10月30日説教「神に選ばれた信仰者」

2022年10月30日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:申命記7章6~11節

    コリントの信徒への手紙一1章26~31節

説教題:「神に選ばれた信仰者」

  『日本キリスト教会信仰の告白』をテキストにして続けて学んできました。きょうから新しい段落に入ります。『信仰告白』の1段落目は、「わたしたちが主と崇める神のひとり子イエス・キリストは」から始まり、「救いの完成される日までわたしたちのために執り成してくださいます」までは、以前の文語文では一続きの文章でした。口語文になってから二つの文章に分けられましたが、文章の主語はいずれも主イエス・キリストであることは変わりません。主イエス・キリストが最初の段落全体のすべての文章の主語です。ここでは、主イエス・キリストとはどのような方であるのか、またその救いのみわざがわたしたちとどうかかわるのかということが告白されていました。

 きょうからは、次の段落に入ります。「神に選ばれてこの救いの御業を信じる人はみな、キリストにあって義と認められ、功績なしに罪を赦され、神の子とされます」。ここでは、わたしたちがどのようにして信仰者とされるのか、またどのようにして罪から救われるのかが告白されています。きょうはその最初の部分、「神に選ばれて」という箇所を、聖書のみ言葉から学んでいきます。

 まず、この個所を1890年(明治23年)に制定された旧『日本基督教会信仰告白』と比較してみましょう。旧『信仰告白』ではこうなっていました。「凡そ信仰に由りて、之と一体となれるものは赦されて義とせらる」。今の信仰告白の3分の1ほどの長さです。新たに付加された言葉をいくつか拾い上げてみると、冒頭の「神に選ばれて」、それから「功績なしに」、「神の子とされます」などが追加されていることが分かります。これらの追加部分は、新しい『日本キリスト教会信仰の告白』の特徴になっています。

 日本キリスト教会は1951年に日本基督教団を離脱し、第3回大会の1953年10月に現在の『信仰告白』を制定しました。その際に、わたしたちの先輩たちが志したことは、戦時中に旧日本キリスト教会が正しい信仰告白をすることができず、国家に迎合し、アジアや世界に侵略していく戦争に反対できず、神の民としての時代の見張り役を務めることができなかったという教会の過ちを反省して、宗教改革者カルヴァンの流れをくむ改革教会の信仰と神学を取り戻さなければならないとの強い決断によって、この信仰告白を制定したのでした。

 その強い主張と特徴が、『信仰告白』の最初の文言の「わたしたちが主とあがめる神のひとり子イエス・キリスト」という告白に言い表されているということを、すでにわたしたちは学びました。この「主告白」は、かつて戦時中の教会が見失っていた告白であった、主イエス・キリスト以外のだれをも、いかなるものをも主としない。天皇であれ、国家であれ、軍隊であれ、あるいは国家総動員とか八紘一宇とかのスローガンであれ、この世の何ものをも主とはしない。ただおひとり、わたしたちの罪をゆるすために十字架で死なれた主イエス・キリストだけがわたしたちが信じ、従うべき唯一の主である。この「主告白」をいつの時代にも貫き通すことが、新しく歩みを始めた日本キリスト教会の大きな課題である。先輩たちはそのように考え、『信仰告白』の冒頭に「主告白」を置いたのです。

 それとともに、「神に選ばれて」「功績なしに」「神の子とされる」という新しい『信仰告白』で追加された文言も、同じような意図から、日本キリスト教会の信仰と神学の特徴をはっきりと言い表し、今の時代の中で、時代の中に埋もれてしまうのではなく、主キリストの証し人として、世の光・地の塩として生きるべきことを告白しています。

 さて、神の選びの教理は、特に宗教改革者カルヴァンが強調した教えであり、改革教会の大きな特徴でもあります。カルヴァンは著書『キリスト教綱要』の中で、神の永遠の選びの教理について詳しく述べています。彼が選びの教理を強調するのには、主に二つの理由、目的がありました。一つは、わたしたちの救いは神から一方的に差し出された神の恵み、神の憐れみという泉から湧き出たものであるということを明確にとらえるためであるということ。二つには、わたしたちの救いは、神の永遠のご計画の中に定められており、それゆえに確かであり、神と主キリストによって守られているという、わたしの救いの確かさを明確にするためであるということです。今日わたしたちが選びの教理について考える際には、この二つの中心的な目的からそれないように注意することが重要です。と言うのは、選びの教理はカルヴァン以前にも以後にも、さまざまに議論され、多くの間違った教理を生み出すことになったからです。

 カルヴァンの選びの教理はいわゆる「二重予定説」と言われます。「神は永遠の選びによって、ある者を救いに予定し、ある者を滅びに予定された」というのが二重予定説です。けれども、のちの一部の教会はこの教えを神の選びの恵みをせばめたり、神の裁きを強調するという誤った教えに導き、本来信仰者に選ばれた喜びと確信とを与える目的の教理が、不安や恐れを与える教えに変えられたという歴史がありますので、わたしたちは慎重にこの教理を扱わなければなりません。カルヴァンの予定説、選びの教理は、先に挙げた二つの中心的な目的、神の選びと救いが一方的な神の恵みと憐みによるものであるということと、神の選びと救いが永遠なる神のご計画の中にあるのであり、それは確かであるということ、この二つの中心的な目的から外れないようにすることが重要です。

 では、神の選びについて教えている聖書を読んでみましょう。最初は、ローマの信徒への手紙9章11~13節です。【11~13節】(286ページ)。神は人間が生まれるより前に、何かをなすより前に、すでにある人を選ばれ、その人を愛されます。神の選びは選ばれる人の人間的な何かによって決定されるのではなく、全く神の側の自由な、恵みの選びによることなのです。16節に、「従って、これは、人の意志や努力ではなく、神の憐れみによるのです」と書かれれているとおりです。カルヴァンの「二重予定説」と言われる教理も、このような神の永遠で、自由な恵みの選びと、神の大きな憐れみを強調しているのです。

 また、使徒パウロは、キリスト教会の迫害者であった彼が、神に選ばれて主キリストの福音を宣べ伝える使徒とされたのは、全く神の恵みによることであり、神のみ心によるのであると、ガラテヤの信徒への手紙1章15節で語っています。【15~16節】(343ページ)。神はパウロが生まれるよりも前に、彼を選ばれ、彼を主キリストの福音の宣教者としてお立てになっておられたのです。

 では次に、神の選びの特徴について申命記7章のみ言葉から学んでいきましょう。【7章6~8節】(292ページ)。ここには、神がイスラエルの民を選ばれ、彼らをエジプトの奴隷の家から救い出された、その選びの特徴がいくつか語られています。6節には、「あなたの神、主は地の表にいるすべての民の中からあなたを選び」と書かれています。神の愛と救いのみわざは、神の選びにその基礎と出発点を持っていることが分かります。神は全世界のすべての国民の中から、ただ一つの民、イスラエルだけをお選びになりました。神はご自身が選ばれた民イスラエルを用いて、この民を通して、救いのみわざをなさるのです。極端な言い方をすれば、神の選びがなければ、神の救いのみわざはだれにも分からないということです。神の救いのみわざは、もちろん天地創造の初めから全地において、全被造物を通して絶えず行われているのですが、もし神に選ばれた者がいなければ、だれもその救いのみわざに気づかず、それを信じることもできず、その証人となることもできないということになります。神に選ばれた民、選ばれた人だけが、神の救いのみわざを悟り、信じ、またそれを全世界に向けて証しすることができます。選ばれた信仰者は、いまだ選ばれていない人々に対して、神の救いのみわざを証しする人とされるのです。

 6節の前半には、「あなたは、あなたの神、主の聖なる民である」と書かれています。聖とは、この世から選び分かたれ、神にささげられたものとされたという意味です。神に選ばれた民イスラエルは、神のものであり、神の所有であり、神のご支配と配慮のもとに置かれます。したがって、イスラエルの民は神の民、神の宝の民であり、他の何ものからも自由にされた、自由の民です。

 神の選びは、神の愛によることが7、8節で語られています。神の愛が選びの愛であることがここでは強調されています。だれをも平等に愛する普遍的な愛というよりは、もちろんそうでもあるのですが、だれも神の愛から漏れてはいないのですが、それ以上に、神の愛は選ばれた一つの民、ひとりの人に集中して注がれる、選びの愛です。神は愛によって選び、選ばれた者に愛を集中して注ぎます。

 さらに重要なことは、その神の愛の特質です。神の愛は、すべての民の中で最も貧弱であり、小さな民であったイスラエルに注がれたと7節に書かれています。神の愛は、わたしたち人間の愛の基準とは全く違っています。わたしたちの愛は、この世的な価値観から生まれ、またそれに左右されます。人間の愛は愛すべきものを愛します。愛すべき価値が消えれば、愛も消えます。人間の愛はすべて罪の中にあるからです。

 しかし、神の愛は、愛に値しいないものを愛します。神の選びは、選ばれるに値しない者を選びます。それは、神に選ばれ、神に愛される対象には全く左右されない、ただ純粋に神の恵みと憐みによる、神の自由な意思による選びであり、愛なのです。

 ここで、新約聖書で選びについて語っているコリントの信徒への手紙一1章26節以下を読んでみましょう。【26~28節】(300ページ)。ここでは、神の不思議な選びの目的が語られています。それは、人間が誇りとしている知恵や力を打ち砕くためだと言われています。さらに、29節以下ではこう語られています。【29~31節】。これこそが、神の不思議な選び、自由な、恵みの選びの最終目的なのです。神に選ばれた人は、そのことを誇ることはだれにもできません。ただ、神の恵みの選びを感謝し、神の栄光をほめたたえるのです。

 もう一度、申命記7章に戻りましょう。ここで、神の選びの愛のもう一つの特徴は、神の愛はイスラエルを奴隷の家エジプトから救い出す神の救いのみ力として働くいうことです。神の選びの愛は、当時世界最強の国であったエジプトとその王ファラオの支配から、奴隷の民イスラエルを数い出しました。神の選びの愛は救いの力として働きます。神の選びの愛は、主イエス・キリストによる罪のゆるしの力として、わたしたちに働きます。

 神の選びのさらなる特徴は、神の選びの愛は神の契約に基礎づけられているということです。8節に、「あなたがたの先祖に誓われた誓いを守られたゆえに」と書かれています。神の選びの愛は、一時的な感情ではありませんし、あるいは偶然に思いついた愛ではありません。それは永遠なる神の契約に基づいています。神は族長アブラハムと契約を結ばれました。その子イサク、その子ヤコブと契約を更新されました。そして、ヤコブの12人の子どもたち、イスラエルの民へと契約は受け継がれ、ダビデ王との契約で更新され、ついにはダビデの子孫から出たナザレのイエスをお選びになり、この主イエス・キリストによって、新しい神の民である教会と新しい契約を結ばれたのです。神の選びの愛は、永遠なる神との契約に基づいています。時代が変わり、世界が代わっても、神の選びの愛は変わることはありません。ここにこそ、選ばれる人間の側の条件には左右されない、ただ神の一方的な恵みと憐みによる選びと救いがあり、またそれゆえにこそ、わたしたちの選びと救いの確かさがあるのです。

(執り成しの祈り)

○天の父なる神よ、あなたの永遠なる救いのご計画の中に、わたしたち一人一人をも招き入れてくださり、この滅びにしか値しない罪多き者をも、主キリストの救いにあずからせてくださいますことを信じ、心からの感謝をささげ、み名のご栄光をほめたたえます。どうか、全世界において、あなたのご栄光が現わされますように。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

10月23日説教「エルサレムの教会に対する大迫害と教会の成長」

2022年10月23日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:出エジプト記1章6~14節

    使徒言行録1~8節

説教題:「エルサレム教会に対する大迫害と教会の成長」

 キリスト教会最初の殉教者となったステファノの死は、誕生して間もないエルサレム教会にとって、どんなにか大きな衝撃であり、試練であったことでしょうか。教会はこれまでも二度の迫害を経験していました。一度目は、4章1節以下、ペトロとヨハネが捕らえられ、裁判にかけられました。二度目は、5章17節以下、12人の使徒たち全員が逮捕され、迫害が広げられました。そして今回は、エルサレム教会で選ばれた7人の奉仕者たちの一人ステファノが石打の刑で処刑され、教会員の血が流されるという、より深刻で、衝撃的な迫害となったのです。

 しかし、初代教会が受けた迫害はこれにとどまりませんでした。8章1節にこのように書かれています。【1節】。最初の殉教者ステファノの死は、同じ日に起こったエルサレム教会に対する大迫害の合図となったのです。使徒言行録では、この個所で初めて「迫害」という言葉が用いられます。しかも、それに「大」を付けて「大迫害が起こった」と書かれています。ステファノの死と教会員のエルサレム市内からの追放という二重の大きな試練が、エルサレム教会を襲ったのです。教会はこの試練にどのように立ち向かったのでしょうか。教会はこの試練の中で、どのようにしてなお生き延びることができるのでしょうか。使徒言行録を読むこんにちのわたしたちにも、大きな緊張感が走ります。

 「使徒たちのほかは皆」と書かれています。使徒たちとは主イエスの弟子であった12人を指しますが、彼らはエルサレムに留まることがゆるされたけれども、それ以外の教会員は、おそらくこのころは少なくとも5千人の教会員はいたと推測されますが、その全部がエルサレム市内から追放されたということを言うのか。そうなれば、エルサレム教会の存続そのものが不可能になるのではないかと思われます。ところが、このあとの使徒言行録にはエルサレム教会にある程度の教会員が残っていたと思われる記述がいくつかありますので、「ほかは皆」という表現は「ある特定のグループは皆」という意味ではないかと多くの研究者は考えています。

 エルサレム教会には、生まれた時からエルサレムを離れずに住んでいたユダヤ人、彼らはヘブライ語を話していたのですが、その人たちをヘブライストと一般的に呼びます。彼らのほかに、一度エルサレムから諸外国に出て行き、最近になってエルサレムに戻って来た、ギリシャ語を話すヘレニストと言われるユダヤ人とが住んでいて、エルサレム教会の中でもやもめたちの日々の分配のことでその両者に多少の争いがあったということが6章に書かれていました。その問題解決のために選ばれた7人の奉仕者の一人がステファノでした。当時のこのようないきさつから推測して、エルサレム市内の住民の間でも、もとからこの町に住んでいたヘブライストと諸外国から戻って来たヘレニストとの間にある種の軋轢があったのではないか。それが、今回のステファノの死刑判決と殉教がきっかけとなり、ステファノはヘレニストだったと思われますので、エルサレム教会のギリシャ語を話すヘレニストと言われる教会員の追放になったのではないか。しかし、ヘブライ語を話すヘブライスト、12人の使徒たちもそうですが、彼らはエルサレム市内に留まることをゆるされた、というのが実態ではないかと、多くの研究者は推測しています。

 しかし、そうであるとしても、この大迫害がエルサレム教会に与えた打撃は限りなく大きいものでした。教会の有能な働き人であったステファノを失いました。他の6人の奉仕者も、その名前から推測してみなヘレニストでしたから、ギリシャ語を話すヘレニストの教会員と一緒に追放されました。少しずつ整えられつつあった教会の体制は、一気に崩されてしまいました。教会はこの危機をどのようにして乗り越えていくのでしょうか。

 【2節】。「信仰深い人たち」については二つの理解ができます。一つは、ユダヤ教の信者たちで、信仰深い人々。もう一つは、エルサレムに残っているキリスト教の信者たち。いずれにしても、ここで強調されていることは、ステファノの殉教の最後の姿に真実な信仰を見た人たちが多くいたということです。主イエスの十字架の死の場面を見たローマ軍の百人隊長が、「本当にこの人は神の子だった」と告白したように(マルコ福音書15章39節)、石打の刑で処刑されながら徹底して神への信仰を貫き通し、それのみか自分を裁いているユダヤ人指導者たちの罪のゆるしを祈っているステファノの姿は、多くの人の心を打ち、彼の遺体を手厚く葬るという行動へと至らせたのです。処刑された犯罪人に対しては、公然と葬儀を行ったり、死者への悲しみを面に出したりすることは禁じられていたにもかかわらず、彼らはステファノを処刑したユダヤ人指導者者たちへの抗議でもあるかのように、彼の死を悲しんだということがここには言い表されています。

 誕生して間もない若い教会は、この世からの迫害に対抗して身を守る術を何も持っていません。反撃したり、抗議したりする力もありません。教会は弱く、貧しく、無力であるように見えます。迫害の血を流し、この世から追放されるほかにない、憐れな群れであるかのように見えます。けれども、教会は迫害によってもこの世界から撤退することはなく、消え去ってしまうこともありません。むしろ、人間的な弱さの中にこそ、教会の本当の力と命が、それは天の父なる神から与えられるのですが、その力と命が現れ出るのです。

 次に、【4節】。大迫害によりエルサレム市内と教会から追い出された信仰者たちは、決して信仰そのものを失ってしまったのではありませんでした。信仰を捨てて、再びこの世の朽ち果てるものを追い求める生活へと戻っていったのでもありませんでした。彼らは神のみ言葉を捨てたのではありません。主イエス・キリストの福音を語る口を閉ざしたのではありません。いや、むしろ、散らされた信仰者たちによって、主イエス・キリストの福音の種がより広い地域へ蒔かれることになったのです。

 宗教改革者カルヴァンは注解書の中でこのように書いています。「このように、彼らの神はやみの中から光を、死から命を引き出すのを常となさった。というのは、一つの場所でしか聞かれなかった福音の声が、今や至る所で鳴り響くからである」。主キリストの福音がエルサレムからパレスチナ全域へと、さらには全世界へと拡大されていくきっかけが、実にエルサレム教会が経験した大迫害だったのだということを、わたしたちは知らされるのです。

 彼らは必ずしも自ら進んで福音の種をまくために出て行ったのでありませんでした。エルサレムからの強制退去によって、いわば外からの圧力に強いられて出て行ったのでした。また、追い出された彼らは、次の迫害を恐れてどこかに身を隠したり、この世から姿を消して部屋の中に閉じこもっていたのでもありませんでした。彼らは神のみ言葉を宣べ伝えながら、巡り歩いたと書かれています。大迫害を経験した彼らにとっても、神の言葉は決してこの世の鎖につながれてはいませんでした。この世からの圧力によってもその力と命を失ってはいませんでした。人間の弱さ、教会の弱さの中でこそ、神のみ言葉はその偉大な力と命を発揮するのです。神のみ言葉はエルサレムだけにとどまらず、ユダヤ全域に、北の異邦人の地サマリアへ、さらにはパレスチナ全域を行きめぐり、小アジアからヨーロッパへと拡大されていくのです。

 このようにして、1章8節で、復活された主イエスが弟子たちにお命じになったみ言葉、「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」との約束のみ言葉が、エルサレム教会を襲った大迫害をとおして成就されていくのです。これはまさに神の奇跡のみわざです。

 8章1節と4節に「散って行った」という言葉がありますが、これは元のギリシャ語は文法的には受動態で「散らされていった」という意味です。意味上の主語は何かと考えるなら、教会を迫害したユダヤ人指導者たちが挙げられるかもしれませんが、以前にもお話したように、聖書では受動態で意味上の主語がはっきり語られない場合の多くは神が主語と考えられています。ここでもそのように理解すべきです。信仰者たちをユダヤ、サマリアとパレスチナ全域へ、さらには全世界へと散らし、その散らされた地で神のみ言葉を宣べ伝えさせ、主キリストの福音を語らせたのは、神ご自身なのです。彼らを導かれたのは聖霊なる神なのです。1章8節で、主イエスが「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、……地の果てに至るまで、わたしの証人となる」と言われたのは、そのことであったのです。たとえ、人間的な弱さと教会の無力さの中にあっても、否むしろ、そのような時にこそ、神はその偉大な力と命とを発揮なさいます。

 きょうの聖書の個所で、もう一つ目を引くことがあります。それは、ここにサウロという名前が何度も出てくるということです。ステファノの処刑の時、7章58節で、8章1節と3節、計3回もサウロの名前が挙げられています。もちろん、サウロはのちの使徒パウロのことです。エルサレム教会が経験した最初の殉教者と大迫害のこの場面にパウロの名前がたびたび出てくる。7章58節ではステファノの石打ちの刑のわき役として、8章1節ではステファノ殺害に責任を持つ一人として、そして8章3節では、教会迫害の張本人として、それどころか迫害運動の首謀者として、その名前が挙げられています。

 使徒パウロのその後の活動をよく知っているわたしたちは、ここに登場してくる教会の迫害者であったサウロ・パウロがやがて人間の目には図り知ることのできない神の深いみ心と、永遠の救いのご計画によって、教会の偉大な宣教者とされるという、神の大きな奇跡のみわざを思い知らされるのです。パウロは使徒言行録22章19節以下で、ダマスコで復活の主イエス・キリストに出会い、回心した時のことを回想しています。【22章19~21節】(259ページ)。

 神はエルサレム教会が経験した最初の殉教者の血と大迫害をお用いになって、主イエス・キリストの福音と教会を全世界へと拡大していくきっかけをお与えになったように、神はまた、教会の迫害者パウロをもお用いになって、主イエス・キリストの福音と教会とを全世界へと拡大していく具体的な道をお備えになったのです。カルヴァンが言ったように、神は闇から光を創造され、死から命を生み出され、無から有を呼び出だされたのです。

 わたしたちもまたこの神を信じる信仰へと招かれています。主イエス・キリストの十字架の死と三日目の復活によって、わたしたちを罪から救い、罪によって死すべきわたしたちを永遠の命に生かしてくださる神を信じる信仰へと招かれています。そして、この主キリストの福音を全世界に宣べ伝える宣教の務めへと招かれているのです。

(執り成しの祈り)

○天の父なる神よ、あなたがみ子の血によって贖い取ってくださったあなたの教会の民を、どうかみ国の完成の時まで守り、導いてください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

10月16日説教「悪霊にとりつかれた人をいやされた主イエス」

2022年10月16日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:詩編51編1~14節

    ルカによる福音書8章26~39節

説教題:「悪霊に取りつかれた人をいやされた主イエス」

 主イエスと弟子たちの一行は、ガリラヤ湖の北西沿岸の町カファルナウムから船出して向こう岸に渡っていきました。途中、激しい嵐に会い、舟が沈みそうになりましたが、主イエスが神の権威と力によって風と荒波とをお叱りになって嵐を静められ、舟は無事に対岸に着きました。その地は、26節によれば、ゲラサ人の地方と言われています。

 当時、ガリラヤ湖の東側一帯はデカポリス(10の都市と言う意味)と呼ばれ、そこの住民はほとんどがユダヤ人以外の異邦人でした。ローマ政府が直接統治していた異教徒の地でした。その地で豚を飼っている人がいたのはその理由によります。というのは、ユダヤ人にとって豚は宗教的に汚れた動物で、飼育することもその肉を食べることもしなかったからです。

 主イエスがそのような異邦人の地へ出かけ、異邦人に福音を宣べ伝えたということは、福音書では非常にまれなことです。主イエスがユダヤ人の地で異邦人に伝道したことや異邦人をいやされたという記録はいくつかありますが、異邦人の地へ出かけて行って、異邦人に伝道したという記録はここだけです。その意味で、きょうの個所には大きな意味が含まれているといえます。

 最初に、そのことについて少し考えてみましょう。主イエスの福音宣教の範囲はユダヤ人の地に限られ、その対象もユダヤ人にほぼ限定されていました。それは、神が、旧約聖書に書かれているように、最初にユダヤ人、イスラエルの民をお選びになり、この民と救いの契約を結ばれたからです。けれども、この神とイスラエルとの契約は、一つの民族だけの救いを目指していたのではありませんでした。神は先に選ばれたイスラエルの民によって、やがてその救いのみわざが全世界のすべての国民へと拡大されていくことを最初から計画しておられました。神の限りない恵みと慈しみ、全人類に対する大きな愛が、イスラエルの民をとおして証しされていたのです。そしてついに、主イエス・キリストによってその神の救いのみ心が明らかにされました。主イエスはすべての罪びとのために十字架で死んでくださり、すべての人の罪が主イエスの尊い血の贖いによってゆるされ、救われるということを明らかにされました。神は主イエス・キリストによって、新しい教会の民をお選びくださり、全世界に建てられる教会によって、主キリストの福音がすべての人に宣べ伝えられるようにされたのです。これが神の永遠の救いのご計画でした。

 このことから、きょうのルカ福音書のゲラサ人の地での福音宣教と救いのみわざを見てみると、この出来事はやがて教会が誕生し、主イエスの福音が全世界に宣べ伝えられることの、いわば先取りであり、そのことをあらかじめ預言していることになります。十字架につけられ、三日目に復活された主イエスが、弟子たちに「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい」(マルコ福音書16章15節)とお命じになられたように、異邦人伝道、全世界への福音宣教は、主イエスご自身が最初からご計画しておられたことなのです。わたしたちはその主イエスのご計画に従って、こんにちこの日本で、この秋田で、福音宣教のわざのために仕えているのです。

 では、26から27節を読みましょう。【26~27節】。『新共同訳聖書』では、27節の後半は「男がやって来た」と翻訳されていますが、この文章の主語は前半と同じ主イエスと考えるのがよいと思われます。つまり、「イエスは陸に上がられた」「その時、イエスはこの町の者で悪霊に取りつかれている男と出会った」と訳すがよいように思われます。『口語訳聖書』ではそのように訳されていました。この人は人里離れた墓場を住まいとし、他の人にはできるだけ会わないようにしていたのですから、その人が主イエスの方に近づいてきたと考えるよりは、主イエスの方がその人のところへと近づいて行かれ、その人と出会われたと考えるの自然ですし、その方が主イエスご自身の意図でもあったと考えるべきでしょう。

 悪霊に取りつかれていたこの人は、29節にも書かれているように、彼自身の心も体もすべてが悪霊の力によって支配され、自分で自分をコントロールできないほどに凶暴な力を発揮して、人々に恐怖を与えていました。彼はほとんど人間であることを失い、30節では彼自らが自分の名前は「レギオンです。男百何千もの悪しき霊、汚れた霊が自分の中に住み、自分を支配しているからです」と答えているほどでした。レギオンとはローマの軍隊で、歩兵6千人と数百の騎兵で構成されている部隊のことです。それほどの驚異的な力の悪しき霊によって自分が占領され、支配されていると告白しているのです。彼の住みかが墓場や荒れ野であったように、彼は常に死と直面し、絶望と暗闇が彼を覆っていたのです。

 けれども、主イエスがそのような彼と出会ってくださいます。そのような彼に主イエスが近づいて行かれます。そして汚れた霊に向かって「この男から出て行け」とお命じになりました。すると、悪霊に取りつかれている人が言いました。彼が言ったというよりは、彼の中に住んでいる何百何千もの悪霊が言っていると表現した方が適当かもしれませんが。

28節を読みましょう。【28節】。ここで、彼は、あるいは悪霊はと言うべきでしょうが、主イエスのみ前にひれ伏し、主イエスを「いと高き神の子イエス」と呼んでいます。これはどういうことでしょうか。「いと高き神の子」という言葉はこの福音書の1章32節にもあります。【1章30~33節】(100ページ)。これは神から遣わされたメシア・救い主キリストへの正しい信仰告白です。だとすれば、悪霊は主イエスを全世界の唯一の救い主だと信じ、告白しているということなのでしょうか。そうではないでしょう。悪霊は主イエスに敵対している罪の力ですから、これは主イエスに対する正しい信仰告白ではもちろんありません。悪霊自身がこの人の口を借りて「自分たちには構わないでくれ。頼むから自分たちを苦しめないでくれ」と懇願しているのですから、これが悪霊の正しい告白でないことは明らかです。

これと同じような状況がすでに4章34節に書かれていたことを思い起こします。【4章34節】(108ページ)。ここでも学びましたように、悪霊や汚れ霊は人間をはるかに上回る力や知恵(それは悪しき知恵ですが)、霊的力(これも悪しき霊の力ですが)を持っていて、人間が気づくことができず、知ることもできない真理のようなものを直観的に悟る能力を持っていたので、弟子たちでさえもまだ信じることができなかった主イエスの本当の正体を感じ取ることができたのではないかと考えられます。とは言っても、もちろんそれが主イエスに対する正しい認識でも正しい信仰告白でもないことは言うまでもなく、主イエスはそのような悪霊の告白を受け入れることはありません。それを拒絶なさいます。悪霊に向かって「黙れ、この人から出て行け」とお命じになったと、4章35節に書かれていました。

きょうの個所でも同じです。主イエスは悪霊の力も権威も、その偽りの告白をも受け入れることはありません。主イエスはいと高き神の権威と力とによって、悪霊を支配され、滅ぼされます。それがおできになります。そのことを知っている悪霊は、自分たちが完全に滅ぼされてしまうことを恐れて31節に書かれているように、「底なしの淵へ行けという命令を自分たちに出さないように」と主イエスに懇願しています。そして、悪霊たちは主イエスに豚の中に入る許可を求めたと32節書かれています。主イエスはそれをおゆるしになりました。

けれども、主イエスは悪霊たちがこれからもずっと豚の中で生き延びることをおゆるしになったのではありませんでした。豚の中に乗り移った悪霊は、豚と一緒に崖を下って、ガリラヤ湖の底に沈んで死んでしまったと33節に書かれています。

主イエスは悪霊に勝利されました。そして、このようにして、悪霊に取りつかれていた人を悪霊の支配から解放され、彼を死と暗闇の中から救い出されました。【35~36節】。主イエスが神の権威と力によって、悪霊に勝利され、死んでいた人を生き返らされる時、それを見た人々は恐れざるを得ません。神の奇跡を見る時、人はみな大きな恐れにおそわれます。主イエスのお働きの中に天におられる神の現臨を、全能の父なる神の救いのみわざを見るからです。ここでは、主イエスが十字架の死と復活によって明らかにされた罪と死に対する勝利がすでに暗示されているのです。それゆえに人々は主イエスの救いの福音を、この異邦人の地で語り伝えるということが起こっているのです。ここにすでに、後の世界の教会の働きが暗示されているのです。

37節からは、主イエスのこの救いのみわざを見たゲラサ地方の人々の反応が書かれています。【37節】。主イエスが神の権威と力によって悪霊に勝利するという神の救いのお働きを見た彼らの恐れは、しかし信仰には至りませんでした。一人の人が悪霊の支配から解放され、救われたという、この驚くべき救いのみわざを信じ、主イエスに従っていく信仰の決断をする人は、いやされたその人以外にはいませんでした。この地方の人々は主イエスにここから立ち去ってもらいたいと願いました。一人の人が救われたという神の恵みに感謝するよりも、彼らが飼っていた家畜が悪霊と一緒に湖に沈んで死んでしまったという、損失をこうむったことの方を、重大視したのでしょう。これ以上自分たちの財産を失いたくないと考えたのでしょう。

しかし、主イエスにとっては一人の人が悪霊の支配から解放され、救われたということは、全世界を手に入れるよりもはるかに尊いことなのです。主イエスは言われました。「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか」(マタイ16章26節)。またこうも言われました。「二羽のすずめが一アリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のおゆるしがなければ、地に落ちることはない。あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。だから、恐れるな。あなたがたは、たくさんのすずめよりもはるかに勝っている」(マタイ福音書10章29~30節)。

主イエスによって悪霊から解放され、救われた人は、主イエスと一緒に働きたいと申し出ましたが、主イエスは彼にこう言われました。【39節】。彼は、異邦人の地に留まり、異邦人に向かって主イエスの福音を語り伝える最初の人となりました。彼はのちの時代に全世界に建てられる教会の、最初の宣教者となりました。主イエスと出会い、主イエスの救いの恵みにあずかった人は、主イエスの福音を語り伝える人へと変えられます。

(執り成しの祈り)

○天の父なる神よ、あなたは天地創造の初めから今に至るまで、そして終わりの日に神の国が完成される時まで、恵みと慈しみとをもって、また義と愛とをもって、すべての造られたものをご支配し、導いておられます。どうか、この地においてあなたのみ心が行われますように、あなたの救いのみわざが全世界のすべての人たちに実現しますように。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

10月9日説教「ヤコブの子どもたち」

2022年10月9日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:創世記30章1~24節

    ローマの信徒への手紙11章25~36節

説教題:「ヤコブの兄弟たち」

 創世記29章31節から30章24節までに、ハランにいる伯父ラバンの家で働いていた20年間にヤコブに生まれた11人の子どもたちの誕生について、その名前の由来について書かれています。ヤコブはのちに32章29節で神によってイスラエルと名前を変えられますが、彼に生まれたこれらの11人の子どもと、35章18節で最後に生まれた子どもベニヤミンを加えて12人が、エジプトを脱出してからイスラエルの12部族を形成することになります。そして、やがて神の約束の地カナンに入り、その地で神の民イスラエルとして生きていくことになります。

聖書がここでそれらの子どもたちの誕生について、またその名前の由来について詳しく語っているのは、その理由によります。神に選ばれた族長アブラハム、その子イサク、その子ヤコブから、神に選ばれた民イスラエルへと神の契約、すなわちアブラハム契約が受け継がれていくのです。「わたしはお前とお前の子どもたちを永遠に祝福する。お前の子どもたちは空の星の数ほどに、海辺の砂の数ほどに増えるであろう。そして、わたしはお前とお前の子どもたちに乳と蜜が流れる麗しい地カナンを、それはわたしたちキリスト者にとっては神の国のことなのですが、その地を永遠の嗣業として与える」。この神の契約、神の約束のみ言葉が、族長からイスラエルの民へと、そして主キリストの教会の民へと受け継がれていくのです。

 29章31節以下のヤコブとレアとの間に生まれた4人の子どもについては、前回少し触れましたが、改めて31節を読んでみましょう。【29章31節】。「レアが疎んじられている」とは、30節に書いてあるように、ヤコブがラバンの二人の娘のうち姉のレアよりも妹のラケルの方を愛していたということを言います。ヤコブはラケルと結婚したいと願って、そのために7年間ラバンの家で働きましたが、ラバンに欺かれ、レアと結婚させられました。ヤコブはラケルと結婚するためにさらに7年間、働かなければなりませんでした。それでも、ヤコブは愛するラケルのために、14年間もラバンの家で一生懸命に働きました。

 それほどのラケルに対するヤコブの大きな愛に逆らうかのようにして、神はラケルをではなく、ヤコブに疎んじられていたレアの方を顧みられ、彼女に子どもを賜ったと書かれています。伯父ラバンによってだまされたヤコブは、今また神ご自身によっても拒絶されているのです。カナンの地で父母の家にいた時には、何でも自分の思いどおりに事が運び、傲慢で悪賢いヤコブでした。母と結託して、父と長男エサウとを欺いて、長男の権利をエサウから奪い取り、それによってエサウの怒りを買い、カナンから1千キロも離れたハランの地の伯父ラバンのところに逃亡してきたのでしたが、そのヤコブが今は全く自分の思いどおりにはいかず、人に欺かれ、人生の試練を経験しなければならず、神からも裁きを受けなければならなくなっているのです。ヤコブはここで神のみ前に謙遜になることを学ばなければなりません。自分の願いを達成することが重要なのではなく、神のみ心が行われることこそが、自分の生涯にとって最も大切であるのだということを学ばなければなりません。

 32節から、ヤコブとレアとの間に生まれた4人の子どもの名前書かれています。最初の子どもはルベンと名づけられました。「それは、彼女が、『主はわたしの苦しみを顧みてくださった。これからは夫もわたしを愛してくれるにちがいない』と言ったからである」と32節に説明されています。神は、ヤコブが愛したラケルよりも、疎んじられていたレアの方を顧みられます。神は苦しむ人、悲しむ人、虐げられている人を顧みられ、その人に恵みをお与えになります。それによって、神はいつくしみ深く、どんなに小さなものをも見捨てず、み心に留められる神であることをお示しになり、そのみ名があがめられるのです。

 レアはここで神をあがめるとともに、子どもの誕生は神から与えられる恵みであり、祝福であることを告白しています。このあとの子どもの誕生も、すべて神からの賜物です。子どもの命はすべて神から与えられたもの、すべて神に属するものであるということを、聖書は繰り返して教えます。それは親の所有ではありません。国家のための命でもなく、働き手とか経済活動とかのためでもありません。神から与えられた、神のための命です。

 すべての命が神から与えられた命であることが、子どもの名前を付ける際の親の信仰告白として現わされます。ヤコブの12人の子どもたちの名前もすべて親の信仰告白です。神の恵みを感謝する信仰が子どもの名前になります。ちなみに、イエスという名前、旧約聖書のヘブライ語ではヨシアとかヨシュアとなりますが、これは「神は救いである」という意味です。もっとも、この名前は両親のヨセフとマリアが選んだのではなく、主なる神ご自身がその子が生まれる前からすでに決めていた名前でしたが、そして、事実、神はこの子、主イエスによってご自身の救のみわざを成就してくださったということを、わたしたちは知っています。

 二人目の子どもはシメオンです。「主はわたしが疎んじられていることを耳にされ、またこの子をも授けてくださった」(33節)とレアは告白します。三人目の子どもはレビ、これは「結びつく」という意味のヘブライ語に由来します。四人目はユダ、「今度こそ主をほめたたえよう」(35節)とレアが言ったように、「ほめたたえる」というヘブライ語に由来します。

 次に、30章1~2節を読みましょう。【1~2節】。この個所の理解は大きく二つに分かれます。一つは、ラケルが自分に子どもができないのはあなたに原因があるのだとヤコブを非難したのに対して、ヤコブは自分のせいではない。神がそうなさったのだと言い訳をしているという解釈です。しかし、ここでヤコブは神のみ心を理解し始めていると解釈する方が良いように思われます。ヤコブはラケルを愛していたのですから、当然ラケルに子どもが与えられることを望んでいたでしょう。自分とレアとの間には子どもが与えられているのに、愛するラケルとの間になぜ子どもができないのだろうかと悩んでいたはずです。にもかかわらず、ラケルとの間に子どもが与えられないのは、神のみ心なのだと気づき始めていたと解釈するのがよいように思います。子どもを宿らせるのも、そうでないのも、すべては神のみ心であるということが聖書の信仰です。わたしたちは祈りつつ、神のみ心を尋ね求めるのです。

 妻との間に子どもができない場合には、その家の召し使いとの間にできた子どもを妻の膝の上に置くことによって、妻の子どもとして認められたという習慣があったことは16章でも触れました。ラケルは召し使いビルハによって自分の子どもを得ようとします。ビルハはヤコブとの間に最初の子どもを産んだので、ラケルは6節でこう言います。【6節】。ビルハはまた二人目の子どもを産みました。【8節】。ダンは5人目、ナフタリは6人目の子どもになります。ラケルは召し使いビルハとヤコブとの間に生まれた二人の子どもを、神が自分たちにお与えくださった子どもたちとして感謝して受け入れます。神は人間同士の妬みや醜い争いの中でも、ご自身の救いのご計画を着々とお進めになっておられることを、わたしたちはここから知らされます。

 9節からは、レアの召し使いジルパとの間の二人の子どもの誕生が書かれています。一人はガド、これは「幸運」という意味のヘブライ語に関連しています。次はアシュル、これは「幸せ」という意味のヘブライ語に由来しています。ヤコブの7人目、8人目の子どもです。レアは「何と幸運なことか」「何と幸いなことか」と言って、レアの召し使いジルパとヤコブとの間の二人の子どもを、神から与えられた自分たちの子どもとして、感謝して受け入れます。

 14節からは、恋なすびを巡ってのレアとラケルの駆け引きが語られます。恋なすびの正式な名称はマンドレイクと言うようですが、プラムほどの大きさの黄色い、香りが良い実で、古代から愛の妙薬と言われていたそうです。ラケルは自分に子どもが与えられないので、その恋なすびを手に入れようとして、レアと交渉をします。レアとラケルの恋なすびを巡ってのやり取りのあとで、17節にはこう書かれています。【17節】。また、【22~23節】。レアの場合にもラケルの場合にも、彼女たちに子どもが与えられたのは恋なすびの効果によるのではなく、神の顧みと恵みによるのだと聖書ははっきりと語っています。

 レアの5人目の子どもはイサカル、その名前の意味は【18節】。6人目の子どもはゼブルン、その名前の意味は【20節】。これがヤコブの9人目と10人目の子どもになります。二人の妻の争いはまだ続いていますが、神はここでもまた、疎んじられていたレアを顧みられ、豊かな恵みをお与えになり、そのようにして神の永遠の救いのみわざをお進めになっておられます。

 ヤコブが愛したラケルにはもう何年もの間子どもが与えられませんでした。30章には夫であるヤコブについてはほとんど語られてはいませんが、彼がこの間、何を思っていたかを推測することはできます。愛するラケルと結婚するために7年間伯父ラバンのために働きました。ラバンの策略によって、もう7年間働かされることになりました。それでも、愛するラケルに神は子どもをお授けにはなりません。ヤコブはここに神の裁きを見ていたに違いありません。神が信仰の試練を与え、彼の信仰を訓練しておられるということに、ヤコブは気づいていたのかもしれません。わたしたちはヤコブの20年間の逃亡生活の終わりに、兄エサウとの再会を前にした彼の告白を、ここであらかじめ聞いておきたいと思います。【32章10~13節】(55ページ)。ヤコブは20年間の試練に満ちたラバンの家での逃亡生活の中で、このことを神から学ばしめられたのです。

 その神の隠されたみ心がある程度成就された時になって、ようやくにしてラケルに子どもが与えられました。「神はラケルも御心に留め、彼女の願いを聞き入れ、その胎を開かれたので」と22節に書かれていますが、この文章の主語はすべて神です。神が御心に留めてくださいます。神が願いを聞き入れてくださいます。神が彼女の胎をお開きくださり、子どもをお授けになります。

 ラケルの最初の子、ヤコブの11人目の子どもは、ヨセフです。ヨセフの名前の意味には二つの説明があります。一つは、「すすぐ、摘み取る」というヘブライ語、もう一つは「付け加える」というヘブライ語です。どちらもヨセフという発音に似ているヘブライ語です。ラケルのもう一人の子ども、ヤコブの12人目の子ども、35章で語られるベニヤミンの誕生がここで暗示されています。

 ヨセフについて最後に少し触れておきます。創世記37章から、いわゆるヨセフ物語が始まります。ヨセフは当然のことながら両親に最もかわいがられ、ほかの子どもたちとは違って特別扱いされていましたので、兄たちの反感を買い、エジプトに売られることになります。エジプトでのヨセフの数奇な生涯が創世記の終わりの50章まで続きます。そしてついには、ヤコブ・イスラエルの他の子どもたちもみんな一緒にエジプトに移住することになり、エジプトでの400年余りの寄留の生活の後、モーセを指導者とした出エジプトへと、そして約束の地カナンでのイスラエルの信仰の歩みが続いていくことになります。神の壮大な救いの歴史はこれからもまだまだ続くのです。

(執り成しの祈り)

○天の父なる神よ、あなたが族長アブラハムをお選びになって具体的にお始めになった全世界、全人類の救いのみわざの中に、わたしたちをもお招きくださっておられますことを覚え、あなたの大いなる恵みと慈しみとを心から感謝いたします。この世界は未だ救いの完成の途中にあり、破れや痛みや苦しみの中にあります。けれども、あなたは確かにこの救いの歴史を完成させてくださることを、わたしたちは信じます。願わくは、病んでいるこの世界をあなたが憐れんでくださり、顧みてくださり、、あなたの救いのみ心を行ってください。

主イエス・キリストのみ名によって、アーメン。

10月2日説教「わたしたちのために執成してくださる主キリスト」

2022年10月2日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:イザヤ書53章1~12節

    ローマの信徒への手紙8章26~39節

説教題:「わたしたちのために執り成してくださる主キリスト」

『日本キリスト教会信仰の告白』をテキストに、キリスト教信仰の中心とわたしたちの教会、日本キリスト教会の信仰の特徴を学んでいます。『信仰の告白』の最初の段落は、「わたしたちが主とあがめる神のひとり子イエス・キリストは」に始まり、「救いの完成される日までわたしたちのために執り成してくださいます」まで続きます。ここまでが一続きの文章であり、ここには日本キリスト教会の信仰の特徴が数多く告白されていることを、わたしたちは確認してきました。

 前回、その終わりの部分の「救いの完成される日まで」という個所について学びましたが、少しその内容を振り返っておきたいと思います。「救いの完成される日まで」には大きく二つの意味が含まれます。一つは、わたしたちの信仰は未完成だということ、わたしたちは神の国に至る信仰の旅路の途中にあるということ。時に弱ったり、時に迷ったり、時に不安になったりしながら、わたしたちは今しばらくはこの地上にあって信仰の戦いを続けていかなければならないのだということ。これが一つです。もう一つは、しかしわたしたちの信仰の歩みは確かに終わりの日の完成に向かっている、神の国で約束されている、朽ちず汚れず、終わることのない永遠の命に向かって前進しているということ。それゆえに、わたしたちはうしろのものを忘れ、前のものに向かって体を伸ばしつつ、目標を目指して走り続けることができるのだということ。以上の二つのことがここでは告白されています。

 それに続いている、きょう学ぶ「わたしたちのために執り成してくださいます」との関連、つながりを考えてみましょう。そうすると、わたしたちは重要な点に気づきます。つまり、わたしたちの信仰が完成される日まで、わたしたちのために執り成していてくださる方がおられるということです。わたしの信仰を完成させるのはわたしなのではなく、わたしのために執り成してくださる方、わたしの信仰が完成されるために執り成してくださる方がおられるということです。その方がわたしの信仰の歩みに常に伴ってくださり、いわばわたしの手を引くようにして、たどたどしいわたしの信仰の歩みを終わりの日の完成に至るまで確実に導いてくださるのです。これがきょう学ぶポイントです。

では、この信仰告白についてさらに深く学んでいくことにしましょう。そのために、この文章の主語を今一度確認しておくことが大切です。それは、「神のひとり子イエス・キリスト」です。主イエス・キリストは2000年ほど前に、天の父なる神のみ子としてこの世界においでになり、おとめマリアの胎からお生まれになり、イスラエルの地で神の国の福音を宣べ伝えられ、エルサレムで十字架につけられ、三日目に復活されました。そして、十字架の死から40日目に天に昇られました。主イエス・キリストは天の父なる神の右に座しておられ、今も生きて働いておられ、わたしたちの礼拝に聖霊によって現臨しておられ、終わりの日、終末の時に、わたしたちの救いが完成される時まで、わたしたちのために執り成していてくださると、告白されているのです。わたしたちの救い主イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも変わることなく、わたしたちの救い主として働いておられます。

 では、はじめに「わたしたちのために」という言葉の意味を考えてみましょう。同じような意味の言葉が少し前の「人類の罪のため十字架にかかり」にもありました。「人類のため」と「わたしたちのために」、厳密に言えば、この二つの言葉の意味は違う点があります。「人類の罪のため十字架にかかり」は、全人類が、すべての人がみな罪びとであるということ、そしてその全人類の罪のために、すべての人の罪をゆるすために、主イエス・キリストは十字架におつきになったということですが、「わたしたちのために」とは、その主イエス・キリストを救い主として受け入れ、信じているわたしたちのために、主は救いの完成の時まで共におられ、導いてくださるという意味になります。

 いずれにしても、重要なポイントは、主イエス・キリストのご生涯、その救いのみわざは、すべてがわたしたち人間の救いのためであったということです。主イエスは、ご自分の喜びとか誉れを全くお求めにはなりませんでした。徹底して、他者のために、神に敵対していたわたしたち罪びとたちのために生きられ、、そして死なれ、復活なさいました。終わりの日に救いが完成され、わたしたちが主キリストと同じ姿に変えられる時まで、主は天におられて、わたしたちのために生きられ、働かれます。

 天に昇られた主イエスがわたしたちのために執り成してくださるということには特別な意味が含まれています。福音書によれば、主イエスが地上におられた間、それは30年少しの期間であったと考えられていますが、その期間に主イエスはガリラヤ地方のナザレの町で家族や地域の人たちと一緒に過ごされ、30歳になられてからナザレを出て、弟子たちをお集めになり、ガリラヤ湖周辺の町々村々で神の国の福音を宣教され、3年ほど後にエルサレムで十字架につけられました。その間、主イエスと交わり、主イエスの教えと導きとを受けることがゆるされた人々は、パレスチナ地域のごく限られて人々だけでした。もちろん、主イエスはそのご生涯の最初から全人類の罪の救いのために、わたしたちすべての人たちの救いの完成のために働いておられたのですが、そのことはまだいわば隠されていました。

 けれども、主イエスが復活され、天に昇られ、父なる神の右の座におつきになってからは、すべての人と、永遠に共におられる普遍的な方となられたのです。天におられる主イエスは、時を超え、場所を超え、すべての違いや壁を越えて、今や聖霊なる神として、全世界に、すべての人と共におられ、すべての人のために執り成し、働いておられるのです。主イエス・キリストはきょうこの時にも、聖霊においてわたしたちの礼拝に現臨しておられます。

 ヨハネによる福音書14~16章に書かれている、主イエスのいわゆる「告別説教」の中で、繰り返して主は弟子たちに語っておられます。「わたしは間もなくあなたがたの前からいなくなる。しかし、決してあなたがたを見捨てて、孤児のようにするのではない。わたしは天からあなたがたに聖霊を送る。この聖霊はあなたがたと永遠に共にいて、あなたがたにわたしの言葉とわたしのわざを証しするであろう。そして、あなたがたに最後の勝利を約束してくださるであろう」と。主イエスはまた、マタイによる福音書28章18~20節でこのように言われました。「わたした天と地の一切の権威を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子としなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたすべてことを守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と。

 次に、「執り成してくださる」という告白について学びましょう。執り成すという言葉は、今日日常会話の中ではほとんど用いられませんが、聖書では、旧約聖書と新約聖書で、「執り成す」「執り成し」という動詞と名詞で10回あまり用いられています。教会でも執り成しの祈りをするという言い方でしばしば使います。執り成すとは、仲裁をする、仲立ちをする、両者の間を取りもつという、両者の関係を回復させたり、より良い関係へと導くことを言います。わたしたち信仰者が、他者のための執り成しの祈りをするということは、その人が神との関係を回復し、あるいはより深くするように神が働いてくださるようにと祈り、神がその人にとって恵み深くあられ、その人のためにみ心に適ったみわざをなしてくださるようにと祈ることです。主イエス・キリストによって罪ゆるされ、神との関係を回復され、神の恵みをいただいている信仰者は、他者のための執り成しの祈りをし、祭司としての務めを果たすことが求められています。主イエス・キリストが徹底して他者のために、わたしたちのために生き、死なれたように、わたしたちもまた他者のために生きることへと招かれているからです。

 信仰告白の中では、主イエス・キリストがわたしたち信仰者のために執り成してくださると言われていますので、主キリストが父なる神とわたしたちとの間に立ってくださり、神とわたしとの関係を修復し、改善してくださる。それによって、神がわたしのために最も良き道を備え、わたしのために最もふさわしいみわざをなしてくださるようにと、常に祈っておられる、導いておられるということを告白しています。

 このような主イエスの執り成しの務めとお働きについて、ヘブライ人への手紙7章24~25節にはこのように書かれています。【24~25節】(409ページ)。主イエスは動物の犠牲を神殿にささげる祭司ではなく、神のみ子としてのご自身の尊い命を十字架におささげになったまことの大祭司として、また

復活して永遠に生きておられる大祭司として、わたしたちを罪と死と滅びから救い、わたしたちの救いの完成のために絶えず執り成しておられます。わたしたちはこの主イエス・キリストの執り成しによって、神との豊かな交わりに招き入れられているのです。神の国での永遠の命を約束されているのです。

 ローマの信徒への手紙8章26節以下には、聖霊なる神と主イエス・キリストの執り成しについて書かれています。聖霊なる神の執り成しについては、【26~28節】(285ページ)。天におられる父なる神とその右に座しておられる主イエス・キリストから遣わされる聖霊なる神は、父なる神とみ子主イエス・キリストの救いのご計画を完成へと導くために、弱く、くずおれやすいわたしたちのために執り成してくださり、わたしたちをみ子のお姿に似たものにしてくださると、続けて29節以下に書かれています。

 さらに、31節以下では、父なる神の偉大なる愛の力と、み子主イエス・キリストの執り成しのことが書かれています。【31~33節】。ご自身のみ子をさえも惜しまれず死に渡された神の、わたしたち罪びとに対する大きな愛は、わたしたちを罪から解放し、すべての束縛からも解放し、もはや何ものもわたしたちを支配することはない、この大きな神の愛からわたしたちを引き離すことはできないと、この手紙の著者であるパウロは勝利の歌を歌っています。

 また、【34~35節】。26節の聖霊なる神の執り成しととも0に、ここでは主イエス・キリストの執り成しが語られています。わたしたちすべての罪びとのために十字架で死んでくださり、それによってわたしたちを罪から救い出してくださった主イエス・キリストは、復活され、天に昇られ、父なる神の右に座しておられます。罪と死とに勝利され、父なる神から一切の権威を授けられました。その主イエス・キリストがわたしたちに信仰を与え、わたしの信仰の歩みを導かれ、終わりの日にわたしの信仰を完成させてくださるまで、わたしたちのために執り成してくださるのです。

 主イエスはその誕生の時から十字架の死に至るまで、地上の歩みのすべてが、ご自身のためではなく、徹底して他者のため、わたしたち罪びとたちのためでありましたが、天に昇られてからも、終末の救いの完成の時まで、徹底して、わたしたちのために生きておられるのです。主イエス・キリストはわたしたちの礼拝に現臨してくださり、わたしたちひとり一人の信仰の歩みに伴ってくださり、わたしの幸いな時も、災いの時も、そしてわたしの死の時も、死ののちにも、わたしと共にいて、わたしのために執り成してくださるのです。

(執り成しの祈り)

○天の父なる神よ、わたしたちのたどたどしい信仰の歩みをあなたがみ子主イエス・キリストと聖霊によって絶えず守り、導いてくださいますことを、心から感謝いたします。どうか、わたしたちが心を挙げて、天に備えられている勝利の冠を見上げながら、たゆむことなく、信仰の道を進みゆくことができますように。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。