9月25日説教「ステファノの殉教」

2022年9月25日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:詩編31編2~9節

    使徒言行録7章54~60節

説教題:「ステファノの殉教」

 キリスト教会最初の殉教者となったステファノが、ユダヤ最高法院の法廷で語った弁明、または説教が使徒言行録7章1節から53節まで続いていますが、この説教は途中で中断されているような感じを受けます。52、53節でステファノは、あなたがたユダヤ人指導者たちは旧約聖書の預言者たちが預言した正しい方、神の律法を成就される方である主イエスを殺したのだと語りましたが、彼はこのあとさらに、主イエス・キリストの復活や救いへの招きについても語りたかったに違いありませんが、ユダヤ最高法院の71人の議員たちやその裁判を傍聴していたユダヤ人たちの怒りの声によって、彼の説教は中断させられたのではないかと思います。

 【54節】。たとえ、ステファノの説教が中断されたのだとしても、彼の説教の目的は十分果たされていたということが、ユダヤ人指導者たちの反応によって確認することができます。彼らはステファノの説教によって自分たちの罪の姿があらわにされたことを知らされました。しかし、その罪を悔い改めることはせずに、なおもその罪の中にとどまり続けようとしている、そのかたくなな罪がここで明らかになっているからです。自らの罪を知らされながらも、悔い改めることをしない人間の罪の本質を、わたしたちはここに見ることができます。ステファノと彼の説教に対する激しい怒りが、彼らの反応でした。

 それに対して、ステファノ自身については、55、56節にこのように書かれています。【55~56節】。ここでは、神に敵対する罪の人間の怒りに満ちた姿と、神に守られている殉教者の平安に満ちた姿とが対比されています。ステファノの目は怒り狂って自分を攻撃してくる人々に向けられていません。また、彼らの攻撃によって苦境に立たされている自分自身にも向けられていません。彼は、聖霊に満たされ、彼の目は天に向けられています。神の栄光を仰ぎ見ています。天にあるみ座で、父なる神の右に立っておられる主イエス・キリストの姿を仰ぎ見ています。わたしたちすべての罪びとたちのために、十字架で死なれ、その尊い血によってわたしたちを罪から贖い、三日目に死の墓から復活されて、罪と死とに勝利された主イエス・キリスト。天に昇られ、父なる神の右に座しておられ、神の国が完成される日まで、信じる人々のために執成しをされ、守り、導いておられる主イエス・キリストに、ステファノの目は注がれています。そして、平安と喜びと希望とに満たされています。

 55節と56節に、「神の右に立っておられるイエス」と書かれていますが、一般的には、その位に就き、支配者としての務めをしている場合には、「神の右に座す」という表現が用いられますが(『使徒信条』ではそのように告白されています)、ここで「神の右に立つ」と言われているのは、殉教者ステファノを天の勝利の教会に迎え入れるために、主イエスが両手を広げて立ち上がり、迎え入れてくださるお姿を強調しているためと思われます。ステファノは主イエス・キリストによって約束されていた信仰の勝利を確信して、「天が開いて、人の子が神の右に立っておられるのが見える」と叫んでいます。天におられる復活の主イエス・キリストは、死に至るまで忠実にご自身の証人となった信仰者に、最後の勝利を与え、神の国に迎え入れてくださるのです。

 使徒言行録に描かれているステファノの裁判と殉教の場面が、福音書に描かれている主イエス・キリストの裁判と十字架の死の場面と、共通している点がいくつかあることに注目したいと思います。第一の共通点は、主イエスおよびステファノと、二人を取り囲んでいる周囲のユダヤ人たちとの対比に共通点があります。主イエスを裁き、十字架につけたユダヤ人たちは、福音書に書かれているように、「彼を十字架につけよ、十字架につけよ」と叫びたて、主イエスをあざ笑い、憎しみと怒りをもって攻撃し、騒然としているのに対して、主イエスご自身は十字架につけられた肉体の痛みと人々の罪のためのお苦しみの中にあっても、すべてを父なる神にお委ねし、平安に満たされておられました。ステファノもまた、迫害と死の直前にあっても、泣き叫ぶことなく、恐れることなく、勝利者であられる主イエス・キリストにすべてを委ね、そのお姿を仰ぎ見つつ、平安に満たされています。このように、神の国の福音に仕える信仰者、主イエス・キリストの証し人として立つ信仰者は、聖霊によって強められ、最後の勝利を確信させられ、たとえ迫害と殉教によって地上の命が奪い取られようとも、その人には神の国での永遠の命が約束されていることを知るのです。

 第二の共通点は、マルコ福音書14章62節の主イエスのみ言葉と使徒言行録7章56節のステファノの告白との一致です。主イエスはユダヤ最高法院での裁判で、詩編110編1節のみ言葉を引用しながらこう言われました。「そうです。あなたたちは、人の子が全能の神の右に座り、天の雲に囲まれて来るのを見る」。主イエスはこのみ言葉のとおりに、十字架の死の後、三日目に復活され、40日目に天に昇られ、父なる神の右のみ座につかれました。そして、終わりの日には、雲に乗って再びおいでになり、すべて信じる人たちの信仰を完成させ、神の国へとお招きになります。ステファのはその主イエスのみ言葉が今すでに成就しているのを見て、「天が開いて、人の子が神の右に立っておられるのが見える」と告白しているのです。ステファノの地上の歩みは死によって終わるとしても、彼は地から天に移され、主イエスがいます天の勝利の教会へと招き入れられるのです。

 第三と第四の共通点は、主イエスの十字架上での七つの言葉のうち、二つがステファノの殉教の時に彼が語った言葉とほぼ同じであるという点です。59節の「主イエスよ、わたしの霊をお受けください」と60節の「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」、この二つがルカ福音書23章が伝える主イエスの十字架上での言葉とほぼ一致します。その二つの言葉の意味についてはあとで学ぶことにしますが、主イエスの十字架の場面と最初の殉教者ステファノの死の場面に以上のような共通点があることは偶然ではありません。主イエス・キリストを信じる信仰者は主イエスご自身が歩まれた道と同じ道を歩むであろうことは、当然だと言えるでしょう。主イエス・キリストと同じ道を進むということは、信仰者にとっては大きな喜びであり、誇りであり、栄誉であり、そして勝利なのです。

 では次に、57節以下を読みましょう。【57~60節】。ステファノはここで石打の刑によって処刑されたように思われる。あるいは、ユダヤ最高法院での正式な判決が下される前に、怒り狂った人たちによって、いわばリンチのようにして石打で殺されたのかもしれません。使徒言行録の記述からは正式な判決が下されたのかどうかはっきりしませんが、石打の刑の仕方によって処刑されていることは確かです。レビ記や申命記に定められている律法の規定によれば、神を冒涜したり、重大な罪で死刑となった犯罪人に対しては、証人となった人たちがまず初めに犯罪者に石を投げ、次にまわりにいる人々が一斉に石を投げ、犯罪人が死ぬまで石を投げ続けるというのが石打の刑でした。ユダヤ人の間では死刑は石打の刑が一般的でした。しかし、主イエスの場合、石打の刑ではなく十字架刑であったのは、当時イスラエルを支配していたローマ帝国の総督ピラトが最終的に主イエスに死刑判決を下したことから、ローマ帝国内で一般的であった十字架刑が執行されたことによります。

 57節に、「人々は大声で叫びながら耳を手でふさぎ」と書かれていますが、これはおそらく、ステファノが55節と56節で、主イエスを神のみ子と告白したことが人間を神と等しい者として、神を冒涜したと受け取られたからであろうと推測されます。人々はステファノの神を冒涜した言葉を聞かないようにと大声を出し耳をふさいだのであろうと思われます。もしそれを聞けば、自分たちも神を冒涜したことになると考えたからです。ユダヤ人たちはそれほどまでにステファノの告白と証言を恐れていたことが分かります。彼が告白した人の子であり同時に神のみ子であられる主イエス・キリストの福音を恐れていたのです。ユダヤ人たちは神のみ子、主イエスの十字架につまずきました。

 58節にサウロという若者が登場します。サウロ、のちのパウロはステファノの迫害と殉教の場面ではほんのわき役として、石打の刑を執行する人たちの上着を監視する役として現れるにすぎませんが、彼がこのあとで自らキリスト教会迫害の急先鋒となり、しかしまたそののちには、キリスト教徒に回心し、熱心な伝道者となり、使徒言行録の中心人物となるということを、いったいだれが予想しえたでしょうか。

 最後に、ステファノが死の直前に語った二つの言葉に耳を傾けましょう。「主イエスよ、わたしの霊をお受けください」(59節)。「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」(60節)。前にもふれたように、この二つは福音書に書かれている主イエスの十字架上でのみ言葉とほとんど同じです。ルカ福音書23章46節にはこう書かれています。「イエスは大声で叫ばれた。『父よ、わたしの霊を御手にゆだねます』。こう言って息を引き取られた」。また、同じ福音書23章34節には、「その時、イエスは言われた。『父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのかを知らないのです』」。

最初の殉教者ステファノはまさに主イエスが歩まれた道と同じ道を進んだということをわたしたちはここではっきりと確認することができます。それはただ単に、主イエスの生き方をまねて、同じように生きたと言うのではありません。主イエスが先だって開かれた道、主イエスによって備えられた道へとステファノは招かれていると言うべきでしょう。主イエスの十字架の死がステファノにこのような生き方を可能にしているのです。主イエスの十字架の死によって罪の贖いが完全に成し遂げられ、罪の支配から解放され、罪と死に対する勝利が約束されているゆえにこそ、ステファノはこの迫害と殉教の道を、全き服従をもって進み、しかも喜びと希望を抱きつつ、天のみ国へと招かれていることを告白しているのです。

「わたしの霊をお受けください」という祈りは、「わたしの命、わたしの存在のすべてをあなたにささげます」という祈りです。死に至るまで従順に服従した主なる神の僕(しもべ)であり、主イエス・キリストの証し人の最後の祈りです。それは救いと勝利と平安を確信した信仰者の最後の祈りです。わたしたち一人一人が地上の歩みを終える時の祈りです。

「この罪を彼らに負わせないでください」という祈りは、迫害する者や敵対する者をもゆるし、愛する祈りです。主イエス・キリストによってすべての罪をゆるされている信仰者はこのように祈ることができ、また祈るように命じられています。この祈りによって、信仰者はすべての罪と裁き合いと、憎しみと怒りに勝利していることを確信する祈りです。

「ステファノはこう言って、眠りについた」(60節)。新約聖書では信仰者の死を眠ると言います。それは復活の希望を暗示しています。信仰者の死は永遠の眠りではありません。信仰者にとって死は最後ではありません。復活への門です。

(執り成しの祈り)

○天の父なる神よ、わたしたちを従順な者にしてください。あなたのお招きのみ声を聞いたなら、直ちに悔い改め、喜んであなたに従っていく者としてください。

○天の神よ、多くの試練や苦難の中にあるこの世界を、どうかあなたが憐れんでくださり、あなたのみ心が行われ、人々に平和と希望とが与えられますように。また、あなたが全世界にお建てくださった主キリストの教会を顧みてください。なたの救いのみわざのために、わたしたちの教会をお用いください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

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