9月4日説教「ステファノの説教(五)荒れ野の幕屋」

2022年9月4日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:列王記上8章27~34節

    使徒言行録7章44~53節

説教題:「ステファノの説教(五)荒れ野の幕屋」

 キリスト教会最初の殉教者となったステファノがユダヤ最高議会の法廷の被告席で語った弁明、説教が、使徒言行録7章に書かれています。きょうはその最後の個所44節以下のみ言葉を学びます。

 ステファノがユダヤの長老たちや律法学者たちによって逮捕されることになった理由は主イエス・キリストを宣べ伝えたことにありますが、具体的には6章13節以下にあるように、エルサレムの聖なる場所である神殿を打ち壊すと語って神殿と神を冒涜した罪、また旧約聖書の律法を軽視した発言をしたという罪であったが、きょうの個所でステファノは彼が裁かれている告発と罪状に触れながら語っています。

彼の説教の結論を先取りして言うならば、ステファノは神殿と律法を汚したという罪で告発され、裁判を受けているのですが、ステファノが旧約聖書のみ言葉に導かれながら語った説教によれば、その罪を告発され、神の裁きを受けなければならないのは、むしろ彼らユダヤ人指導者たちの方であり、彼らこそが神殿の本来の役割を理解しておらず、神の律法を語った預言者たちを迫害した先祖と同じように、神が預言の成就としてお遣わしになったメシア・キリストを十字架につけて殺したではないかという、彼らユダヤ人の罪がここでは明らかにされているのです。ここでは、裁判官の席に座っているユダヤ人指導者たちが裁かれており、被告の席に立たされているステファノが神のみ言葉によって彼らを裁いているという逆転が起こっているということをわたしたちは気づかされるのです。

 同じような立場の逆転は、4章5節以下のペトロとヨハネが裁かれた法廷でも、また5章27節以下の使徒たちが裁かれた法廷でも起こっていたことをわたしたちはすでに確認してきました。神のみ言葉の証人として立つ信仰者が迫害を受け、この世の法廷に引き出されることがあっても、信仰者は少しも恐れる必要はありません。神のみ言葉はこの世のどのような鎖によってもつながれることがないからです。それゆえに、神のみ言葉の証人として立つ信仰者は、この世のいかなる裁きをも恐れる必要はなく、この世のいかなる権力によっても決して倒れることがないのです。

 さて、ステファノはこれまで族長アブラハムから始まるイスラエルの救いの歴史について、旧約聖書のみ言葉を解き明かしながら語ってきたのですが、44節からは荒れ野での証しの幕屋について語ります。出エジプト記によれば、モーセはエジプトの奴隷の家から解放されたイスラエルの民が荒れ野の40年間の旅を始めるにあたって、神のご命令によって幕屋を造りました。神はモーセにこのように言われました。「わたしはその所であなたに会い、あなたと語るであろう。またその所でわたしはイスラエル人々と会うであろう」と。幕屋の中には、神のご臨在のしるしとして契約の箱と十戒を刻んだ証しの板2枚が収められていました。これは臨在の幕屋とか証しの幕屋、また会見の幕屋とも呼ばれました。

 証しの幕屋は木材を組み合わせ、それを布で覆って造られる移動式の礼拝所でした。イスラエルの民は荒れ野を40年間移動しながら旅を続けましたが、幕屋も彼らと共に移動しました。主なる神がイスラエルの民がいる場所に常に伴ってくださり、荒れ野の旅を導かれ、彼らに必要なものすべてを備えてくださることを信じながら神を礼拝する場所、それが幕屋であったのです。

 神がイスラエルの民を奴隷の家エジプトから救い出し、すぐに約束のカナンへと導かれなかった理由は、彼らが荒れ野の何もない場所でただ主なる神だけに頼り、主なる神からすべてを期待して、ただひたすらに神を礼拝する民として生きる訓練のためだったのです。申命記8章3節で神が言われたように、「人はパンだけで生きる者ではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった」のです。

 モーセは荒れ野の旅の終わりに約束の地を踏まずして死にましたが、ヨシュアが証しの幕屋を引き継ぎ、約束の地カナンに入ってからもイスラエルの民は証しの幕屋を礼拝の場とし、そこで生ける神と出会い、神のみ言葉を聞き、祈りの場として、士師の時代からイスラエルの最初の王サウルと次のダビデ王の時代に至るまで、幕屋はイスラエルの民の礼拝の場でした。

 ダビデ王の終わりの時代になって、神のためにもっと立派な宮、神殿を建てようとする機運が出てきました。そのことについて、ステファノは46節以下で次のように語っています。【46~50節】ここには、神の家である神殿を建設することの是非について、つまり、神殿建設は神の本来のみ心なのか、それとも神殿は永遠で普遍な存在である神をその中に閉じ込めておこうとして人間が勝手に造ったものなのかという、旧約聖書の中にある難しい神学的な問題があるように思われます。

サムエル記や列王記には、神殿を建設することが神のみ心であるのかどうかという議論が当初からあったことをうかがわせる記述がいくつかあり、49~50節でステファノが引用しているイザヤ書66章でも、神は人間の手で造った神殿の中に住まうことはないと言われているように読めます。神は確かに、神殿という建物の中に縛り付けられることはありませんし、エルサレムという一か所だけにとどまっておられる神でもありません。そのことは、エジプトを脱出したモーセ時代から荒れ野の40年間、そしてカナンに入ってからダビデ王の時代に至るまでの300年あまりの間、イスラエルは移動式の幕屋で礼拝をしていたという過去の事実に照らしても明らかであると、ステファノは語っているのです。

 そのことを、旧約聖書の中から確認してみたいと思います。サムエル記上7章を読んでみましょう。【7章1~7節】(490ページ)。神はここで明らかに、荒れ野の時代からの移動式の礼拝所であった幕屋に言及しつつ、「人間が造った

家は、それがどんなに立派な家であれ、わたしはその中には住まない。だから、神殿を建てるには及ばない」、とダビデ王に言っておられると理解されます。

 もう一カ所は、列王記上8章27節以下です。この個所は、神殿が完成して、それを神にささげる奉献式の時のソロモンの祈りです。【27~30節】(542ページ)。ソロモンは自分が造った神殿の中に、永遠で普遍の存在である神がお住まいになることはないと告白しつつも、この神殿でささげるイスラエルの民の祈りを神がお聞きくださるようにと、そしてイスラエルの罪をおゆるしくださるようにと必死に祈り求めています。ここにも、エルサレム神殿建設に対する否定的な考えが反映されているように思われます。

 これらの聖書の記述から、神殿建築が果たして神のみ心にかなっていたのか、それがイスラエルの信仰にとって有益なのかどうかという議論、葛藤が当初からあったということは確かだと言えます。しかし、神は最終的にはソロモンの神殿建築を容認され、その神殿で動物を犠牲としてささげる礼拝をイスラエルの民のために備えられたのでした。イスラエルの民はエルサレム神殿で動物を犠牲としてささげる礼拝をとおして、信仰の民として生き続けたのでした。そのようにして、イスラエルは来るべきメシア・救い主の到来を待ち望んだのです。

 では、エルサレム神殿とそこで行われていた礼拝は何を目指していたのでしょうか。わたしたちはそれを主イエスご自身がなされたみわざによって知ることができます。主イエスが受難週の最初の日、棕櫚の日曜日にエルサレムに入場された時、神殿の境内に入って、そこで神にささげる動物の売り買いをしていた商売人をみな追い出され、神殿でささげる貨幣に両替する両替人の台を倒されたことが福音書に書かれています。また、主イエスは「人間の手で造った神殿を打ち倒し、三日目には人間の手によらない新しい神殿を建てる」と言われました(マタイ福音書26章61節参照)。

 これは何を意味しているでしょうか。主イエスは当時の神殿での礼拝が商売人のお金もうけのために利用されたり、礼拝そのものが偽善的になり、神に対する真実の服従と献身を伴わない形式的な礼拝になっているという現実を批判されただけではありませんでした。主イエスはエルサレム神殿での礼拝そのものを、またエルサレム神殿そのものの役割を終わらせたのです。神の救いの恵みをエルサレム神殿だけに集中させ、その中に閉じ込めてしまっていた彼らの信仰を終わらせ、また動物を犠牲としてささげ、動物の血による贖いによって罪のゆるしを与えられるという神殿での礼拝を終わらせたのです。

 主イエスはご自身の罪も汚れもない尊い血を十字架でおささげくださることによって、その血の贖いによって、すべての人の罪を永遠におゆるしくださったのです。もはや、繰り返して動物の血を犠牲としてささげる必要はありません。また、主イエスは世界の至る所に、ご自身の体である教会をお建てくださり、すべての人を教会へとお招きくださいます。主イエスは教会の礼拝をとおして、み言葉と聖霊とによってすべての人に、すべてのところで出会ってくださり、救いの恵みをお与えくださいます。

 ステファノの説教はエルサレム神殿とその神殿での神礼拝が主イエス・キリストによってその最終目的に達した、神が計画しておられた救いが成就したということを語っています。そうであるのに、すでにその役目を終えたエルサレム神殿にしがみつき、古い律法に縛られているユダヤ人指導者たちの罪とかたくなさを明らかにしているのです。

 律法について、ステファノは51節以下でこう語ります。【51~53節】。イスラエルは神から律法を与えられ、その律法に心から喜んで聞き従うことによって神との契約関係に生きる民とされたのでしたが、彼らはかたくなで不従順であり、神が遣わした預言者たちを迫害したと、ステファノは彼らの罪を告発します。それだけでなく、神がすべての預言の成就としてこの時にイスラエルに派遣されたメシア・救い主であられる主イエスを殺すという大きな罪を犯しているではないかと、厳しく彼らを告発します。

 52節の「正しい方」とは、神の律法を完全に成就された義なる方、主イエス・キリストのことです。主イエスこそが旧約聖書のすべての預言者たちが証しし、待ち望んだ神の律法の成就者、完成者であられます。その主イエスを十字架につけて殺したあなたがたユダヤ人指導者たちこそが律法の違反者なのではないかと、ステファノは言うのです。

 主イエス・キリストの十字架の福音の証人としてユダヤ最高議会の法廷に立つステファノが語った説教は、その後の2千年間のキリスト教会が語るべき福音の原型であり、基本であると言えます。教会での真実の神礼拝をとおして、わたしたちは生ける神と出会い、神の命のみ言葉を聞き、終わりの日の完成を目指しながら、この世での荒れ野の旅を続けるのです。

(執り成しの祈り)

○天の父なる神よ、あなたはわたしたち一人一人の人生の歩みに常に伴ってくださり、すべての必要な物を備えて、わたしたちの道をお導きくださいます。どのような試練や苦難の時にも、ただあなたにより頼みながら、心安んじてあなたの服従する道を進ませてください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

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