3月6日説教「恵みと力に満ちた人ステファノ」

2022年3月6日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:申命記5章1~10節

    使徒言行録6章8~15節

説教題:「恵みと力に満ちた人ステファノ」

 ステファノは初代エルサレム教会の7人の食卓の奉仕者として選ばれました。使徒言行録6章1節以下によると、エルサレム教会の規模が大きくなり、またさまざまに違った立場の人たちが集まってくるにつれて、ギリシャ語を話すユダヤ人とヘブライ語を話すユダヤ人との間に日々の食糧の分配で不平等が生じているので、それを解消するために、食卓の世話をする務めを担う人を教会の会議で選ぶことになり、その7人の中に彼が選ばれました。これは一般には今日の執事の職に当たると考えられていますが、きょうの礼拝で朗読された8節以下では、ステファノは12人の使徒たちと同じみ言葉の奉仕者、伝道者の務めを担っているように思われます。7人が選ばれた本来の食卓の奉仕の務めについては、使徒言行録の中ではこれ以後も全く触れられてはいません。もっとも、食卓の奉仕という執事の務めを託されているからと言って、み言葉の奉仕者である必要はないということはありませんので、本来の執事の務めをしながら、伝道者、宣教者の務めをも果たしていたと考えるべきかもしれません。主イエス・キリストの福音を信じて救われ、教会のメンバーとなった信者はだれであれみな神のみ言葉のために仕えるみ言葉の奉仕者であるのは言うまでもありません。

 8節でステファノは「恵みと力に満ち」と紹介されていますが、5節では「信仰と聖霊に満ちている人」と言われていました。ここで挙げられている4つ、「信仰、聖霊、恵み、力」、これらはいずれも父なる神と救い主・主イエス・キリストからステファノに与えられた賜物です。彼が何を持っていたかとか、どんな能力や知識があったかといった、彼自身に備わっていたものについては、ここでは全く問題にされていません。彼の社会的地位や学歴、教養、あるいは彼の性格なども全く語られていません。それらは、彼が執事の務めを果たすにあたって、またみ言葉の奉仕の務めを果たすにあたって、何の条件にもなりません。

 しかしながら、彼が「信仰、聖霊、恵み、力」に満ちているならば、ほかに何が必要となるでしょうか。彼が「信仰、聖霊、恵み、力」に満ちているならば、彼はすべてに満たされているのです。他に何が不足していようとも、彼に何か破れや欠けがあったとしても、彼はすべてにおいて満たされているのです。彼に、主イエス・キリストを救い主と信じる信仰が与えられ、聖霊なる神によってその信仰の保証として慰めと平安が与えられ、日々新たに神の恵みいただき、その恵みによって生かされ、さらには、何ものをも恐れずに主キリストの福音を語り伝える力と勇気を与えられているステファノ、その彼には何一つ不足はありません。彼はすべてにおいて満たされています。

 8節では、「すばらしい不思議な業としるしを民衆の間で行っていた」と紹介されています。「不思議な業としるし」は神の国が近づいていることの確かなしるしであり、また神のみ言葉の説教の力強さを現実化する目に見えるしるしのことです。これは使徒たちに特別に与えられていた賜物でした。12節に、「使徒たちの手によって、多くのしるしと不思議な業とが民衆の間で行われていた」と書かれています。さらにさかのぼれば、2章22節には、主イエスによって行われていた「奇跡と、不思議な業と、しるし」のことが書かれていました。主イエスが神の国、神の恵みのご支配による救いの時が近づいていることのしるしとして行っておられた数々の奇跡、不思議なみわざ、しるしが、12人の弟子たち、使徒たちによっても行われ、そしてまたステファノによっても行われたのです。ステファノにも使徒たちと同じ賜物が与えられていました。使徒たちやステファノは、主イエスによって始められた神の恵みの時、神の救いの時の開始を、民衆の間で言い広めたのです。

 ところが、そのステファノの目覚ましい活動を快く思わない人々がいました。【9~10節】。「解放された奴隷」とは、ローマ帝国によって戦争捕虜とされ、後に解放されて自由人となり、エルサレムに移り住んでいるギリシャ語を話すユダヤ人を言います。リベルタンと呼ばれます。キレネとアレクサンドリアはエルサレムの南方、アフリカ大陸の都市です。キリキアとアジア州はエルサレムの北方の州であり、使徒パウロはキリキア州タルソという町の出身でした。アジア州は小アジアのことで、今のトルコであり、使徒パウロの宣教によってエフェソやコロサイに教会が建てられました。これらの都市には、デアスポラと呼ばれる離散のユダヤ人が多く住んでおり、この時代にはエルサレムに移住してくる人たちもかなりいたようです。彼らはほとんどがギリシャ語を話すユダヤ人、いわゆるヘレニストと呼ばれる人たちです。ステファノ自身も恐らくそうでしたから、彼のもとにはヘレニストたちが多く集まってきたことが予想されます。

 ステファノは「知恵と霊」によって語りました。「知恵と霊」、これも神から賜ったものです。主イエスの福音を語る信仰者は自分が持っている人間的な知恵や体験的な知識で語るのではありません。その人には神の知恵と霊が与えられます。また、神の知恵と霊の導きと助けを求めて語らなければなりません。

 ステファノと議論をしたヘレニストユダヤ人たちもまた当時のユダヤ教の指導者たちと同じように、古いユダヤ教の律法や神殿での古い礼拝の枠から抜け出すことができずに、主イエスの福音を信じ、受け入れることができませんでした。同じユダヤ教の中での意見の違いであれば、激しい議論になることがあったとしても、相手を告発して、裁判にかけることまではしないに違いありません。しかし、ステファノとヘレニストユダヤ人たちの対立は単なる理解の違いではありませんでした。そこには、あれかこれかという、決定的な対立があったのです。ステファノが語った主イエスの福音は、古いユダヤ教の教えを廃棄し、律法を福音に変え、エルサレム神殿での礼拝を終わらせ、全世界での教会の礼拝を始めさせる、新しい教え、新しい救いなのです。

 そのことを知ったヘレニストユダヤ人たちはステファノを捕え、ユダヤ最高法院に訴えました。初代エルサレム教会が経験する3回目の迫害です。【11~14節】。

 ヘレニストユダヤ人たちは、神の知恵と霊によって語るステファノに議論では太刀打ちできないと知るや、暴力的な行動や権力に訴えて、ステファノと主イエスの福音を抑え込もうとします。彼らはまず民衆を扇動し、次にエルサレムの権力者たちを扇動し、ステファノに不利な偽りの証言を語らせます。ついにはユダヤ最高法院の裁判の席にステファノを引き出すことに成功しました。ペトロや12使徒たちが経験した2度の迫害と状況は同じです。と同時に、ステファノが訴えられた内容は主イエスご自身の裁判の際の告発と一致します。マタイ福音書26章に書かれている主イエスの裁判では、主イエスを訴える口実に、「あの男は神の神殿を打ち倒し、三日あれば建てることができると言った」という証言(61節参照)や、神を冒涜する言葉を聞いた(65節参照)という訴えがなされましたが、ステファノに対しても同じような非難の声があげられています。

 彼らがここでステファノを告発した内容は、悪意に満ちた誹謗中傷ではありますが、全くの架空の作り話では必ずしもないと言ってもよいのではないでしょうか。彼らには正しく理解されてはいませんが、そこには主イエスによって成就された神の真理が含まれているということにわたしたちは気づきます。

第一点として言えることは、ステファノが語った主イエスの福音は、確かにモーセの律法を超えており、律法によって救われる道を否定し、閉ざしているということです。主イエスの十字架の福音は、律法を守ることによって救いに至るというユダヤ教の道の終わりを宣言するとともに、律法によらず、主イエス・キリストを信じる信仰によって救われるという新しい救いの道をすべての人に開いたのです。主イエスの十字架の福音によって明らかにされたことは、だれも律法を守り行うことによっては救われない、律法によっては人間の罪と死とが宣告されるだけである。けれども、神のみ子主イエスがわたしたち罪びとのために律法を完全に成就され、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで父なる神に全き服従をおささげになられ、それによってわたしたちを罪から贖い出し、救ってくださった。この福音を信じる人はみな、その信仰によって神に義と認められ、罪ゆるされ、救われる。これが、ステファノが語った主イエスの福音です。ユダヤ人たちがこれを聞いて、モーセの律法を否定した、神を冒涜したと理解したのであろうと思われます。

 もう一点は、主イエスがエルサレム神殿を破壊すると言われたこともまた神の真理だと言えます。主イエスはエルサレム神殿を爆破するとか、暴動を起こして神殿の中を荒らすことを計画しておられたのではありません。神殿での動物をささげる礼拝そのものを無効にされ、終わらせたのです。旧約聖書時代のイスラエルの民は日々の自分たちの罪を神に贖っていただくために、エルサレム神殿で毎日動物の犠牲をささげる礼拝をしていました。主イエスはそのイスラエルの民が目指していた真実の神礼拝をご自身の十字架の死によって完成されたのです。すなわち、ご自身の罪も汚れもない尊い血を十字架で流され、わたしたち人類の罪を完全にあがなってくださったのです。主イエスの一回で完全な贖いのみわざによって、すべての人の罪が永遠にあがなわれ、ゆるされているのですから、もはやエルサレム神殿で動物の血を繰り返してささげる必要はなくなりました。神殿の役割は終わったのです。主イエスはご自身の体である教会をお建てになり、その教会でささげられる霊とまことによる礼拝へと、すべての人をお招きになっておられます。これが、ステファノが語った主イエスの福音です。

 けれども、ユダヤ人たちは主イエスの福音を受け入れず、古い律法の教えと神殿礼拝から離れようとしませんでした。主イエスの福音を信じるためには深い罪の自覚と悔い改めが必要です。古い罪に支配された生き方からの方向転換が必要です。ユダヤ最高法院の構成メンバーである律法学者・ファリサイ派はモーセの律法にしがみついていました。もう一つの構成メンバーであるサドカイ派の祭司たちはエルサレム神殿にしがみついていました。彼らは自分たちの生活基盤が失われることを恐れ、悔い改めることをせず、かえってステファノに対する憎しみと怒りをつのらせました。

 【15節】。ユダヤ最高法院全メンバーの憎しみと怒りの目がステファノに注がれた時、しかし、ステファノの顔は天使のように輝いていました。主イエス・キリストの証人として立つ信仰者のかたわらには、神ご自身が共に立っていてくださいます。たとえ、すべての人がステファノに逆らい、彼を攻撃するとしても、彼は少しも恐れません。たじろぐことはありません。主なる神が彼と共におられ、彼を堅く立たせてくださり、主なる神の栄光が彼を包み、彼を支えているからです。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、わたしたちをあなたのみ言葉の上に堅く立たせてください。世界がどのように揺れ動くとも、世がどのように変化していくとも、永遠に変わることがなく、永遠に恵みと真理とに満ちているあなたのみ言葉を、信じ続ける者としてください。

〇主なる神よ、世界のすべての国、民族にまことの平和をお与えください。和解の道と共に生きる道をお与えください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

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