1月30日説教「洗礼者ヨハネとヨハネが証ししたメシア主イエス」

2022年1月30日(日) 秋田教会主日礼拝説教(牧師駒井利則)

聖 書:詩編8編1~10節

    ルカによる福音書7章24~35節

説教題:「洗礼者ヨハネとヨハネが証ししたメシア主イエス」

 ルカによる福音書は洗礼者ヨハネと主イエスとの関係について、1章と3章、それに7章18~35節で詳しく語っています。1章によると、ヨハネの両親である祭司ザカリアと妻エリサベトには子どもがなく、二人ともに高齢になっていましたが、神の奇跡によってヨハネが与えられました。また、主イエスの両親であるヨセフとマリアはまだ一緒になってはいませんでしたが、おとめマリアに聖霊がくだり、神の奇跡によって主イエスが誕生しました。ヨハネと主イエスはともに神の奇跡によって誕生した子どもであり、彼らの命と存在の源はすべて神に由来していました。それゆえに、彼らの生涯のすべても神のためにあり、彼らの歩みのすべては神にささげられるように、その誕生の時から定められていたということをルカ福音書はあらかじめ語っています。

 3章によると、洗礼者ヨハネは荒れ野で悔い改めの洗礼を授け、神の国の到来が近いことを説教し、「わたしのあとにおいでになる方こそが待ち望まれていたメシア・救い主である。わたしはその方のために道を整える先駆者である」と語りました。

 そして、7章18節以下では、ヘロデ・アンティパスによって投獄され、死刑の判決が迫っていたヨハネが主イエスのもとに弟子を遣わして、「旧約聖書で預言されていた来るべきメシアは確かにあなたなのですか」と問うたのに対して、主イエスはイザヤ書の預言のみ言葉を挙げながら、その預言が今ご自身によって成就しているという事実をヨハネに伝えなさいとお答えになりました。

 きょうの礼拝で朗読された24節以下は、ヨハネの二人の弟子たちが帰ったあとで、主イエスが集まっていた群衆に語られた場面です。【24~27節】。27節は旧約聖書マラキ書3章1節のみ言葉です。ルカ福音書3章では、イザヤ書40章3節以下のみ言葉が引用され、荒れ野に主の道を整え、神の救いのために備えをすることがヨハネの務めだと言われていましたが、ここではマラキ書のみ言葉によって、契約の主である最後の裁き主がおいでになる前に、罪を悔い改めて神に立ち帰るべきことを告げる使者としてのヨハネの務めが強調されています。いずれの場合にも、ヨハネ自身は契約の主ではなく、救いをもたらすメシアでもなく、彼はあとからおいでになるメシア・救い主である主イエスのために道を整え、準備をする先駆者としてのヨハネの務めが語られています。

 主イエスは24、25節で、洗礼者ヨハネについて二つの比喩を用いて語っておられます。「風にそよぐ葦」とは、弱々しく、時代の風に吹き流されてしまう頼りないものを象徴しています。群衆の中にはユダヤ地方の荒れ野に出かけて行ってヨハネの説教を聞き、ヨハネから洗礼を受けた人たちも多くいたに違いありません。その人たちがヨハネの姿に見たのは、「風にそよぐ葦」ではありませんでした。ヨハネの説教は力強く、差し迫った神の怒りから免れることができる人はだれもいない、斧がすでに木の根元に置かれている、だから今すぐに悔い改めて神の福音を信じなさいという、厳しく激しい説教でした。実際に、ヨハネは領主ヘロデ・アンティパスの不正を責め、この世の権力をも恐れずに立ち向かいました。

 ヨハネはまた「しなやかな服を着て」この世の繫栄とか名誉とかを求めていたのでありませんでした。「らくだの毛衣を着、腰に皮の帯を締め、いなごと野蜜を食べ物とし」(マタイ福音書3章4節)、この世の誉れをすべて捨て去り、ただひたすらに神に仕え、来るべきメシアと近づきつつある神の国を指し示すためにその生涯をささげたのでした。

ルカ福音書は1章と3章ですでに何度もそのことを強調していました。3章15節以下では、当時の人々が「もしかしたら彼がメシアではないか」と考えていたことをヨハネ自身がはっきりと否定して、「わたしのあとにおいでになる方こそがそのメシアである。わたしはその方の履物のひもを解く値打ちもない」と告白していました。

 そのようにして、来るべきメシアの前に徹底して自らを低くし、貧しくしているヨハネを主イエスは26節で「預言者以上の者である」と言われ、また28節では「およそ女から生まれた者のうち、ヨハネよりも偉大な者はいない」とも言われます。これは、人間に対する最高の評価と言えるでしょう。これにはどういう意味でがあるのでしょうか。

 預言者とは、旧約聖書の中で、神がイスラエルの民にお語りになるみ言葉を神に代わって、神の口となって民に語る務めを託された人を言います。旧約聖書にはイザヤ、エレミヤ、エゼキエルの3大預言者とホセア、アモスなどの12小預言者と言われる預言者たちの書があります。彼ら預言者たちは、それぞれの時代に神がイスラエルにお語りになったみ言葉を民に向かって語るとともに、特に、神が終わりの日にイスラエルと全世界の人たちの救いを成就するためにお遣わしになるメシア・キリストの到来を預言し、そのメシアを待ち望むように語ることが彼らの務めでした。

洗礼者ヨハネがそれらの預言者たちの中で最も偉大だと言われているのは、彼が旧約聖書の預言者たちの列の最後に連なり、待ち望まれていたメシア・キリストに最も近い所で、その到来を預言したからにほかなりません。ルカ福音書1章が伝えるところによれば、ヨハネは彼の半年あとにお生まれになった、しかも彼の母エリサベトの親戚関係にあったマリアからお生まれになった主イエスを、直接に彼の口と指で指し示して、来るべきメシアを証ししたのです。彼は自分自身の目で直接にメシア・キリストを見ることをゆるされるほどに間近で、メシア・キリストの到来を預言したのです。預言というよりは、すでに今ここにメシア・キリストが到来している、すでに神の救いのみわざが始まっている、すでに神の国が到来し、神の恵みのご支配が始まっていることを語ったのです。ここにこそ、彼の偉大さがあるのです。旧約聖書の預言者たちのだれもが自分たちの目では見ることができずに、未来に期待するほかなかったメシア・キリストを、ヨハネは彼自身の目で見ているのです。それゆえに、ヨハネは預言者たちの中で最も偉大であり、これまで人間として生まれたすべての人の中で最も偉大であり、幸いであると言われているのです。

したがって、ヨハネの偉大さは彼自身の業績とか能力や性格によるのでは全くありません。彼の偉大さは、彼が証ししているメシア・キリストである主イエスの偉大さによるのです。主イエスが旧約聖書で預言され、待ち望まれていたイスラエルと全人類の救い主であられ、来るべき神の国の王であられ、主イエスによってすべての預言が成就されているからです。ヨハネの偉大さは徹底して主イエスゆえの偉大さなのです。主イエスを証し、主イエスのために仕え、主イエスのために彼の全生涯と命とをささげたことによる偉大さなのです。

次に、28節の後半で続けて主イエスはこう言われます。「しかし、神の国で最も小さな者でも、彼よりも偉大である」。これはどういう意味でしょうか。これも同じ文脈の中で理解されます。ヨハネが偉大であるのは、彼が証した来るべきメシアである主イエスが偉大なる方だからであり、主イエスと共に到来した神の国、神の恵みのご支配が偉大だからなのですが、それと同じ文脈の中で、実際に今すでに主イエスの十字架の福音によって罪ゆるされ、神の恵みのご支配の中に生きることをゆるされている人は、ヨハネよりもはるかに偉大であるということになります。ヨハネがメシア・救い主イエス・キリストのために道を整え、主イエスとともに始まった神の恵みのご支配の入口に立っているゆえに偉大であるのならば、メシア・主イエス・キリストの十字架の福音によって事実罪のゆるしを与えられ、事実今すでに神の国へと招き入れられ、神の恵みのご支配の中で生きることをゆるされているキリスト者、すなわちわたしたちは、それ以上に偉大であり、大きな幸いと祝福のうちに置かれているということになります。

「神の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である」とは、実に、わたしたち教会の民に与えられている主イエスの大きな祝福のみ言葉なのです。わたしたちは今、預言の時に生きているのではなく、成就の時に生きています。メシア・救い主を待ち望んでいるのではなく、すでに主イエスがメシア・キリストとしてわたしたちの所においでくださり、わたしたちの救いのためのみわざをすべて成し遂げてくださり、わたしたちの罪をあがなうためにご自身の聖なる汚れなき血を十字架でおささげくださり、わたしたちを罪と死と滅びから解放してくださり、わたしたちを神の国の民としてくださり、神の救いの恵みの中に招き入れていてくださり、神の国での永遠の命の保証をお与えくださっておられる、そのような大きな恵みと祝福の中に置かれている、それゆえに「神の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である」と言われているのです。

「神の国で最も小さな者」というみ言葉のもう一つの意味が29節以下で語られています。それは、神の国は、最も小さな者にこそふさわしいということ、神の国の福音を聞いた信仰者は、自分が最も小さな者であり、神の国の福音の前に自らを無にして、その福音を信じ、受け入れるほかにないことを告白するということです。

主イエスは洗礼者ヨハネの教えを聞き、信じ、洗礼を受けた民衆と、自らの罪を悔い改めず、ヨハネの悔い改めの洗礼を拒んでいた当時のユダヤ教指導者たちとを対比して、31節から一つのたとえをお語りになりました。これは、当時流行していた子どもたちの、いわば「ごっこ遊び」と思われます。子どもたちは笛を吹き、踊りながら、結婚式の祝いに参加してくれる仲間を呼び集めようとします。けれども、だれも集まってくれません。今度は、悲しい歌を歌って、葬式に参列してくれる仲間を呼び集めようとしますが、これにもだれも加わろうとしません。

それと同じように、この時代の指導者たちは神からの呼びかけにだれも応えようとせず、洗礼者ヨハネを「悪霊に取りつかれている者」と言って拒み、主イエスを「徴税人や罪びとの仲間だ」と言って拒み、神の招きのみ声にだれも耳を傾けようとはしない、かたくなで、悔い改めることをしない、傲慢で、自分を誇り、神のみ言葉によって自分が変えられることをよしとしない、そのような時代であると主イエスは言われます。

主イエスはここでわたしたちを神の国での結婚式の盛大な祝いと喜びの席へと招いておられるのです。わたしたちは主イエスによって罪がゆるされ、信仰による神との永遠の交わりの中へと招き入れられています。終わりの日に祝われる盛大な結婚式の喜びと祝福の時がすでに始まっているのです。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、あなたがきょうわたしたち一人一人を主の日の礼拝にお招きくださり、喜びと祝福に満ちたあなたとの交わりの中へと招き入れてくださいましたことを心から感謝いたします。

〇願わくは、今悲しみや不安の中にある人たち、恐れや迷いの中にある人たち、重荷や痛みを抱えている人たち、病んでいる人たち、餓え渇いている人たち、彼ら一人一人にあなたが伴ってくださり、恵みと祝福をお与えくださいますように。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA