2月20日説教「人類の罪のために十字架にかかられた主イエス」

2022年2月20日(日) 秋田教会主日礼拝説教・『日本キリスト教会信仰の告白』講解⑩ (駒井利則牧師)

聖 書:イザヤ書43章1~7節

    コリントの信徒への手紙一1章18~25節

説教題:「人類の罪のため十字架にかかられた主イエス」

 『日本キリスト教会信仰の告白』を続けて学んでいます。きょうは、「人類の罪のため十字架にかかり」の後半、「十字架にかかり」の箇所について学びます。「十字架」という言葉は、ここと後半の『使徒信条』の中で、「ポンティオ・ピラトのもとで苦しみを受け、十字架につけられ」の2箇所で用いられています。言うまでもなく、両方とも意味上の主語は主イエス・キリストです。

 十字架はキリスト教やキリスト教会を指し示す代表的なシンボル・象徴、目印になっています。建物の屋根に十字架がついていれば、そこが教会堂だとだれにも分かるほどに、十字架=キリスト教ということが一般にも知れ渡っています。形としての十字架がキリスト教のシンボルであるという以上に、十字架はキリスト教の内容、教え、信仰、神学にとって重要な意味を持っています。十字架なしにはキリスト教について語りえません。

 使徒パウロはコリントの信徒への手紙一1章18節で次のように語っています。【18節】(300ページ)。また、22節以下では、【22~24節】。それゆえに、2章2節では、【2節】。パウロがコリントの教会で語った福音、コリントだけでなく、全世界の町々の教会で語った福音は、主イエス・キリストの十字架の言葉、十字架につけられた主イエス・キリストでした。それ以外のことは、何も語らなかったとさえパウロは言います。今日の教会が語るべき言葉も、そしてわたしたちが聞くべき言葉も、それ以外ではありません。十字架の福音はわたしたちの信仰の中心です。

 十字架という言葉は、主イエスの実際のご受難の場面、主イエスが十字架につけられる場面で用いられているだけでなく、ほかにもさまざまな文脈の中で、さまざまな意味が付加されて、深く広い意味で数多く用いられており、新約聖書全体では80回ほどになります。

 十字架は古代社会では、死刑を執行する道具として、アッシリア、ペルシャ、エジプトなどで広く用いられていましたが、それがローマ帝国でも採用されました。主イエスはローマ帝国のユダヤ地方を治める総督ポンティオ・ピラトのもとで、ローマの法律によって裁かれ、十字架刑に処せられました。ユダヤ人は旧約聖書の時代から死刑判決は石打の刑でした。使徒言行録7章に書かれているように、キリスト教会最初の殉教者ステファノも石打の刑を受けました。

十字架刑は犯罪者を木の上にくくりつけ、民衆の前でさらし者にしながら、何日間も放置するので、イスラエルの律法では申命記21章22節以下などに書かれているように、それは主なる神から賜った嗣業である聖なる地を汚すことであり、また木にかけられた者は神から呪われた者となるために、イスラエルにおいては十字架刑は行われませんでした。では、なぜ主イエスは神に呪われたものである十字架刑で処刑されたのでしょうか。

 そのことを考える前に、「主イエス・キリストは人類の罪のため十字架にかかり」という信仰告白の文章そのものを読んで気づくことは、主イエスが十字架につけられたのは、ご自身の罪とか犯罪のためではなかった、人類の罪のためであったということです。人類が、すなわちすべての時代のすべての人間が神に対して罪を犯しているために、本来は罪を犯した人間が自ら神の裁きを受けて死刑を宣告されなければならなかったのに、いわばその身代わりとなってくださって、主イエスが人間たちのすべての罪を背負われて、神の裁きをご自身に受けられ、死刑の宣告を受けられ、十字架につけられたのだと告白されていることが分かります。

 ここには、罪の支払う報酬は死であるという聖書の根本的な考えが背後にあります。最初に神によって創造された人間アダムは、神の戒めに背いて罪を犯したために、死すべき者となりました。人間の死は、人間の罪に対する神の裁きであると聖書は言います。人間は生まれながらにして罪に傾いており、日々に神に背き、神から離れているゆえに、人間は日々に神の裁きによって死を宣告されなければならず、事実、神のみ前では日々に死んでおり、死ぬべき存在であると聖書は言います。そこで、旧約聖書時代のイスラエルにおいては、毎日エルサレム神殿で、罪のあがないのための動物の血がささげられていました。それによって、神の民イスラエルは神から与えられる罪のゆるしによって生きることができたのです。

 主イエスは、イスラエルの民だけでなく、全人類が罪のゆえに受けるべき神の裁きを代わってお受けになり、わたしたちすべての罪のゆるしのために十字架でご自身の罪も汚れもない尊い血を流され、その血によって全人類の罪をあがなってくださったのです。主イエスの死がなぜ十字架の死でなければならなかったのかについて、ガラテヤの信徒への手紙3章13節にはこのように書かれています。「キリストは、わたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出してくださいました。『木にかけられた者は皆呪われる』と書いてあるからです」。主イエスの十字架の死は、わたしたち人間の罪がいかに大きいかということ、それゆえに神の怒りと呪いとを受けなければならないということを明らかにしているのです。それはまた、神のみ子がわたしたちに代わってお受けくださった父なる神の厳しい裁きと呪いの大きさ、深刻さをも明らかにしています。

 主イエスは罪なき神のみ子であられたにもかかわらず、また父なる神に最も愛されている独り子であられたにもかかわらず、わたしたち人間のすべての罪をご自身が代わって背負ってくださり、わたしたちが受けるべき死の裁きをわたしたちに代わって受けてくださいました。しかも、神に呪われた者としての最も厳しい裁きを受けて十字架で死んでくださったのです。それは、イスラエルの民を律法の呪いからあがない出すためであり、すべての人間を罪の支配から解放するためであり、すべての人が主イエスを信じる信仰によって救われる道を切り開くためであったのです。これが、主イエス・キリストの十字架の死の第一の、中心的な意味です。

 ここでわたしたちは、きょうの説教の冒頭で少し触れたこと、『日本キリスト教会信仰の告白』の中で「十字架」という言葉が2回用いられているという点について改めて注意を向けて見たいと思います。そうすると、前文で告白されている「十字架にかかり」と後半の『使徒信条』の中の「十字架につけられ」には微妙な違いがあることに気づきます。「十字架にかかり」の主語は、「主は」と言われている主イエス・キリストであることはすぐに分かります。「十字架につけられ」の方は受動態ですから、十字架につけられたのは主イエス・キリストですが、だれがそれを行ったのかは、はっきりとは語られていません。「ポンティオ・ピラトのもとで」とその前にありますので、ピラトがローマ総督として、ローマの法律に従って裁き、判決を下したということなのか、けれども福音書の記述によれば、ピラト自身は主イエスに何の罪をも認めなかったので釈放しようとしたが、ユダヤ人民衆の「彼を十字架につけよ」との声に負けて、しぶしぶそれを許したということからすれば、主イエスを十字架につけたのは実質的にはユダヤ人、その指導者であった長老、祭司長、律法学者たちであったと言えるのかもしれません。

 しかし、聖書が意味上の主語を省略して受動態で表現するとき、その多くは神が隠された主語であるということを前にもお話ししましたが、この場合にも本来の主語は神であると考えるべきです。そうすると、『使徒信条』の方では、主イエス・キリストの十字架の死は本来神のみわざであり、神の救いのご計画の中にある神の行為であると告白されていることになります。それに対して、前文の方では、明らかに主イエスご自身が主語ですから、主イエスご自身が主導的に十字架への道を選ばれ、その道を進まれたということが告白されていることになります。

 実際に、聖書ではその両方が語られています。福音書によれば、主イエスは3度にわたって受難予告をされました。マルコによる福音書8章31節にはこのように書かれています。「それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた」。主イエスの十字架の死はユダヤ人やローマ人、あるいはだれかの陰謀とか、誤った判断とかによって、人間の側の悪しき力が働いて起こったことなのではなく、もちろん人間のすべての罪と悪とがそこに集約されているのですが、それ以上に、そこには主イエスご自身の固い決意があるのです。主イエスは十字架の死への道をご自身で選び取られ、その道を進み行かれたのです。

 それはまた同時に、主イエスの父なる神への徹底的な服従の道でもありました。神は人間の罪を救うために、ご自身の最愛の独り子を十字架にささげられたのです。ヨハネによる福音書3章16節にあるように、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」。この神の大いなる愛が、全人類を罪から救うのです。父なる神の救いのご計画とみ子主イエス・キリストの十字架への道は完全に一致して、わたしたちの救いを完成するのです。

 ペトロの手紙一2章22節以下にはこのように書かれています。「『この方は、罪を犯したことがなく、その口には偽りがなかった。』ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりませた。そして、十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。わたしたちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。そのお受けになった傷によって、あなた方はいやされました。あなた方は羊のようにさまよっていましたが、今は、魂の牧者であり、監督者である方のところへ戻って来たのです」。ここにも、義なる神の救いのみ心と、それに徹底して服従された主イエスのご受難と十字架の死ヘの道が、わたしたちの救いのためであったことが教えられています。

 ここにはまた、主イエスの十字架の死だけでなく、わたしたちの死についても語られています。わたしたちもまた主イエス・キリストと共に、十字架につけられ、罪に対して死ぬのだと言われています。主イエス・キリストの十字架の死は全人類の罪のため、全人類を罪から救うためであったとともに、否それ以上に、わたし自身のための十字架であり、わたし自身が十字架につけられて罪の自分に死ぬためのものであったと、ここでは教えられています。わたしもまた、信仰によって、主イエスと共に十字架につけられ、古い罪に支配されていたわたしが死ぬのです。それによって、罪の力はもはやわたしを支配することはなく、主イエスが十字架の死によって勝ち取ってくださった義が、信仰によってわたしの義となり、神は罪あるわたしを罪あるままで義と認めてくださり、わたしに無罪を宣告してくださるのです。

 使徒パウロは、ローマの信徒への手紙6章で、主イエス・キリストの十字架の死と復活を、わたしたちが受ける洗礼との類比で語っています。最後に、ローマの信徒への手紙6章6節以下を読みましょう。【6~11節】(281ページ)。主イエス・キリストの十字架の福音を聞くことはわたしが死ぬことであり、またわたしが生きることでもあるのです。生きるにしても死ぬにしても、わたしは十字架の主イエス・キリストのものです。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、わたしたちの罪のために十字架で死んでくださり、またわたしたちが罪ゆるされた新しい命に生きるために三日目に復活された主イエス・キリストを常に仰ぎ見つつ、信仰の道を歩み続けることができますようにお導きください。あなたが終わりの日に授けてくださる勝利の冠を待ち望みつつ、喜びと希望をもって、信仰の道を前進させてください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

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