5月15日説教「復活して永遠のいのちの保証を与えた主イエス」

2022年5月15日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:詩編16編1~11節

    マルコによる福音書16章1~8節

説教題:「復活して永遠のいのちの保証を与えた主イエス」

 『日本キリスト教会信仰の告白』を続けて学んでいます。きょうは、「復活して永遠のいのちの保証を与え」という箇所を、聖書のみ言葉に聞きながら学んでいきます。

「復活して」と「保証を与え」の二つの動詞の主語は、言うまでもなく、『信仰告白』の冒頭にある「わたしたちが主と崇める神のひとりご子イエス・キリスト」です。主イエス・キリストが『信仰告白』の最初の文章すべての主語です。それだけでなく、主イエス・キリストは『信仰告白』全体の主語であり、またわたしたちの信仰と信仰生活すべての主語であられるということを、わたしたちはこれまでにも何度も確認してきました。

 「復活して永遠のいのちの保証を与え」、主イエス・キリストがこの文章の二つの動詞の主語ですが、その意味合いは少し違っています。つまり、「復活して」の方は、主イエスが死から復活されたという、もっぱら主イエスご自身に関することであるのに対して、「保証を与え」の方は、主イエスがご自身の復活によって、わたしたち信じる人たちに永遠のいのちの保証をお与えくださったという、わたしたち信仰者に関することが告白されています。

 このことは、すぐ前の文章でも同じでした。主イエスが十字架にかかられたことと、それに続いて、その主イエスの十字架によって、全人類の罪のための完全な犠牲がささげられ、わたしたちすべての罪が贖われたということが告白されていました。つまり、『信仰告白』の最初の文章では、まず主イエス・キリストのことが告白されており、主イエス・キリストがどのような方であり、何をなされたのか、そのみわざについて告白されているのですが、また同時に、そのことがわたしたちにどのような意味があるのか、主イエスのご人格と彼のみわざが、わたしたちに何をもたらすのか、それによってわたしたちの生き方がどのように変えられていくのかということが、告白されているのです。

 『日本キリスト教会信仰の告白』は『使徒信条』に前文を付けた簡単信条ですが、後半の『使徒信条』では、第二項の「主イエス・キリストを信じます」の中で主イエスの十字架の死、復活が告白され、次の第三項の「聖霊を信じます」の中で、わたしたちに与えられる「罪のゆるし」と「体の復活、永遠の命」が告白されており、それぞれの項目別に語られていましたが、前文では二つが合体した形で告白されていて、両者の結びつきがより強調されていると言ってよいでしょう。

そこで、きょうは第一に、主イエスご自身の復活について、そして第二に、それがわしたち信仰者にとってどのような意味を持つのかということ、その結びつき、結合について学んでいきたいと思います。

主イエスの復活について記録している最も古い文書はコリントの信徒への手紙15章3節以下と考えられています。そこを読んでみましょう。【15章3~5節】(320ページ)。3節の「すなわち」以下の文章が、パウロが受け取った初代教会の信仰告白だったと考えられます。その中に、「三日目に復活したこと」とそれに続いていくつかの復活の顕現について告白されています。主イエスの復活は初代教会の信仰告白の中心であったことが確認できます。

ちなみに、パウロがこの手紙を執筆したのが紀元55年ころと考えられますから、これが今日聖書として残されている文書の最も古い主イエスの復活の記録と言えます。きょうの礼拝で朗読されたマルコによる福音書16章の復活の記録は、福音書の中では一番早いのですが、おそらくはパウロの手紙よりは少し遅く、紀元60~70年ころに書かれたと考えられています。いずれも、主イエスの十字架の死、復活の出来事から2、30年後であったということになります。

では、主イエスの復活を信じる信仰は、主イエスの弟子たちにとって、初代教会にとって、どのような意味を持っていたのでしょうか。使徒言行録2章のペンテコステの時のペトロの説教からそれをさぐってみましょう。この説教は主イエスの復活からちょうど7週後、ペンテコステ・聖霊降臨日になりますが、その日の説教でペトロは繰り返して主イエスの復活のことを語っています。【2章23~24節】(216ページ)。また【31~32節】。ペトロの神殿での説教でも同じです。【3章15節】(218ページ)。

ペトロはこれらの説教で、自分たちは主イエスの復活の証人であるということを強調しています。つまり、ペンテコステの時に誕生した教会は、主イエスの復活の証人として集められた弟子たちによって建てられたということです。あるいは、そもそも教会とは主イエスの復活の証人としての使命を果たすために建てられたのだということです。主イエスの復活は、初代教会の信仰告白の中心であっただけではなく、彼らの信仰と教会の出発点、土台、基礎、またその目的でもあったと言えます。

主イエスの十字架の時に、ペトロを始め弟子たちは皆主イエスを見捨てて逃げ去りました。彼らは主イエスの十字架につまずき、散らされました。けれども、復活された主イエスは、散らされた弟子たちを再び呼び集めてくださいました。主イエスを3度「知らない」と否んだペトロを、復活の主イエスは再び使徒としてお立てくださいました。そのようにして、復活された主イエスと出会った弟子たちは、罪と死の中から再び立ち上がることができたのです。主イエスの復活は弟子たちを新しい命によって生かし、教会を誕生させたのです。主イエスの復活を信じた弟子たちは、主イエスの復活から新しい命を生きる者とされ、新しい歩みを始める者とされました。主イエスの復活を土台にして建てられた教会は、主イエスの復活から生きる信仰者の群れとして、この世の朽ちゆくものや死すべきものによって生きるのではなく、罪と死とに勝利した主イエスの復活の命を土台として、そこから出発して、その復活の命を与えられている者たちとして、その復活の命の完成の時を目指して歩むのです。そのようにして、主イエス・キリストの教会は、過ぎ去り行き、滅び去るしかないこの世にあって、主イエスの復活の命、永遠の命に生かされている信仰者の群れとして、復活された主イエスを証ししていくのです。

従って、主イエスの復活の証人として生きている教会は、この世にある他のすべての人間の集団、宗教団体であれ、政治団体、趣味の団体、営利団体、地域共同体、それらすべての人間集団とはこの点において決定的に違っているということが言えます。この世のすべての人間集団は、時とともに過ぎ去り、滅び行くしかなく、罪に支配され、すべては最後の死に向かっているのに対して、教会は主イエスの十字架の死から始まり、主イエスの復活から始まっている、そして死を超える希望へと向かっている、終わりの日に再び来り給う主イエス・キリストを待ち望みながら歩む群れであるということなのです。わたしたちの教会が、「主は復活して永遠のいのちの保証を与え」と告白している第一の意味がここにあります。

さて、この観点から福音書を読んでみると、福音書は主イエスの誕生から始まり、数年間の神の国の福音の宣教活動と、主イエスの地上での最後の1週間、受難週の十字架の死と葬り、そして日曜日朝の復活という順序で描かれています。けれども、普通の人物の伝記と大きく違っている点は、その人の死をもって伝記の本文が終わるのが一般的であるのに対して、福音書ではさらに1章が、マルコによる福音書では16章が続いているということです。しかも、その1章が伝記の本文が終わって、いわばエピローグのような付け足しの1章ではなく、それも本文そのものであり、それだけでなく、その最後の章から何か新しいことが始まることを予感させるような描き方になっているというのが、主イエスのご生涯を記録した福音書の大きな特徴なのです。

マルコ福音書16章1節に、「安息日が終わると」と書かれてあり、2節には、「そして、週の初めの日の朝ごく早く、日が出るとすぐ」と書かれています。この書き方は、聖書の最初のページ、創世記1章1節の「初めに、神は天地を創造された」というみ言葉を思い起こさせます。ここから、新しい1週が始まる、新しい1日が始まる、新しい神の救いのみわざが始まる、新しい信仰の歩みが始まるということを、わたしたちに予感させます。そして、振り返って考えてみると、マルコ福音書はこの最後の章から書かれているのだということに気づかされるのです。マルコ福音書は主イエスの復活の出来事から、その復活を信じた信仰によって書かれていることに気づくのです。

さらに具体的に読んでいくと、週の初めの日、つまり日曜日の早朝に、数人の婦人たちが主イエスの亡骸(なきがら)に油を塗るために墓へと急ぎます。婦人たちは敬愛する先生である主イエスに対して、最後の奉仕をするつもりでいました。亡くなった人の体に香油を塗ることは、死者を葬るための重要な儀式でした。けれど、主イエスの場合、十字架で息を引き取られたのが金曜日の午後3時過ぎ、ユダヤ人にとっては一日は日没から始まりますから、日没の前に急いで墓に葬られました。というのは、次の日はユダヤ人の安息日であって、何の仕事もしてはならないと律法で定められていたからです。そのために、主イエスのお体に香油を塗る時間がなかったのです。

そこで、婦人たちは安息日が終わった日曜日の早朝に、やり残した奉仕をするために墓へと急いだのでした。ところが、婦人たちが墓へ行ってみると、そこには主イエスのお体がありませんでした。主イエスは婦人たちが墓に着く前にすでに復活され、墓は空になっていたのです。そのために、死者のための最後に残されていた香油塗りの奉仕をしようとしてやってきた彼女たちは、その奉仕ができませんでした。その代わりに、彼女たちは白い長い衣を着た若者、これは神の使いである天使のことですが、彼が語る神のみ言葉を聞かされます。【6~7節】。

死者のために仕えようと墓にやってきた彼女たちは、今や、死者のためにではなく、復活された主のために、今も生きておられる主イエス・キリストのために、主イエス・キリストの復活の証人として、主イエス・キリストの復活の福音を携えて、それを語り伝えるために仕える者へと変えられたのです。そのために、彼女たちは急いで墓から立ち去りました。もはや、墓へと急ぐ人たちではありません。墓を後にして、復活の福音に生きる者へと変えられたのです。

ここには、主イエスの復活を知らない人と、それを知らされた人の違いが、象徴的に描かれているように思われます。まだ主イエスの復活を知らなかった婦人たちは、死者のために奉仕しようと、墓へと向かいます。すべての人間は、そのようにして、死へと向かっていきます。死ぬべき者たちのために仕え、死のために仕えている人は、死の前では為すすべなく、くずおれるほかにありません。あの婦人たちのように、「だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」と言って、不安と恐れを抱きつつ、自らも墓へと急ぐほかにありません。

しかし、主イエスの復活を知らされた婦人たちは、すでに墓の石が取り除かれていることを見ています。もはや、死者のために奉仕するのではなく、復活して生きておられる主イエスにお仕えするために、死から命へ向かって歩み出すのです。そこにこそ、本当の意味での生きる希望があります。主イエス・キリストの復活を信じ、そのことを告白するわたしたちは、その希望に生きることがゆるされているのです。

(執り成しの祈り)

〇わたしたちの命と死とをみ手に治めておられる全能の父なる神よ、あなたがわたしたちを死の墓から救い出し、永遠の命に至る希望へと召してくださいましたことを心から感謝いたします。わたしたちはあなたを離れては罪の中で死ぬほかありません。どうか、み子主イエスの復活を信じる信仰によって、わたしたちをまことの命の道へとお導きください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

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