8月28日説教「逃亡するヤコブを導かれる神」

2022年8月28日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:創世記28章10~22節

    フィリピの信徒への手紙1章3~11節

説教題:「逃亡するヤコブを導かれる神」

 きょうの礼拝で朗読された創世記28章13節以下にこのように書かれています。【13~15節】。この神の約束のみ言葉は最初アブラハムに語られ、次にその子イサク語られ、そして今イサクの子ヤコブにも語られます。アブラハム契約はその子イサクへ、またその子ヤコブへと受け継がれます。アブラハムを選び、彼と契約を結ばれた主なる神は、イサクの神となられ、そして今ヤコブの神となられました。13節で神が言われたとおりです。

神が最初にアブラハムと結ばれた契約はこうです。「わたしはこの地カナンを永遠にあなたとあなたの子孫とに受け継がせる。わたしはあなたの子孫を夜空の星の数、海辺の砂の数ほどに増やす。そして、わたしはあなたを万民の祝福の基とし、あなたの子らにわたしの祝福を受け継がせる。」創世記12章から始まったいわゆる族長物語の中で、わたしたちは何度このみ言葉を聞いてきたことでしょうか。そして今一度、このアブラハム契約がヤコブにも語られます。

では、ヤコブがどのような状況の中にいる時に、どのようなヤコブに対して語られているのかを確認しておきましょう。前の28章で、わたしたちは一つの家庭内で演じられたある出来事について聞きました。ある説教者はこれを「聖なる悲劇」と名づけました。登場人物は神に選ばれた民イスラエルの父祖である族長イサクの4人の家族。年老いて目がかすんできた父イサク、妻のリベカ、そして双子の兄弟。兄のエサウは野の獣を獲る活発ではあるが少し思慮が浅く、父イサクに愛され、弟ヤコブは物静かであるがずる賢さを持ち、母リベカに愛されていました。そのような両親の偏った愛、偏愛と、二人の子どものあまりにも違った性格が、この家庭に一つの悲劇をもたらしました。母リベカが考え出した策略に弟息子ヤコブが同意し、二人で夫であり父である、年老いて目がかすんできたイサクを欺き、本来長男であるエサウが受け継ぐべき長子の特権と祝福とを彼から奪い取ったのでした。この悲劇によって、家庭は分裂し、だまされたと知った兄エサウは弟ヤコブを憎み、その命をねらおうとしたために、母は愛する息子ヤコブを遠いハランの地にいる兄ラバンのところに逃げるように勧めました。

10節に、「ヤコブはベエル・シュバを立ってハランへ向かった」とあるのは、そのような「聖なる悲劇」の結果なのです。神に選ばれた族長イサクの家族は引き裂かれてしまいました。神の契約を受け継ぐべき選ばれた「聖なる家族」はこの「聖なる悲劇」にもかかわらず、なおも「聖なる家族」であり続けることができるのでしょうか。アブラハム契約がその子イサクに受け継がれてきましたが、イサクのあとアブラハム契約はどうなるのでしょうか。「聖なる家族」の分裂によって、アブラハム契約もここで中断されてしまうのでしょうか。

わたしたちはそのような疑問と危機感を持ちながらこの個所を読むのですが、否それ以上に、ヤコブ自身の不安や恐れ、危機感はどれほどのものであったでしょうか。命の危険を覚えながら、一人家を出て、見知らぬ異国へと旅立たなければならなくなったヤコブは、孤独と不安の中で夜を迎えたのでした。

【11~12節】。この個所は「ヤコブの夢」とか「ヤコブのはしご」と言われます。聖書では、「夢」、「天にまで達する階段」、「神の御使い」、これらはいずれも天におられる神が地に住む人間にご自身を啓示される手段として、神が人間と交わる具体的な方法として用いられます。ここではその三つが同時に描かれていて、非常に印象深く、また鮮明に読者の目に訴えてきます。天におられる神がこれほどまでに多くの手段をお用いになって、地に住む人間たちと交わりを持ってくださるのであり、人間たちに語りかけ、人間たちの歩みに伴っていてくださるのです。それを実際に経験しているヤコブにとってはなおさらにそのことが強く感じられたであろうと、推測できます。一人家を出て、家族から離れ、不安と孤独の中で暗い夜を迎えたヤコブ、しかし彼は決して一人ではありません。主なる神が彼と共におられ、彼の逃亡の道に伴ってくださることを知らされたのです。

そのような状況の中で、主なる神はヤコブに現れ、彼の傍らに立たれ、そして彼にみ言葉をお語りになります。それが13節以下のアブラハム契約の更新です。アブラハム契約がイサクからその子ヤコブへと受け継がれたことになります。しかし、これは当時の習慣からすれば正常なことではありません。ヤコブの家に生まれた長男はエサウですから、本来ならばエサウが長男の特権を持っており、父の財産と神の祝福とを受け継ぐべきでした。28章では、母リベカと次男ヤコブとが結託して、父と長男とをだまし、長男の権利を奪い取ったのだとしても、それは人間社会の中でのことであり、しかも不正を働いた結果であるのですから、神がそれをよしとされるはずはありません。

ところが、今ここで神はイサクの家庭の中での聖なる悲劇として演じられた人間の不正と欺きの行為をそのまま承認されたのです。27章27節以下で、年老いて目がかすんで長男のエサウと弟のヤコブとを取り違え、兄に与えるべき祝福を弟ヤコブに与えてしまった父イサクが語った祝福の言葉を、今ここで神ご自身がいわばそれを批准され、承認され、神ご自身の約束のみ言葉としてお語りになったということです。

これは、何ということでしょうか。神は母リベカと弟ヤコブの不正と欺きの行為をよしとして承認なさるのでしょうか。神の祝福がこのような人間による不正と欺きによって受け継がれ、継続されていくことをよしとされるのでしょうか。わたしたちはそのような疑念を抱かざるを得ないのではないでしょうか。

しかしながら、わたしたちはさらにさかのぼって、神のみ心がどこにあったのかを探ってみなければなりません。リベカの胎内に双子が宿った時の神のみ言葉を思い起こしましょう。【25章23節】(39ページ)。この時点で、すでに神の永遠のご計画が語られていたということをわたしたちは思い起こします。ヤコブが進むべき道は彼が母の胎内にいた時からすでに神よって決められていたのだということをわたしたちは思い起こします。そして、イサクの家の「聖なる悲劇」をとおして、彼らの夫婦の愛、親子の愛、兄弟の愛がみな破れ、人間の邪悪と不信実によって家族が分断されていくという人間たちの罪の現実の中で、しかし不思議にも、神はそれらすべての人間たちの罪のただ中で、ご自身の当初のご計画、永遠の救いのご計画を実行なさったのです。

13節に、「わたしは、あなたの父祖アブラハム、イサクの神であり、主である」という神ご自身の宣言が語られていますが、今ここで神はヤコブの神となられたのです。アブラハムを選ばれ、その子イサクを選ばれ、今またその子ヤコブを、長男エサウではなく次男ヤコブを選ばれた神は、アブラハムと結ばれた契約を、不思議な道のりを経て、今ヤコブへと継続されたのです。「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」という表現がこれからのちイスラエルの歴史の中で何度も繰り返して用いられます。それはまた新約聖書で主イエスご自身に受け継がれているということをわたしたちは知っています。

マタイによる福音書22章31節以下で、主イエスはこの表現の中に神の永遠の命の約束があり、復活の命の約束があることを教えておられます。【22章31~32節】(44ページ)。神の選びと契約は一人の信仰者の生涯を超えて永遠に続きます。神の祝福と救いの恵みもまた一人の信仰者の生涯を超えて永遠に続きます。主イエスはそこに神の復活と永遠の命の約束があることを見ているのです。そして、実際に主イエスは十字架で死んで、三日目に復活され、罪と死とに勝利され、永遠の命をわたしたち信仰者のために勝ち取ってくださいました。「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」は主イエスの父なる神であられ、主イエスの十字架と復活によって、わたしたちに永遠の命をお与えくださる「わたしたちの神」となられたのです。

さて、「アブラハムの神、イサクの神」が、今この時から、故郷の家から逃亡しなければならなくなったヤコブの神となられたということは、ひとたび死んでいたヤコブに新しい復活の命が与えられたと言ってもよいのではないでしょうか。父イサクの家で繰り広げられた「聖なる悲劇」の中で、夫婦の愛や兄弟の愛が破れ、傷つき、人間の欺きや不正、罪がその家全体を破壊し、死に支配されたかのようになっていた時に、神は今一度ヤコブを恵みをもって選ばれ、彼と契約を更新してくださったのです。「アブラハムの神、イサクの神、そしてヤコブの神」となってくださったのです。

神は故郷の家から逃亡するヤコブと常に共にいてくださり、ヤコブのすべての道を守り、再びこの約束の地へと連れ帰ると約束されます。なぜならば、15節の終わりに書かれているように、「あなたに約束したことを果たすまでは決してあなたを見捨てない」と神が決意されたからです。神の選びと神の契約の確かさのゆえに、そしてまた、ヤコブが神の契約を担う人として選ばれているゆえに、その約束が成就されるまでは神は決してヤコブを見捨てることがないと言われているのです。神の約束を担うために選ばれた信仰者は、神がその約束を成就さるまでは決して見捨てられることはなく、神ご自身がその成就へと導いてくださるのです。

【16~19節】。眠りから覚めたヤコブは、そこに神がおられることを悟りました。神が自分の逃亡の道のすべてに伴ってくださることを知らされました。彼は大きな恐れに襲われました。その場所が大きな恐れに包まれました。神がいます所、神が人間と出会われる所、そこには大きな恐れが生じます。ヤコブは父を恐れず、父を欺いてきました。また神をも恐れない傲慢な者でしたが、この試練をとおして、今神をこそ恐れるべきであることを学んだのです。

「ベテル」という地名は、ヘブライ語の「ベト」(家の意味)と「エル」(神の意味)の合成語で、「神の家」という意味になります。ベテルはエルサレムの北方約20キロメートルにあります。創世記12章8節によれば、アブラハムがカナンの地に着いた当初、ベテルに祭壇を築いて神を礼拝したと書かれています。ベテルはそれ以後、イスラエルの民にとっての重要な礼拝場所になりました。

わたしたちにとっての神の家は、言うまでもなく教会です。教会で主の日ごとに礼拝をささげ、生ける神との出会いを経験し、主イエス・キリストの十字架の福音を聞き、この神の家からこの世への旅路へと派遣されます。「神の国が完成される終わりの日まで、わたしはあなたがたと共にいる」と言われる主イエスの約束のみ言葉を信じながら。

(執り成しの祈り)

○天の父なる神よ、あなたはわたしたち一人一人の地上の歩みに常に伴ってくださいます。わたしたちが孤独と不安に襲われる時にも、わたしたちの試練の時にも、わたしたちが病んでいる時にも、そしてわたしたちが年老いて地上の歩みを終えようとする時にも、あなたはわたしたち一人一人と共にいてくださり、わたしたちの道を導いてくださいます。そのことを信じて、あなたを恐れつつ、また喜びつつ、希望を抱いて信仰の歩みを全うさせてください。

○主なる神よ、あなたの義と平和をこの地にお与えください。争いや殺戮、貧困と不平等をこの地から取り去り、救いの恵みと喜ばしい共存とをこの地にお与えください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

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