6月19日説教「復活して永遠のいのちの保証を与えた主イエス」

2022年6月19日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:ホセア書6章1~3節

    コリントの信徒への手紙一15章12~28節

説教題:「復活して永遠のいのちの保証を与えた主イエス」

 『日本キリスト教会信仰の告白』を続けて学んでいます。きょうは前回に引き続いて、「復活して永遠の命の保証を与え」という告白について学びます。前回は、主イエスご自身の復活の出来事を中心に学びましたが、きょうは、主イエスの復活がわたしたち信仰者に永遠の命の保証を与えるということについて、聖書のみ言葉から学んでいくことにします。

 前回にも指摘したことですが、『日本キリスト教会信仰の告白』の「前文」と後半の『使徒信条』とを比較してみると、『使徒信条』では第二項目の「わたしは主イエス・キリストを信じます」の中で主イエスの十字架と復活のことが告白されており、第3項目の「わたしは聖霊を信じます」の中で、罪のゆるし、からだの復活、永遠のいのちのことが告白されています。それに対して、「前文」ではその二つの項目が一続きで告白されています。

 つまり、主イエス・キリストが人類の罪のため、すなわち、わたしたちの罪のために十字架につけられ、それによって完全な犠牲をささげてくださった、そのことがわたしたちのための罪からの贖いであったということが、同じ一つの文章の中で告白されており、主イエスの復活もそれと同じです。主イエスの復活がわたしたち信仰者に永遠の命の保証を与えるものであるということが、「復活して永遠のいのちの保証を与え」と、二つのことがあたかも一つのことであるかのように告白されています。これほどまでに、主イエスの救いのみわざとわたしたちに与えられる恵みとが密接に、また堅く、結合していることが「前文」では強調されているのです。

これは、主イエスのご生涯とそのみわざのすべてが、わたしたちのためであったことと関連しているのは言うまでもありません。主イエスの誕生、ご生涯、奇跡やいやしのみわざ、弟子たちに語られた説教、そしてご受難、十字架の死、三日目の復活、40日目の昇天、それらのすべては、わたしたち人間の罪のゆるしと救いのため、わたしたちのからだの復活のため、わたしたちの永遠の命のため、わたしたちの救いの完成のためだったのです。主イエスのご生涯全体とわたしたち信仰者の救いの恵みとは密接に結びついているのです。

 では、主イエスの復活の出来事とわたしたち信仰者の永遠の命の保証とは、どのように結ぶついているのか、その関連について聖書はどのように教えているのかをみていきましょう。

 福音書の中には、主イエスの復活とわたしたちの命の保証とが直接に関連づけられている聖句はありません。福音書は主イエスの復活の出来事で終わっているからです。主イエスの復活と聖霊降臨後、教会が誕生し、パウロの書簡になって初めて両者の関連が頻繁に語られます。では、それはパウロの信仰、パウロが考え出した神学と言うべきなのでしょうか。いや、そうではありません。主イエスの復活の出来事以前に、主イエスご自身の信仰の中にはっきりとあったということを、わたしたちは福音書の中に確認することができます。主イエスは弟子たちに繰り返して説教されました。「わたしを信じ、わたしに従ってくる人は、まことの命を得るであろう。その人は、来るべき神の国では永遠の命を受け継ぐであろう」と。

 特に、ヨハネによる福音書では、主イエスを信じる信仰と永遠の命の結びつきが強調されています。3章16節にこのように書かれています。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」。また、【6章39~40節】(175ページ)。さらに、【11章25~26節】(189ページ)。

 これらは、主イエスがご自身の復活と、信仰者に与えられるであろう永遠の命を預言したみ言葉として読むことができます。主イエスはご自身の十字架の死と三日目の復活をあらかじめ弟子たちに予告されただけでなく、復活されたあとに弟子たちと信じる者たちすべてに、朽ちることのない、死によっても終わることがない、永遠の命をお与えになることをもあらかじめ約束しておられました。

 では次に、パウロの書簡を見ていきましょう。パウロの書簡では、主イエスの復活と信仰者に約束されている永遠の命とが、別々に語られるという例はほとんどなく、両者の結びつきが多くの箇所で強調されています。その代表的な個所が、きょうの礼拝で朗読されたコリントの信徒への手紙一15章です。この章全体が「復活の章」と言われていますが、ここでは主イエスの復活の出来事とそれを信じる信仰者の体の復活、永遠の命が密接に関連していること、切り離すことができないことが繰り返して語られています。

 パウロはまず3節から、彼自身が初代教会から受け継いだ信仰告白の中で、主イエスの復活と、復活された主イエスの顕現について語り、さらにはパウロ自身にも復活の主イエスが出会ってくださったことを感謝と驚きとをもって語った後で、12節以下では、主イエスの復活を信じながら、信仰者の復活はないと主張しているコリント教会の一部の人たちの誤った信仰を正すために、次のように語ります。「主イエスの復活と信仰者の体の復活とは分かちがたく結びついているのであるから、もし信仰者の体の復活を否定するなら、主イエスの復活をも否定することになるのであって、それはキリスト教会の信仰と宣教の基礎を失うことになるではないか」と、彼は熱っぽく語ります。したがって、ここでは当然、主イエスの復活と信仰者の体の復活、永遠の命との固い結びつきが強調されていることが分かります。

 もう1箇所、ローマの信徒への手紙6章を読んでみましょう。【3~8節】(280ページ)。ここでは、主イエスの死と復活が、わたしたち信仰者が古い罪の体に死に、新しい復活の命に生きること、つまり主イエスの出来事とわたしたちの信仰の体験、その二つのことが洗礼という礼典において同時に起こっていると語られています。ここでも、主イエスの復活と信仰者の永遠の命とが固く結ばれています。

 では次に、そのような両者の固い結びつきはどこから来るのでしょうか。そのことを語っている箇所を読んでみましょう。【ローマ8章11節】(284ページ)。ここでは、主イエスを死人の中から復活させられた父なる神が、またその父なる神から遣わされた霊、聖霊によって、わたしたち信仰者にもまことの命を、死に勝利した永遠の命をお与えくださるであろうと言われています。主イエスの復活とわたしたち信仰者の復活、永遠の命とを固く結びつけているのは、主イエスを死人の中から復活させられた父なる神の力であり、また聖霊なる神なのです。主イエスご自身の復活の中に、わたしたち信仰者の復活と永遠の命の約束と保証がすでに含まれていると言ってよいでしょう。主イエスはわたしたち滅びゆく者たちに永遠の命を約束するために、死の墓から三日目に復活されたのです。『日本キリスト教会信仰の告白』で「主イエスは復活して、永遠の命の保証を与え」と告白されているのは、そのことです。

 『信仰告白』の中の「保証を与え」とは、まだそれは実際には与えられていないが、やがて必ずや与えられるという確かな保証があるということを意味しています。。再び、コリントの信徒への手紙一15章に戻りましょう。20節にはこう書かれています。「しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました」。「初穂」とは、麦や野菜、果物などの最初の実りのことです。イスラエルの民は初穂を自分たちの食用にしないで、神にささげました。初穂は神からの恵みの賜物だからです。その初穂には間違いなく次の収穫が続くことを神は約束しておられます。主イエスの復活には間違いなく信じる者たちの復活が続きます。復活の初穂である主イエスの復活は、わたしたち信仰者の復活の確かな保証なのです。

 20節の「死者の中から」と「眠りについた人たち」はいずれも複数形です。主イエスお一人だけを言うのではありません。主イエスは、罪のゆえに死すべきすべての罪びとたちの中に入ってきてくださり、そのお一人となって十字架で死んでくださいました。また、主イエスは主イエスの復活を信じるすべての信仰者の代表者として、死に勝利され、復活されました。それによって、わたしたちに復活と永遠の命の確かな保証をお与えくださったのです。

 この確かな約束と保証は、終わりの時、神の国が完成し、主イエスが神の国の王として君臨され、最後の敵である死を完全に滅ぼされる時に、実現します。しかし、主イエスの復活を信じる信仰者にとっては、主イエスがすでにご自身の十字架の死と復活によって、罪と死とに対して勝利しておられることを知らされているゆえに、そして聖霊によって、復活と永遠の命の確かな保証を与えてくださっておられるゆえに、主イエスを信じる信仰者にとっては、今すでにその永遠の命に生き始めていると言えるのです。

 永遠の命とは何かということを確認しておきましょう。わたしたちはこれまでに何度も聖書のみ言葉から学んできたように、永遠の命とはこの世にある今の命が永続するということではありません。今の命は、どれほどに引き延ばしたとしても、それはいずれか滅びなければならない命です。聖書が教える永遠の命とは、この世の命の延長ではなく、全く新しく主イエス・キリストから与えられる命であり、復活され、今も、そしていつまでも生きておられる主イエス・キリストと共にある命であり、父なる神との永遠の交わりの中で生きる命のことです。主イエスがマタイによる福音書28章20節で、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と約束されたみ言葉を信じる信仰者に与えられる命のことです。

 第二には、それは死を乗り越えた命のことです。あえて言うならば、死から始まる命のことです。主イエス・キリストの十字架と共に、古い罪に支配されていたわたしが死に、主イエスの復活によってわたしが新しい命に生かされる命であり、主イエスによって罪ゆるされた命のことです。

 第三に、それは、この世に属する命ではなく、来るべき神の国に属する命のことです。ヨハネの黙示録21章3~4節でこのように語られている命です。「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである」。主イエス・キリストの復活を信じるわたしたちは、この永遠の命へと招き入れられているのです。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、わたしたちが朽ち果てる命のためのパンだけによって生きるのではなく、永遠の命へと至らせるあなたのみ言葉を信じて生きる者としてください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

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