4月24日説教「種をまく人」

2022年4月24日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:イザヤ書55章8~13節

    ルカによる福音書8章4~10節

説教題:「種をまく人」

 前回学んだルカ福音書8章1節には、「イエスは神の国を宣べ伝え、その福音を告げ知らせながら、町や村を巡って旅を続けられた」と書かれていましたが、その際に主イエスは多くのたとえ、あるいはたとえ話を用いてお話になりました。共観福音書と言われるマタイ、マルコ、ルカの三つのの福音書では、主イエスがお語りになった説教のほぼ三分の一はたとえであり、その種類は40種以上あると言われています。

 ルカ福音書ではすでに5章36節に、「イエスはたとえを話された」とあり、古いものに新しいものをつなぎ合わせることはできない、新しいものは爆発的な力と命をもって、古いものを破壊してしまうから、ということを強調されました。また、6章39節にも、「イエスはまた、たとえを話された」とあり、新しく始まったゆるしの時代に生きる人は裁き合うのではなくゆるし合うべきことを教えておられます。

 きょうの礼拝で朗読された8章4節以下では、まずたとえが語られ、次に、例えで語ることの理由、目的について、そして11節以下では、先に語られたたとえの解説が主イエスご自身によってなされています。この個所は共観福音書にほぼ同じ形で記録されていますが、ルカ福音書はマタイ、マルコに比べて半分くらいに短縮されています。そこで、マタイ、マルコを参照にしながらこのたとえを学んでいくことにします。

 【4~5節a】。主イエスの説教を聞くために多くの人々が集まってきました。主イエスは彼らにお語りになりました。群衆は、聴衆として、主イエスの説教を聞くように招かれています。彼らの中には、主イエスによって病気をいやしていただくためとか、主イエスの奇跡を見るために集まってきた人たちも多くいたに違いありません。あるいは、主イエスをユダヤ教の異端者とみて、偵察活動のために来た人たちもいたでしょう。その他の目的をもって来た人たちをも含めて、すべての人たちは今、何よりもまず主イエスがお語りになる説教を聞かなければなりません。

 主イエスが説教をお語りになる、そして聴衆がそれを聞くとは、聖書の中ではどのような意味を持つのでしょうか。わたしたちはここでそのことの特別な意味を理解しておかなければなりません。主イエスは興味本意に集まってきた群衆に、みんなの興味に合わせて、いわゆる大衆受けするような講演や講義をしておられるのではありません。集まってきているひとり一人に、その人が聞くべき神のみ言葉を、その人に向かって語っておられ、その人がその神のみ言葉によって生きていくようにと招いておられるのです。主イエスはわたしたち罪びと一人ひとりに語りかけてくださり、わたしたちを救いへとお招きになるために、お語りになります。聖書で「主イエスがお話になった」と書かれているのは、いつでも、どこでも、そういう意味です。

 「たとえを用いて」とありますが、先ほども紹介したように、主イエスの説教の多くはたとえを用いてのお話でした。主イエスがここでお話しになったたとえは、一般に「種まきのたとえ」と言われてきましたが、近年は「種を蒔く人のたとえ」と言われるようになり、少し強調点が移ってきました。『新共同訳』では小見出しに「種を蒔く人」のたとえとしているのは、その変化、強調点の違いを意識していると思われます。マタイ福音書13章18節には、「だから、種を蒔く人のたとえを聞きなさい」と書かれてあり、主イエスご自身が「種を蒔く人のたとえ」と呼んでおられることからも明らかなように、このたとえは「種を蒔く人」に強調点があるのです。種をまく人がこのたとえの主人公なのです。わたしたちはまずこのことを確認しておきましょう。

 5節で「種を蒔く人が種蒔きに出て行った」という言葉でこのたとえは始まります。種をまく人が、種を携えて、町々村々を巡り歩き、この世界の至る所に、すべての場所、すべての人に、神のみ言葉の種を蒔くために出て行く、そのために種をまく人はこの世においでになった、しかり、主イエスこそが神のみ言葉の種を蒔く人ご自身なのだということをわたしたちはまず教えられるのです。主イエスは神のみ言葉の種を携えて、否、ご自身が神のみ言葉そのものであるお方として、天の父なる神のみもとから、この地に下って来られました。

 ヨハネ福音書1章では、主イエスの誕生を神の言葉が受肉したこととして表現しています。14節に、「言(ことば)は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」と書かれてあるように、主イエスは旧約聖書で語られた神のみ言葉をすべて実現に至らせ、成就されるために、人間のお姿でこの世界においでになったのです。

 神のみ言葉の種をまくためにこの世界においでになられた主イエスご自身が種まきのたとえの主人公であるということから、このたとえを理解していくことが求められます。したがって、種がまかれた場所の違い、道端とか石地、いばらの中そして良い土地に注目して、それぞれの特徴について論じるとというのは本来の主題ではありませんし、それぞれの場所にまかれた種がその後にどうなったか、なぜそうなったのかを詳細に分析したり、その4種類に人々を区分けし、分類したりするということは、ここでは主題ではないということです。主イエスが全地に、全世界のすべての人に、神のみ言葉の種をまくために、人となってこの世においでになられたことこそが重要なのです。

 もう一つここで確認しておくべきことは、種まきのたとえは神の国のたとえであるということです。主イエスは10節で弟子たちにこのように語っておられます。「あなたがたには神の国の秘密を悟ることがゆるされているが、他の人々にはたとえを用いて話すのだ」。また、11節の解説の個所では、「種は神の言葉である」と説明しておられます。種まきのたとえは神の国について、神の国の福音についてのたとえということです。ルカ福音書の中でこれまでに語られた5章36節以下のたとえと6章39以下のたとえも神の国の福音に関するものであったということをわたしたちは読んできました。これら以外の主イエスのたとえも、そのほとんどは神の国のたとえです。主イエスの到来によって開始された神の国、神の新しいご支配、その隠された奥義、秘密を語り、解き明かすために、主イエスはたとえをお用いになったのです。このことについては、次回さらに深く学ぶことになるでしょう。

 では、以上のことを基本にしながら、種まきのたとえを読んでいきましょう。【5~8節】。このたとえは当時の農家の慣習を背景にしていると言われます。種まき機械などない時代ですから、農夫は種を入れた大きな袋を背負いながら、広い畑をくまなく歩いて種をまきます。その際に、一部の種は耕作されている畑を越えて道端や石地の所にも飛んでいきますが、農夫はいちいちそのことは気にしませんし、耕作地の外に飛んでいった種をわざわざ拾い集めるということもしません。そのような農夫の慣習を背景にしているという説明がよくなされます。けれども、種まきのたとえの種をまく人が主イエスご自身であり、そこで語られている内容が神の国の福音であるということからすれば、その説明は適切ではないことが分かります。

 もちろん、主イエスはそのような習慣をご存じであられ、当時のだれもが知っている日常的なことを用いてたとえを語られたのですが、それによって指し示されているのは神の国の福音ですから、主イエスがどの場所でも所かまわずに、無造作にみ言葉の種をまかれたとか、道端や石地にまかれた種については無関心であられたということを連想させる説明は適切ではありません。主イエスは一粒一粒の種に思いをこめられ、一人一人にふさわしく、その人が救いに導かれることを祈り、信じながらみ言葉の種をまかれた、神の国の福音をお語りになったということを忘れるべきではありません。

 そうであるとすれば、わたしたちはここでまず、主イエスが道端であれ、石地であれ、あるいは茨が生えている場所であれ、すべての場所に、すべての人に、神の国の福音の種をまかれたのだということを読み取らなければなりません。1節に、「イエスは神の国を宣べ伝え、その福音を告げ知らせながら、町や村を巡って旅を続けられた」と書かれあったとおりです。主イエスは故郷ガリラヤ地方から、異邦人と言われ、ユダヤ人からさげすまされていたサマリア地方にも、時には異教の地にも、そしてご自身を捕えるユダヤ人指導者たちが待ち構えているユダヤ地方、エルサレムに至るまで、あらゆる危険や困難の中を、ひたすらにみ言葉の種をまき続けられました。そして、わたしたちを罪から救い出すために、ご受難の道を進まれました。ついには、一粒の麦の種が地に落ちて死ぬように、十字架で死んでくださり、それによって多くの実りを結ばれたのです。

 主イエスがお語りになる神の国の福音はすべての人に届けられます。宗教には全く無関心で、この世の生活に明け暮れている人も、ローマ帝国の支配者やヘロデの王宮も、ユダヤ教の指導者、ファリサイ派、祭司たちも、そしてユダヤ人以外の異邦人も、すべての人が主イエスが語られる神の国の福音に招かれています。すべての人が神の国の福音を必要としているからです。すべての人が神の国の福音によって救われ、朽ちることのない永遠の命へと招かれています。主イエスが語られた種まく人のたとえでは、まず第一にこのことが強調されなければなりません。

 もう一つ、このたとえの中心点は、まかれた種が必ずや芽を出し、やがて豊かな実りをつけるということです。道端、石地、いばらの中という3種類の場所にまかれた種は実りをつけることができませんでした。もっといろんなケースを挙げることができるかもしれません。用水路に落ちて、流されてしまった種とか、隣の畑に落ちて、隣の人が収穫した場合とか、まかれた種が実りをつけずに失われてしまう例はたくさんあるでしょう。神のみ言葉の種が芽を出し、実りをつけるには、多くの障害があり、困難が待っています。わたしたちは時にその厳しい現実を見て、希望を失いかけることもないわけではありません。けれども、8節に、「また、ほかの種は良い地に落ち、生え出て、百倍の実を結んだ」と書かれています。主イエスはこの約束を与えてくださいます。イザヤ書55章11節にはこのように書かれています。「そのように、わたしの口から出るわたしの言葉も、むなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ、わたしが与えた使命を必ず果たす」。

 わたしたちもこの約束を信じながら、神のみ言葉の種をまき続ける使命を託されているのです。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、あなたの命のみ言葉をわたしたちにも与えてください。あなたのみ言葉の力を信じさせてください。あなたのみ言葉が、死んでいる人を生き返らせ、病んでいる人をいやし、憎しみと殺戮を繰り返している国民(くにたみ)に和解と平和の道を備えることを信じさせてください。

〇主なる神よ、この世界を憐れみ、あなたの愛と正義で満たしてください。

 主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

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