8月21日説教「神は契約を実行される」

2022年8月21日  

マラキ書3章1−5節「神は契約を実行される」    神学生 熱田洋子

 マラキ書は旧約聖書の一番最後にあリます。まだ預言の時代です。次のページは新約聖書、イエス・キリストが登場し、預言が成就する時代が始まります。

 マラキは、聖書のこの位置にあることから最後の預言者と言われます。イスラエルの歴史上、大きな出来事であったバビロン捕囚から帰国し、復興の困難の中にあったイスラエルの人々に対して、マラキは待ち望んでいる救い主を指し示します。

  バビロン捕囚にふれると、紀元前587年、バビロニアによってエルサレムが占領されてユダ王国が滅亡し、イスラエルの多くの人々が捕らえられてバビロニアに連れていかれました。バビロン捕囚となった人々は、50年後の538年にバビロニアを滅ぼしたペルシアのキュロス王の勅令により、また520年、ダレイオス一世のもとで大部分の人々がイスラエルに帰ってくることができました。しかし、イスラエルの神を信じる人々にとって、信仰を支えるエルサレムの神殿は壊されたままで礼拝を守れるような状態ではありません。これを憂慮して、預言者ハガイとゼカリヤが人々を励まして神殿再建をさせます。しかし515年に神殿が完成しても約束されていた救いの時はまだ来ていません。イスラエルは、異教徒の支配のもとにあって、国の再建を目指していても政治的に宗教的にもまだ混乱が続きます。その中で、人々の神に向かう態度も分かれます。信仰に熱心で救いの日への希望を持ち続けて礼拝と律法を守る人々がいる一方で、神に疑いを持ち先祖以来の信仰に背を向ける人たちがおり、また、信仰に無関心で全く世俗的に生きる人たちもいたのです。

 マラキは、混乱する状況の中にあっても、神の言葉に忠実に耳を傾けます。イスラエルの栄光の日々、救いの歴史の中に神が働いておられたように、救い主が来られてイスラエルが再建されるのを待ち続け、この試練の日々にも神は共にいてくださると信じています。神は真実な方であり、神を信じるイスラエルの民に対する計り知れない神の愛は変わりないことを確信しています。そして人間の営みのただ中で、人間の理性では知ることはできなくても、神は救いのご計画を実現されることを語ります。マラキ書には信仰深い告知や警告の言葉が記されています。それは新約聖書のイエス・キリストが来られる道備えになっていき、さらに、新約聖書の時代を生きるわたしたちにまで続いています。マラキの預言は今のわたしたちを超えて終末の時に最終的に成就するのです。イエス・キリストは十字架で死んで、復活し、また来ると約束して天に昇っていかれました。イエス・キリストが再びおいでになる終末の時、その救いの完成する日をわたしたちは待ち望んでいます。その時わたしたちが主の御前に立つ者となれるようその備えがここに用意されています。順に見ていきたいと思います。

3章1節に、「見よ、わたしは使者を送る。彼はわが前に道を備える。」と書かれています。この「使者」とは誰でしょうか。ここには名前も由来も書かれていません。預言者マラキ、という説や3章22節で「預言者エリヤをあなたたちに遣わす」と書かれているので、エリヤのことだという説もあります。

エリヤについて、新約聖書を見ると、マタイ福音書11章14節で、主イエスは、洗礼者ヨハネが、使者として現れるはずのエリヤのことだと言っておられます。ヨハネは人々に悔い改めを促し、イエス・キリストを証ししたのですから、ここでは洗礼者ヨハネを使者とすることがふさわしいように思います。

 エリヤは紀元前9世紀に偶像礼拝をする異教バアルの預言者と闘ってイスラエルの信仰を守った預言者であって、洗礼者ヨハネも不信仰な民を悔い改めへと導き、来るべき救い主への道備えをしました。

 使者の役割は、エリヤ、そして洗礼者ヨハネの働きから考えると、救いにもれる人がないように救いへの道をきれいに整え、道筋をまっすぐにするということです。

 そして、3章1節の後半は「あなたたちが待望している主は 突如、その聖所に来られる。あなたたちが喜びとしている契約の使者 見よ 彼が来る」と続きます。

 突如というのは即刻差し迫っていることを伝えています。

「見よ 彼が来る」の「見よ」という言い方は、主が必ず来られること、救いの確かさを表しています。マラキは、イスラエルと人々の信仰が混乱のままであっても、必ず主が来られることを信じて疑うことなく預言するのです。

ここに「契約の使者」とあります。契約は、旧約聖書の中で、アブラハム契約から始まり、シナイ契約、ダビデ契約などがあげられます。いずれも神とイスラエルとの契約で、「契約の使者」はこれらの契約のすべてを成就する使者と考えられます。

また、神は突然神殿に現れる、というのですから、次のことは偶然ではないのです。

 まず、新約聖書の福音書において、「使者」として洗礼者ヨハネが現れたこと、そしてイエス・キリストが突然その民のところに「主」としてこの地上に来られたことが記されています。福音書は、そこにマラキ書の言葉が実現したと見ています(マタイ11:10,マルコ1:2,ルカ1:76,7:27)。

それに続いて、わたしたちは、天に昇られた主イエスがまたおいでになる時に備えているのですから、主が突然来られることを心に留めておくことが大事です。

 主イエスは弟子たちに、常に、主が来られる時を前にして、「目を覚ましていなさい、あなたがたは、その日、その時を知らないのだから」と注意し、備えるように戒めておられます(マルコ13:37,マタイ25:1-13)。また、パウロは、教会が「キリストの日」に備えて、信仰によって清く汚れなくあるように気遣っていた(フィリピ1:6,10,Ⅰコリント1:8)こともそのためです。

2節に入り、「だが、彼の来る日に誰が身を支えうるか。彼の現れるとき、誰が耐えうるか。」と問われます。1節で出てきた「契約の使者」が、その契約をすべて成就されるために来られます。そのとき彼はさばきをもって臨まれます。

さばきをくぐり抜けなければ救いは成就しないのです。

2節から3節にかけて

「彼は精錬する者の火、洗う者の灰汁のようだ。」

「彼は精錬する者、銀を清める者として」座す、というのは、さばきの神は、さばきを行う権威をもって、その座につき、金滓を溶かし出す火の如く、また全ての汚れを取り去る灰汁のように徹底的に罪を清められます。偽りの神礼拝や偽りの信仰の根本にある罪の思いや悪をさばきます。

厳しいさばきに、苦痛のほかはないのです。その日に耐えることができる者、踏みとどまることができる者はいるだろうかと問われるほどです。しかも、そのさばきは誰も避けて通れないのです。

 その時、神ご自身がその民を救おうとされるのでなければ、神のみ前に誰ひとり「わたしはここにいます」と立つことのできる者はいないということです。

 神のみ前に立つためには、まず、私たちの罪が徹底的に清められなければなりません。なぜなら、ほんとうの救いは、真実のさばきを通してやってくるからです。マラキはそのことを待望して預言しています。新約聖書の時代に生きるわたしたちは、イエス・キリストが、ご自身は罪のない方であったのに、十字架に死んで、わたしたち罪ある者たちを罪から救ってくださった、そのことによって救いが成就されたのを知っています。まさに救いはさばきを通して実現されるということを覚えておきたいと思います。

次に3節には、「レビの子らを清め」と書かれていて、レビの子らに対するさばきが示されます。

 当時の礼拝の状況は、十分の一のささげ物を偽っていたこと、また、レビの子らの祭司は、汚れたパンや、傷ついた動物をささげていたことがマラキ書に書かれています。人々が神を畏れないで神を欺いていたことに留まらず、レビの子らの背きの罪がここで取り上げられています。さばきは、神礼拝に携わる者から始められます。救いは礼拝から始まるからです。礼拝において、神を畏れず、神の名を汚していたレビの子らこそが神のさばきを受けて清められなければならない、とマラキは警告します。

 なぜなら真実の神礼拝の中から本当の信仰が始まり養われていくからです。レビの子らは神と民との仲介者として、民の偽りの礼拝を回復して真実の礼拝へと導く務めについています。このように民を指導するのがレビの子らの祭司です。レビの子らがまず神のさばきを受けて罪を清められ、真の救いへの道を民に示すことができるようにするのです。それは人々が終末の時にさばきの神のみ前に耐えられる者となるためです。

このことは、イエス・キリストにより本当の神礼拝が示されて明らかになります。

3節の終わりに、「彼らが主に献げ物を 正しくささげる者となるためである。」とあり、礼拝を本当の礼拝へと改める目的、目指すところが書かれています。

それは、「正しくささげる者となるため」です。「正しくささげる者」という言葉は、ヘブライ語で読むと「義をもってささげる人」となります。この当時の礼拝の様子から、信仰を伴わない偽りの礼拝があったのです。神は礼拝においてささげる者の信仰を通して、神にまったく聞き従う者であるかどうかをご覧になります。「神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を 神よ。あなたは侮られません。」(詩編51:19)とのみ言葉が心に迫ってきます。

神が喜ばれるのは、わたしたちがさばきを通して清められ、義をもって、神との正しい関係を保ちつつ正しい礼拝をささげることです。そこから神は救いへと導かれます。

それでは、わたしたちにとって、義をもってささげる礼拝、義をささげる礼拝、とはどのようなことでしょうか。

それは、み言葉への完全な服従、神へ徹底して自分をささげるということです。フィリピの信徒への手紙2章6節から11節のキリストの姿に表されています。「キリストは、神の身分でありながら、・・・かえって自分を無にして、・・・

へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。・・・」

義という言葉は、神と人との正しい関係のことです。父である神に、御子イエスは罪のない方であったのに十字架の死まで、全く服従されたのです。このことが義をもってささげるということを最もよく教えてくれます。

また、礼拝における神への完全なささげ物はイエスキリストにおいて完成されています。

イエス・キリストは神のみ心を行ってご自身をいけにえとして献げて人間の罪を取り去ってくださった、それは律法に従って献げられていた礼拝のいけにえやささげ物を廃止したことです。

ヨハネ福音書3章16節、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」このみ言葉を忘れてはならないのです。

そして、わたしたちは、イエス・キリストの十字架によって贖われ罪の赦しを得ているのですから、「霊と真理とをもって礼拝する者」となるように招かれています。

わたしたちも、神を畏れ敬い、清められた者として、イエスキリストの十字架と復活を信じる信仰をもって、神に喜ばれる礼拝とささげ物をささげることです。それが、4節の終わりにあるように、マラキが約束していた「主にとって好ましい礼拝」となるでしょう。

5節では「裁きのために、わたしはあなたたちに近づき 直ちに告発する。」と言われます。

さばきの目指すところが示されます。神は、人を罪に定めて滅ぼすことだけを目的としてはいません。罪ある者をさばき、徹底的に清められる方は、神の正義により、罪人が悔い改め、神に好ましい者に作り変えられることを期待してさばきをされるのです。

「裁きのために」とは神のこのような思いが込められています。

レビの子らの祭司と神に不平を言う人々は、神は来られるという約束を実現しないと非難しました。今度は、預言者が神の立場に立って彼らの不義を並べます。ここには具体的に書かれています。これらの行いや態度のほとんどは、契約や十戒・律法に対する罪です。「呪術を行う者」「姦淫する者」「偽って誓う者」など、神の御心をあなどる罪を犯す者たちが示されます。

貧しい人、やもめ、みなしご、外国人などは、不信仰な思いで神を求める人たちに踏みつけられ、だまし取られてきた人たちです。神は虐げられている人たちを保護し愛する一人ひとりのために正義を行われます。そのような悪を行なった者たちに対して、神は近づいて来て直ちにさばきを行われます。虐げられた人々に代わって不正を訴える証人や裁判官となり、また刑罰を下すことをされるのです。

ここでさばかれるのは、主を畏れぬ者たちです。

神を畏れるという言葉は、旧約聖書の中心的な信仰を言い表しています。み言葉に「・・彼らが生きている限りわたしを畏れ、わたしの戒めをことごとく守るこの心を持ち続け、」(申命記5:29)とあり、また、「主を畏れ、心を尽くして、まことをもって主に仕えなさい」(サムエル記上12:24)とあるように、神の命令に従順に従うようになるために「神を畏れる」ことは欠かせないものです。また、神を畏れることは、すべての人を敬い、きょうだいを愛することにつながっていきます。ここから神と隣人に仕える者に変えられていくのです。

いま、わたしたちは、マラキによって預言され、イエス・キリストの十字架の福音によって成就された救いの道へと招かれ、さらに歩みを進めていきます。

終末の時には、再び「契約の使者」が地上に来られ、最終的に神と全人類との間に立てられた全ての契約が完成されます。このことを信じて待つわたしたちです。その時に至るまで、真実の礼拝を守り続けつつ来たりたもう主を待ち望む者でありたいと思います。

お祈り

天の父なる神さま。イエス・キリストの十字架と復活を信じる信仰をもって生きるわたしたちが、救いの完成される日、主のみ前に清い者として立つことができますように。その備えとして、わたしたちがささげる礼拝が神さまに喜ばれるものでありますように、聖霊が導いてください。

神さま。今も戦禍にあって、またいたるところで虐げられて嘆き苦しむ人々の命と平安を守ってください。信仰をもって祈るわたしたちが平和をつくる人になれますように。わたしたちの救い主イエス・キリストのみ名によってお祈りいたします。アーメン

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA