見なしてくださり、人間の罪をおゆるしになるという、イスラエルの礼拝の原型がここに示されていると考えられます。

 わたしたちはさらに、ここにはすべての人間の罪をあがなうために神が備えてくださった神の御独り子、主イエス・キリストの十字架が預言されていることを読み取ることができます。15節以下を読んでみましょう。【15~18節】。アブラハムがその独り子イサクをモリヤの山で神に燔祭の犠牲としてささげたその同じエルサレムで、神は全人類のすべての人間の罪を贖い、罪と死と滅びから救い出すために、ご自身の独り子なる主イエス・キリストを十字架に犠牲としておささげくださったのです。

主イエスは、神が世の罪を取り除くために神ご自身が備えられた神の子羊として、ご自身の十字架を背負い,ほふり場にひかれていく子羊のように、黙々として、ゴルゴタの丘を登って行かれました。手に刃物を持ったアブラハムと背に薪を背負ったイサクがモリヤの山に登っていく姿と共通しています。けれども、決定的に違うことがあります。主イエスの場合には、最後の瞬間に「待った」がかけられませんでした。多くのユダヤ人が、「神の子よ、十字架から降りて自分自身を救ってみよ。そうしたら信じよう」と叫んだけれども、主イエスは「父よ,わたしの霊をみ手にゆだねます」と言われ、十字架上で息を引き取られました。主イエスは死に至るまで従順に父なる神に服従され、それによって、ご自身の汚れのない、聖なる血を、わたしたちの罪の贖いのためにおささげくださったのです。ヨハネ福音書3章16節にはこのように書かれています。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」。

最後に、神を恐れるという信仰について少し触れておきたいと思います。12節で神はこう言われました。「あなたが神を畏れる者であることが、今、分かったからだ。あなたは、自分の独り子である息子すら、わたしにささげることを惜しまなかった」。神を恐れるという信仰は、旧約聖書ではもちろんそうですが、新約聖書でも、わたしたちの信仰の基本的な特徴を言い表しています。神を恐れるとは、人間の神に対する何らかの感情とか精神とか、心の持ち方とかを言うのではありません。恐怖心とか畏怖という感情のことではありません。イサクを神にささげたアブラハムの信仰に見ることができるように、徹底した神への服従のことです。自分にとって最も大切でかけがえのないもの、自分の命に等しいものをも、惜しむことなく神にささげるほどに、徹底して神のみ言葉に服従する信仰、それが神を恐れることです。

ご自身の独り子をも惜しまれずに十字架におささげくださった神の大きな愛によって、わたしたちも神を畏れる信仰へと招かれているのです。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、あなたがみ子主イエス・キリストによってわたしたちにお与えくださった大きな愛からわたしたちを引き離すものは何もありません。わたしたちが何ものをも恐れることなく、ただあなたのみを恐れて、あなたのみ言葉に聞き従う者としてください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

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