7月24日説教「ステファノの説教(四)出エジプトと荒れ野の旅」

2022年7月24日(日)秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:出エジプト記24章1~8節

    使徒言行録7章36~43節

説教題:「ステファノの説教(四)出エジプトと荒れ野の旅」

 ステファノは初代エルサレム教会で選出された7人の長老、あるいは執事の中の一人でしたが、主イエス・キリストの福音を宣べ伝えたことによってユダヤ人からの迫害を受け、石打ちの刑で処刑され、キリスト教会最初の殉教者となりました。7章2節から53節までのステファノの長い演説は、処刑される直前にユダヤ最高法院の裁判の席で語った彼の弁明ですが、その内容は彼が自分の無罪を主張するための弁明と言うよりは、主イエス・キリストの父なる神がイスラエルの民をとおしてなしてくださった救いのみわざについての説教であると言ってよいでしょう。

 アテファノの説教全体を貫いている中心的なテーマを二つにまとめることができます。一つは、アブラハムから始まる神の民、イスラエルの2千年近くの歴史を導かれたのは主なる神であり、その歴史は神の救いの歴史であったということ。もう一つは、その神の救いの歴史のすべては、神が約束されたメシア・キリスト・救い主を待ち望み、またその救い主を証しする歴史であったということ、さらに言うならば、そのイスラエルの待望と証しは、ユダヤ人たちが十字架につけて処刑した主イエス・キリストによって成就したのだという十字架の福音、これがステファノの説教の中心でした。そして、これが彼が迫害され、殉教することになった理由となったのです。

 ステファノの説教には主イエス・キリストというお名前は一度も出てきませんが、彼の説教は旧約聖書で預言され、証しされている主イエス・キリストのことを語っているのであり、またそれを聞いていたユダヤ最高法院の議員たちも自分たちが十字架で処刑したあのナザレ人イエスのことをステフアノは語っているのに違いないということをよく理解していました。

きょうは、36~43節に記されている彼の説教から主イエス・キリストの福音を聞き取っていきたいと思います。36節を読みましょう。【36節】。「この人」とは、これまでに語られてきたモーセのことです。「この人」という言葉が強調されています。前の節で言われていたように、同胞のユダヤ人が「だれが、お前を指導者や裁判官にしたのか」と言って拒み、殺そうとしたそのモーセを、神はイスラエルの「指導者また解放者」としてお選びになり、イスラエルの救いのためにお遣わしになったのであり、またそのモーセをこそ、紅海の奇跡によってイスラエルの民をエジプト軍の追っ手から救い、40年間の荒れ野の困難な旅を安全に導く指導者としてお立てになったのだという、神の驚くべき選びのみわざをステファノは強調しているのです。

 同胞のユダヤ人からは拒絶され、見捨てられたモーセを、神はお選びになられ、イスラエルの民をエジプトの奴隷の家から救い出すための指導者としてお立てになられたのです。ステファノがこのモーセの姿、モーセの使命と働きに、主イエス・キリストの預言を見ていたということは明らかです。神がご自身の民イスラエルと全世界のすべての人たちを罪の奴隷から救い出すために人間のお姿でこの世にお遣わしになられた神のみ子主イエスを、ユダヤ人の宗教的・政治的指導者であった長老たち、律法学者たちや祭司たち、またすべてのユダヤ人が、神を冒涜する者、律法と神殿を軽んじ、否定する者として裁き、十字架につけて処刑した。けれども神はその主イエスによってこそ、すべての人を救おうとされた。その主イエスの十字架の死によってこそ、すべての人の罪を贖おうとされた。モーセはこの主イエスを預言し、証ししている。そしてまた、主イエスを投げ捨てたあなたがたの背きと罪が、ここで明らかにされている。ステファノの説教はそのことを語っているのです。彼らユダヤ人指導者たちに悔い改めを迫っているのです。

 次の37節でも同じように、主イエスを十字架に引き渡したユダヤ人指導者たちの罪とかたくなさが指摘されているように思われます。【37節】。これは申命記18章15節に記されているモーセの言葉ですが、モーセはここでイスラエルの民に対してこう命じています。「わたしはイスラエルの民に対して神のみ言葉を語り伝える預言者として神に立てられたが、やがて神はあなたがたの子孫の中から一人の偉大な、最高の預言者をお立てになるであろう。あなた方はそのまことの預言者が語る神の言葉に耳を傾け、聞き従わなければならない」と。ステファノは、そのまことの預言者こそが主イエスであると語っているのです。そうであるのに、あなたがたユダヤ人は主イエスのみ言葉に聞き従わず、むしろ主イエスを投げ捨て、十字架につけて葬り去ろうとしたのではないか。そこにあなたがたの罪があるのだ、とステファノは語るのです。

 ユダヤ最高法院の裁判で、裁かれるべき被告席に立たされているステファノが主イエス・キリストの福音の証し人として立つとき、裁くべき立場にあると思い込んでいたユダヤ人指導者たちが裁かれなければならない罪びとであることが明らかにされていくのです。

 38節以下でも、モーセに聞き従わなかった当時のイスラエルの罪が語られます。【38~41節】。モーセはシナイ山で神からの十のみ言葉、十戒を授けられました。十戒は、神によってエジプトの奴隷の家から救い出されたイスラエルの民が、神の民とされ、神のみ心を行い、神を礼拝する民として生きていくための導きとなるべき道しるべです。十戒は出エジプト記20章に記されています。きょうの礼拝で朗読された24章には、十戒をはじめ20章22節からの契約の書に基づいた神とイスラエルとの契約締結の儀式が記されています。イスラエルの民はこの神との契約によって生きる民となったのです。ステファノは38節で、これを「命の言葉」と呼んでいます。命の言葉とは、神から与えられた十戒と契約の書が命を持ち、また命を与える神のみ言葉であるとともに、イスラエルの民がそのみ言葉に聞き従う時に、まことの命に生きる民とされるという意味を含んでいます。

 しかしながら、イスラエルの民はモーセの命令に聞き従わず、彼がシナイ山から帰るのが遅いのにいら立ち、モーセと神のみ言葉に導かれることを不安に思い、もっと確かな目に見える神々を造ることを欲し、アロンに金の雄牛の像を造らせたということが、出エジプト記32章以下に書かれています。神の命のみ言葉に聞き従って生きるのではなく、口のきけない、目の見えない、自ら歩くこともできない、金や銀、石や木材によって作られた偶像、死せる偽りの神々によって生きようと欲したのです。

 けれども、イスラエルの民を強いみ腕をもってエジプトの奴隷の家から救い出されたまことの神を捨て、その神の命のみ言葉に聞き従わなければ、イスラエルはまことの命を生きていくことはできません。やがて彼らは、約束の地を追われ、神礼拝の中心であった神殿をも失い、遠い異教の地バビロンに捕囚となるであろうと預言したアモスの預言が成就されることとなるのです(42~43節参照)。アモスは紀元前8世紀中ころの預言者ですが、モーセの時代、紀元前13世紀に荒れ野でモーセの命令に聞き従わなかったイスラエルの民の反逆の中に、ステファノはすでにバビロン捕囚による神の最終的な裁きを見ているのです。

 したがってまた、神が最後にお遣わしになった偉大な預言者であられる主イエスのみ言葉に聞き従わず、主イエスの神の国の福音の説教を受け入れず、主イエスの奇跡やいやしのみわざをも受け入れず、主イエスを十字架に引き渡した彼らの罪は必ずや神の厳しい裁きを受けるであろうということが、ステファノの説教では暗示されているのです。彼らもまた確かにそのことを聞き取りました。そうであるのに、彼らは自らの罪を悔い改めず、むしろ、自分たちの義を主張して、ステファノを処刑しようとするのです。

 ここでわたしたちは、ステファノが指摘している彼らユダヤ人指導者たちの罪と、その罪から救われるためのわたしたちの信仰の道を、三つの点から見ていきましょう。第一に、37節でモーセが語った神の約束についてです。「神はあなたがたの兄弟の中から、わたしのような預言者をあなたがたのために立てられる」。申命記18章ではこのあとこう続きます。「あなたがたは彼に聞き従わなければならない。彼はわたしが命じるすべてを彼らに告げるであろう」(18節参照)。

 神は最後にお遣わしになった最も偉大な預言者であられる主イエス・キリストによって、イスラエルの民に、また全世界のすべての人々に、彼らの救いのために必要なすべてのみ言葉をお語りになりました。だれであっても、主イエス・キリストがお語りになった神の国の福音、主イエスがわたしたちの救いのためになしてくださった十字架の福音を聞くならば、ただそれだけで、それを信じる信仰によって、すべての人は罪ゆるされ救われるのです。このほかに何も付け加える必要はありません。

しかし、ユダヤ人は主イエスに聞き従いませんでした。彼らは主イエスの低さと貧しさにつまずきました。彼らは軍馬にまたがった力強い英雄を期待していました。ローマ帝国の支配からイスラエルを解放し、民衆を貧しい生活から脱出させるための奇跡を行い、悪や不正義を力で打ち倒す、この世の英雄を期待していました。彼らは、十字架につけられた主イエスに対して、「自分で自分を救え、そうしたたら信じよう」と言って、十字架の主イエスをあざ笑いました。

ユダヤ人たちは主イエスの十字架の福音につまずきました。彼らは、見に見えるしるしを求めました。これが第二の点です。ステファノは40節以下で、自ら偶像を造り、目に見えるものに頼ろうとする彼らの罪について語っています。ユダヤ人のみならず、人間はみな目に見えるものを手でつかみ取ろうとします。自分で作った偶像を追い求めます。自分たちの手柄を喜び、それを誇ろうとします。けれども、この世にあるもの、目に見えるものはすべて、移り行くものであり、やがて消え去り、限りあるものであることに気づこうとしません。そのことを認めようとしません。しかし、そこには救いはありません。そこにあるものは滅び以外ではありません。この世にある者を追い求める人は、この世が滅びる時に、共に滅びるほかありません。

第三に、38節の「命の言葉」をこそわたしたちは聞き、信じなければなりません。神は最後の最も偉大な預言者、それどころか、すべての預言の成就であられる主イエスによって、わたしたちが生きるために必要な一切をお語りくださいました。わたしたちの罪のために、ご自身の汚れのない聖なる血をささげ尽くして、ご自身の神のみ子としての命を注ぎ出されて、わたしたちを罪と死と滅びから救い出され、わたしたちにまことの命をお与えくださったのです。この主イエス・キリストをわたしの唯一の救い主と信じ、この主イエスに従って生きる時に、わたしたちにまことの命が与えられます。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、滅びにしか値しないわたしたちのために、あなたが独り子をさえ惜しまぬほどに愛してくださり、罪と死と滅びとから救い出してくださいましたことを、心から感謝いたします。どうかわたしたちがみ子の十字架の血によって贖われたものにふさわしく、あなたの僕(しもべ)として、あなたのご栄光と隣人の救いのために仕えていく者としてください。

〇父なる神よ、日本とアジアと全世界のすべての国民にあなたの義と平安と救いとが与えられますように。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

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