7月17日説教「救いの完成される日まで」

2022年7月17日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:詩編98編1~9節

    ローマの信徒への手紙8章18~30節

説教題:「救いの完成される日まで」

  『日本キリスト教会信仰の告白』をテキストにして、わたしたちの教会の信仰の特徴について続けて学んでいます。その最初の文章は「わたしたちが主とあがめる」から始まって、その最後は、「救いの完成される日までわたしたちのために執り成してくださいます」で結ばれています。きょうはこの部分の「救いの完成される日まで」という告白について、聖書のみ言葉に導かれながら学んでいきます。

 この最初の段落のすべての文章の主語は、神の独り子、主イエス・キリストです。そのことを今一度思い起こすことが、きょう学ぶ「救いの完成される日まで」を考えるうえで、非常に重要な意味を持ちます。というのは、主イエス・キリストはまことの神として、またまことの人として、誕生から十字架の死に至るまで、わたしたちの救いのためにすべてのみわざを完全に行われただけでなく、主イエス・キリストはわたしたちの救いの完成の時に至るまで、わたしたちから片時も離れることなく、わたしたちを導き、支えてくださるということが、ここで今一度強調され、告白されているからです。

主イエス・キリストはこの『信仰告白』全体の主語です。また、わたしたちのすべての信仰生活の主語です。それのみならず、わたしが地上の歩みを終えて死を迎える時にも、否それだけでもなく、わたしの死後も、終わりの日に神の国が完成し、わたしの救いが完成されるその時に至るまで、主イエス・キリストはわたしの主語として、わたしのためにすべての救いのお働きをなさるのです。

 「救いの完成される日までわたしのために執り成してくださいます」、この告白はキリスト教教理では、終末論の領域に属します。『日本キリスト教会信仰の告白』の中で終末論に関連している箇所はほかに、「終わりの日に備えつつ、主が来られるのを待ち望みます」、それから、『使徒信条』の部分では、「そこから来て、生きている者と死んでいる者とを審かれます」という箇所でも終末論が取り扱われます。これらから明らかなように、『日本キリスト教会信仰の告白』は終末論を強調しています。終末論はわたしたちキリスト者の信仰全体を貫いている柱であり、また目指すべき目的地であると言えます。きょうは「救いの完成される日まで」という告白について、終末論の視点から学んでいくことにしましょう。

第一に確認しておくべき点は、『日本キリスト教会信仰の告白』の最初の段落が「救いの完成される日まで」という文章で結ばれているということから、この段落では、わたしたちの救い、すなわち罪のゆるしを最終的に目指しているということが、明らかになります。神の独り子である主イエス・キリストが「まことの神でありまことの人」であるという告白は、わたしたち罪びとの救いが完全であるということを語っています。主イエスが人となってこの世においでくださったことも、わたしたち罪びとの救いのためです。主イエスが十字架で死んでくださったこと、復活されたこと、それもわたしたちの救いのためです。そして最後に、今は天におられてわたしたちのために執り成しておられること、それもわたしたちの救いの完成のためです。主イエスはわたしたちの救いのために、世の初めから今に至るまで、そして世の終わりまで、神の国が完成される終末の時まで、働いておられます。主イエスはわたしがこの世に誕生した時から、否わたしの誕生以前から、今に至るまで、この後も、わたしの死の時にも、否わたしの死ののちにも、神の国でわたしの救いが完成される時まで、わたしと共におられ、わたしのために働いてくださいます。きょうの礼拝にわたしが招かれているのも、わたしの救いの完成のためなのです。

「救いの完成される日まで」という告白で次に考えるべきポイントは、わたしたちの救いがまだ完成されていないということをこの表現は意味しているということす。わたしたちの救いは、どんなに信仰深く、熱心で、霊に満たされているような人であれ、あるいはもう何十年と礼拝を続け、教会に仕えてきた人であれ、その信仰はまだ完成されていない、まだ最終目的に達していないというのです。わたしたちはみなだれでも、信仰においては未完成です。

しかしまた同時に、わたしたちの信仰は確かに最後の完成に向かっているという保証もここには含まれています。主イエスが天の父なる神の右に座しておられ、わたしたちの救いのためにいつも執り成していてくださる、そして終わりの日に、主イエスは再びこの世においでくださり、信じる者たちを天に引き上げ、神の国へと招き入れ、わたしたちの救いを完成させてくださる、その確かな保証と希望もまた同時にここでは告白されているのです。いまだ未完成である、しかし同時に、確かな完成の保証がある、この二つのことは、切り離すことはできません。その関連性を覚えながら、更に考えていきましょう。

わたしたちの救いが今はまだ完成されていない、未完である、完成の途中にあるとは、どういうことを意味するのでしょうか。そうであるとすれば、わたしたちの救いは不十分であるということになるのか、いわばわたしの一部分しか救われていないということなのか。否、そうではありません。わたしたちの救いは、主イエス・キリストの十字架の死と復活によって成就しました。主イエス・キリストの救いのみわざは完全であり、少しの不足もなく、すべての人にとって、全き救いをもたらします。まことの神でありまことの人であられる主イエス・キリストの、神のみ子としての汚れなき、尊い十字架の血はすべての人のすべての罪を永遠に贖い、信じる人に完全な救いを与える力と恵みとを持っています。わたしたちの救いのために、ほかに何かを必要とするということは全くありません。その意味では、わたしたちの救いは完全であり、何の不足も欠けもありません。

けれども、わたしたちは主イエスの救いの恵みを今はまだ信仰によって受け取っています。わたしたちは信仰によって罪ゆるされ、救われています。しかし、罪と死は今なおこの世に残っています。罪と死の支配が完全に終わったわけではなく、今なおこの世を支配しています。わたしたちは今なおこの世にあり、信仰によって罪と死の誘惑と戦い続けています。その戦いは確かに勝利に向かっている戦いではあるけれど、終わりの日に神の国が完成され、主イエス・キリストによって罪と死とが全く滅ぼされるまでは、わたしたちの信仰の戦いは続くのです。

パウロはローマの信徒への手紙8章18節以下で、終わりの日の救いの完成を目指したこの信仰の戦いについて、人間たちだけでなく、すべての被造物も共にうめき、産みの苦しみをしていると語っています。【21~25節】(284ページ)。パウロは終わりの日の完成を待ち望んでいる被造物のうめきを聞いています。彼はそれほどまでに、今はまだ未完であることを自覚しつつ、終わりの日の完成を切なる思いで待ち望んでいるのです。未完成であるからこそ、いよいよ熱心に、真剣に、終わりの日の完成を待ち望み、切望するのです。

終わりの日にみ国が完成される時には、信仰者は完全に罪の奴隷から解き放たれ、朽ちる肉の体から朽ちることのない霊の体に変えられ、神の子たちとしての栄光に入れられるのだ、その望みによって、わたしたちは今救われているのだ、この希望によって、わたしたちは終わりの日の完成を忍耐をもって待ち望むのだ、パウロはそのように語ります。

また、26節以下では、聖霊なる神が、終わりの日の完成に向かって進んでいるわたしたちのために執り成していてくださると語ります。【27節b~30節】。終わりの日にみ国が完成する時には、信仰者はみ子主イエス・キリストに似た者とされ、神のご栄光に包まれるであろうと語られています。わたしたちは日々に、わたしたちの救い主であられる主イエス・キリストに近づいていくのです。その救いの完成の時まで、聖霊なる神が、そして天におられる主イエス・キリストが、わたしたち信仰者のために絶えず執り成しておられ、わたしたちの道を終わりの日の完成へと向かわせてくださるのです。

終わりの日の救いの完成を目指す途上にあるわたしたち信仰者に対する導きと励ましのみ言葉は、聖書の中に数多くあります。フィリピの信徒への手紙3章12節以下にはこのように書かれています。【12~14節】(365ページ)。パウロはここでも、自分はまだ完全な者になったのではないと認めています。まだ、復活の体を与えられていない、まだこの世の朽ち果てるほかない肉の体に生きている、まだ最後の目標に達していないことを知っていると告白しています。けれども、主イエス・キリストの十字架と復活によって贖われ、罪の奴隷から解放され、主キリストのものとされている、主キリストによって捕らえられている、だから、終わりの日の確かな目標に向かって走り続けているのだと語っています。

キリスト者にとっては、まだ救いの完成を見ていないということは、その人の信仰を弱めたり、救いの確信をあいまいにすることは決してありません。いやむしろ、救いの完成を目指して力強く、たくましく走り続ける、勇気と希望の源なのです。最後の目標を目指して、前方へと体を向けつつ、走り続けるエネルギーとなるのです。

わたしたちの信仰と救いは、この世にあっては、なお未完成です。時として迷ったり、弱ったり、つまずくこともあるかもしれません。けれども、わたしたちは救いと信仰の完成者であられる主イエス・キリストによって捕らえられているゆえに、確かに最後の目標に向かって走り続けることができるのです。

「救いが完成される日まで」という告白について、もう一つ注目したいことは、「完成される」は受動態であるということです。聖書の中で主語が隠されていて受動態で表現される場合には、多くは神が意味上の主語と考えられます。ここでも、「完成される」の意味上の主語は神であり、神のみ子主イエス・キリストです。わたしたち信仰者が自分の救いの完成のために何らかの努力をしなければならないのではありません。わたし自身が救いを完成させなければならないのではありません。わたしたちの救いを完成してくださるのは、天地創造の初めから人間の救いのためのみわざをなし続けてこられた主なる神であり、また神の救いのみわざを実際にこの世においでくださって成就された主イエス・キリストです。

へブライ人への手紙12章2~3節を読みましょう。【2~3節】(417ページ)。この主イエス・キリストを信じ、その導きに従って歩むときに、わたしたちの信仰の歩みは確かに、終わりの日の救いの完成に向かっていくのです。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、わたしたちの信仰の歩みはたどたどしくあり、時として迷いや疑いに閉ざされたり、疲れ、立ち尽くしたりすることがあります。主よ、どうかわたしたちの歩みを強くしてください。主キリストがわたしたち一人一人の歩みにいつも伴ってくださり、励ましてくださり、終わりの日の完成に向かって前進させてくださいますように。

〇神よ、どうか世界にまことの和解と平和、共存と分かち合いをお与えください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

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