7月3日説教「燭台の上に置かれたともし火」

2022年7月3日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:イザヤ書60章1~7節

    ルカによる福音書8章16~18節

説教題:「燭台の上に置かれたともし火」

 きょうの礼拝で朗読されたルカによる福音書8章16~18節の3つの節は、いずれもルカ福音書の他の個所とマタイ、マルコ福音書に、違った分脈の中に、ほとんど同じ文章で出てきます。たとえば、16節の燭台の上に置かれたともし火のたとえは、ルカ福音書11章33節にも同じように書かれています。【11章33節】(129ページ)。でも、ここでは少し違った文脈で、わたしたちの体のともし火と言われています。また、マタイ福音書5章の「山上の説教」では「地の塩、世の光」の比喩との関連で「ともし火のたとえ」が語られています。その個所を読んでみましょう。【マタイ福音書5章13~16節】(6ページ)。

 次の17節と18節も、ほとんど同じみ言葉がルカ福音書と、マタイ、マルコ福音書に、違った文脈の中で語られています。これらのことから、主イエスはさまざまな違った文脈の中で、この3つの節のみ言葉をたびたびお語りになったということが推測できます。それは、この3つの節で語られていることが主イエスが説教された神の国の福音を理解するうえで、非常に重要な意味を持っていることを示唆しています。

 では、16節からその深い意味を読み解いていきましょう。【16節】。主イエスの時代のパレスチナ地方の一般の家では、一部屋に居間、台所、食堂があり、夜にはそこが寝室になり、その一部屋を照らすために部屋の中央に燭台を置き、その上にランプを置くと、一個のランプが部屋全体を明るく照らすという造りになっていました。そのランプを何かで覆ったり、寝台の下に置くならば、ランプはその役割を果たさず、家全体が暗くなり、生活できません。

主イエスはだれでもが日常に経験して知っているこのことをたとえに用いて、神の国の福音の真理を語っておられます。ランプのともし火、その光とは、わたしたちがすぐに気づくように、それはすべての人を照らすまことの光として、クリスマスの時にこの世に誕生された主イエスご自身を指していることは明らかです。

マタイ福音書5章の山上の説教では、先ほど読んだように、わたしたち信仰者の実存、生き方を特徴づけている「地の塩」「世の光」との関連で、「山の上にある町は、隠れることができない」というみ言葉に続いてともしびのたとえが語られています。ここでは、「地の塩」「世の光」としてこの世においでくださった主イエスに従って、その福音によって生きるわたしたち信仰者、キリスト者の生き方が教えられています。

主イエスは罪と死に支配されているこの地を滅びと腐敗から救うために、「地の塩」として働かれました。そして、最後にはご受難と十字架の死、そして三日目の復活によって、罪と死に勝利され、すべて信じる人にまことの命をお与えになりました。主イエスはまた、「世の光」として、世界を覆っていた闇を打ち破り、暗黒の地に住む人々をまことの光で照らしてくださいました。

わたしたち信仰者はその主イエスの救いの恵みにあずかり、「地の塩」「世の光」であられる主イエスを証する務めを果たすことによって、わたしたち自身もまた「地の塩」「世の光」とされ、主イエスのまことの光を反射するようにして、その光を燭台の上に高く掲げ、人々の前にその光を輝かす務めへと召されているのです。

かつては暗闇の中で死んでいたわたしが、いまや主イエスのまことに光に照らされ、わたし自身も光の子とされ、その光を高く掲げるようにと召されているわたし、それはどんなにか光栄ある、尊い務めであることでしょうか。しかし、それは決してわたしの名誉のためであるのではありません。マタイ福音書で教えられているように、天の父なる神が崇められるため、神の栄光のためです。

次の17節を読みましょう。【17節】。このみ言葉も、ルカ福音書では12章2節、マタイ福音書では10章26節、マルコ福音書では4章22節に、それぞれ違った文脈の中で語られています。それらの個所をも参考にしながら、このみ言葉が持つ深い意味をさぐっていきましょう。

第一には、ここでもまた主イエスが語られた神の国の福音との関連で語られていると理解されます。主イエスが神の国の福音を説教されたことによって、それまでは隠されていた神の国の真理が、すなわち、神がイスラエルだけでなく全世界のすべての国民の唯一の主として、愛と恵みと救いとをもってご支配される新しい時、神の国の時が今始まったことが明らかにされたということです。旧約聖書の民イスラエルには約束として、預言として語られていた神の国、神の恵みと愛のご支配が今や成就した。全世界のすべての人が、新しい神の恵みのご支配の中に招き入れられている。救いの恵みを差し出されている。律法によらず、人の功績によらず、ただ一方的に差し出されている神の救いに恵みを信じる信仰によって、すべての人は罪ゆるされ、救われる。主イエスがお語りになった神の国の福音は、そのことをすべての人に公にし、すべての人の目の前に明らかに差し出したのです。

17節のみ言葉は、そのような神の救いのみ心を明らかにするとともに、その福音を聞き、み言葉の光に照らされたわたしたち人間の中に隠されていたものをも明らかにします。いつも神のみ心に背いているわたしの罪が、神と隣人を愛することをせず、自己中心的で、傲慢で、悔い改めることをしないわたしの罪が、神のみ言葉を聞いても信じないわたしの不信仰が、神の招きを受けながらかたくなに自らの中に閉じこもっている不従順なわたしの罪が、その時同時に明らかにされます。神のみ言葉の前では、わたしの貧しさや破れがすべて明らかにされます。神のみ言葉の光の前では、何も隠れることができません。わたしたちはそのようなみ言葉を聞き、恐れつつ、また謙遜になって、「主よ、我を憐れみ給え。わたしを罪より救い給え。わたしを新しい人に造り変えてください。あなたのみ言葉に聞いて、信じ、従順に従っていく者としてください」と祈り求めるほかにありません。

17節のみ言葉は、これからのちに明らかにされる内容をも含んでいます。この時点ではまだ、主イエスが神から遣わされたメシア・キリスト・救い主であるということはすべての人の目には隠されていました。当時の民衆は、イスラエルがローマ帝国の支配から解放されることを待ち望んでいました。たくましい軍馬にまたがって、武力でイスラエルの独立を勝ち取る政治的メシアを期待していた彼らには、主イエスが十字架につけられるメシアであることは隠されていました。一切を捨てて主イエスに従った12弟子たちにも、主イエスが苦難の僕として十字架への道を進み行かれることはまだ隠されていました。

しかし、やがてそのすべてが明らかにされます。主イエスがわたしたちの罪をご自身に引き受けられ、わたしたちの罪のために苦しみを受けられ、十字架にご自身の尊い命をおささげになることによって、わたしたちを罪の奴隷から贖い出し、救われるメシアであることが、すべての人に明らかにされます。神がわたしたち罪びとたちを愛され、ご自身の独り子さえも十字架に引き渡されるほどにわたしたちを愛された、その愛が明らかにされます。そして、その時には、わたしの罪や貧しさや破れにもかかわらず、主イエス・キリストの十字架によって、ただその十字架の福音を信じる信仰によって、わたしたちすべての人が罪ゆるされ、救われるのだということが明らかにされるのです。

もう一つのことを付け加えます。終わりの日、神の国が完成される時、主イエスが神の国の王として君臨され、信じる者たちに永遠の命をお与えくださり、わたしたちが永遠に神の国の民とされるのだということが明らかにされます。

18節で主イエスは【18節】と言われます。このみ言葉も、ルカ福音書19章26節と、マタイ福音書13章12節、および25章29節、マルコ福音書4章25節で、それぞれ違った分脈の中で語られています。それらを参考にしながらその意味を読み解いていきましょう。

まず、主イエスは「どう聞くかべきかに注意しなさい」と言われます。主イエスがお語りになった神の国の福音をわたしたちはどう聞くべきなのでしょうか。聖書に書かれている神のみ言葉を、わたしたちはどう聞くべきでしょうか。それを、神がわたしの救いのためにお語りくださった神の命のみ言葉として聞き、主イエスがお語りになった神の国の福音を、今ここで主イエスがわたしに対して、わたしの救いとまことの命のために語っておられる命のみ言葉として聞くこと、これこそがわたしたちが礼拝で神のみ言葉を聞く時の基本姿勢でなければなりません。パンなしではわたしの体の命を養うことができないように、神の命のみ言葉を聞くことなしには、わたしの魂の本当の命を養うことができないということを知り、鹿が谷川を慕いあえぐように神のみ言葉を慕い求める時、神のみ言葉は命のみ言葉としてわたしを生かすのです。

17節後半のみ言葉は、元来は一般的な原則として言われていた格言のようなものであったと推測されます。つまり、たくさんのお金を持っている人はそれを上手に活用してよりたくさんのお金を手に入れるが、持っていない人はお金の活用方法をも知らないので、持っていたわずかなお金をも失ってしまうであろうという意味で、一般に流布していたことわざであったろうと考えられます。

けれども、主イエスがこの一般的な格言を同じような意味で用いていたのかどうかは改めて吟味されなければなりません。ルカ福音書19章26節では、「ムナのたとえ」の終わりに同じみ言葉が語られています。【26節】(147ページ)。このたとえで主イエスが教えておられる内容から判断すれば、「持っている人」とは、神から与えられている賜物を神に感謝し、それを神のみ心に従って生かして用いる人のことであり、その人は神から与えれている賜物がより豊かに祝福される、より多くの賜物を神から与えられるであろうという意味に理解されます。「持っていない人」とは、神から与えられている賜物に気づかず、感謝もせず、それを神と隣人のために用いることをしなかった人のことであり、その人はすでに与えられていた神の賜物をも失ってしまうであろうという意味です。

神のみ言葉は、それを聞き、信じ、喜んで聞き従う人には、恵みを増し加え、わたしたちに豊かな実りを結ばせます。神のみ言葉はわたしの最高の知恵であり、喜びであり、わたしの足のともし火、わたしの道の光です。そのように信じ、告白する時に、神のみ言葉はわたしに豊かな命と力を与えるのです。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、わたしたちが朽ちる地上のパンのために生きるのではなく、永遠の命に至らせるあなたの命のみ言葉によって生きる者としてください。主なる神よ、どうかわたしたちをまことの光で照らしてください。光の子たちとして、この世にあって、主イエス・キリストを証しする者としてください。

〇主よ、願わくは、世界にまことの平和をお与えください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

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