10月2日説教「わたしたちのために執成してくださる主キリスト」

2022年10月2日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:イザヤ書53章1~12節

    ローマの信徒への手紙8章26~39節

説教題:「わたしたちのために執り成してくださる主キリスト」

『日本キリスト教会信仰の告白』をテキストに、キリスト教信仰の中心とわたしたちの教会、日本キリスト教会の信仰の特徴を学んでいます。『信仰の告白』の最初の段落は、「わたしたちが主とあがめる神のひとり子イエス・キリストは」に始まり、「救いの完成される日までわたしたちのために執り成してくださいます」まで続きます。ここまでが一続きの文章であり、ここには日本キリスト教会の信仰の特徴が数多く告白されていることを、わたしたちは確認してきました。

 前回、その終わりの部分の「救いの完成される日まで」という個所について学びましたが、少しその内容を振り返っておきたいと思います。「救いの完成される日まで」には大きく二つの意味が含まれます。一つは、わたしたちの信仰は未完成だということ、わたしたちは神の国に至る信仰の旅路の途中にあるということ。時に弱ったり、時に迷ったり、時に不安になったりしながら、わたしたちは今しばらくはこの地上にあって信仰の戦いを続けていかなければならないのだということ。これが一つです。もう一つは、しかしわたしたちの信仰の歩みは確かに終わりの日の完成に向かっている、神の国で約束されている、朽ちず汚れず、終わることのない永遠の命に向かって前進しているということ。それゆえに、わたしたちはうしろのものを忘れ、前のものに向かって体を伸ばしつつ、目標を目指して走り続けることができるのだということ。以上の二つのことがここでは告白されています。

 それに続いている、きょう学ぶ「わたしたちのために執り成してくださいます」との関連、つながりを考えてみましょう。そうすると、わたしたちは重要な点に気づきます。つまり、わたしたちの信仰が完成される日まで、わたしたちのために執り成していてくださる方がおられるということです。わたしの信仰を完成させるのはわたしなのではなく、わたしのために執り成してくださる方、わたしの信仰が完成されるために執り成してくださる方がおられるということです。その方がわたしの信仰の歩みに常に伴ってくださり、いわばわたしの手を引くようにして、たどたどしいわたしの信仰の歩みを終わりの日の完成に至るまで確実に導いてくださるのです。これがきょう学ぶポイントです。

では、この信仰告白についてさらに深く学んでいくことにしましょう。そのために、この文章の主語を今一度確認しておくことが大切です。それは、「神のひとり子イエス・キリスト」です。主イエス・キリストは2000年ほど前に、天の父なる神のみ子としてこの世界においでになり、おとめマリアの胎からお生まれになり、イスラエルの地で神の国の福音を宣べ伝えられ、エルサレムで十字架につけられ、三日目に復活されました。そして、十字架の死から40日目に天に昇られました。主イエス・キリストは天の父なる神の右に座しておられ、今も生きて働いておられ、わたしたちの礼拝に聖霊によって現臨しておられ、終わりの日、終末の時に、わたしたちの救いが完成される時まで、わたしたちのために執り成していてくださると、告白されているのです。わたしたちの救い主イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも変わることなく、わたしたちの救い主として働いておられます。

 では、はじめに「わたしたちのために」という言葉の意味を考えてみましょう。同じような意味の言葉が少し前の「人類の罪のため十字架にかかり」にもありました。「人類のため」と「わたしたちのために」、厳密に言えば、この二つの言葉の意味は違う点があります。「人類の罪のため十字架にかかり」は、全人類が、すべての人がみな罪びとであるということ、そしてその全人類の罪のために、すべての人の罪をゆるすために、主イエス・キリストは十字架におつきになったということですが、「わたしたちのために」とは、その主イエス・キリストを救い主として受け入れ、信じているわたしたちのために、主は救いの完成の時まで共におられ、導いてくださるという意味になります。

 いずれにしても、重要なポイントは、主イエス・キリストのご生涯、その救いのみわざは、すべてがわたしたち人間の救いのためであったということです。主イエスは、ご自分の喜びとか誉れを全くお求めにはなりませんでした。徹底して、他者のために、神に敵対していたわたしたち罪びとたちのために生きられ、、そして死なれ、復活なさいました。終わりの日に救いが完成され、わたしたちが主キリストと同じ姿に変えられる時まで、主は天におられて、わたしたちのために生きられ、働かれます。

 天に昇られた主イエスがわたしたちのために執り成してくださるということには特別な意味が含まれています。福音書によれば、主イエスが地上におられた間、それは30年少しの期間であったと考えられていますが、その期間に主イエスはガリラヤ地方のナザレの町で家族や地域の人たちと一緒に過ごされ、30歳になられてからナザレを出て、弟子たちをお集めになり、ガリラヤ湖周辺の町々村々で神の国の福音を宣教され、3年ほど後にエルサレムで十字架につけられました。その間、主イエスと交わり、主イエスの教えと導きとを受けることがゆるされた人々は、パレスチナ地域のごく限られて人々だけでした。もちろん、主イエスはそのご生涯の最初から全人類の罪の救いのために、わたしたちすべての人たちの救いの完成のために働いておられたのですが、そのことはまだいわば隠されていました。

 けれども、主イエスが復活され、天に昇られ、父なる神の右の座におつきになってからは、すべての人と、永遠に共におられる普遍的な方となられたのです。天におられる主イエスは、時を超え、場所を超え、すべての違いや壁を越えて、今や聖霊なる神として、全世界に、すべての人と共におられ、すべての人のために執り成し、働いておられるのです。主イエス・キリストはきょうこの時にも、聖霊においてわたしたちの礼拝に現臨しておられます。

 ヨハネによる福音書14~16章に書かれている、主イエスのいわゆる「告別説教」の中で、繰り返して主は弟子たちに語っておられます。「わたしは間もなくあなたがたの前からいなくなる。しかし、決してあなたがたを見捨てて、孤児のようにするのではない。わたしは天からあなたがたに聖霊を送る。この聖霊はあなたがたと永遠に共にいて、あなたがたにわたしの言葉とわたしのわざを証しするであろう。そして、あなたがたに最後の勝利を約束してくださるであろう」と。主イエスはまた、マタイによる福音書28章18~20節でこのように言われました。「わたした天と地の一切の権威を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子としなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたすべてことを守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と。

 次に、「執り成してくださる」という告白について学びましょう。執り成すという言葉は、今日日常会話の中ではほとんど用いられませんが、聖書では、旧約聖書と新約聖書で、「執り成す」「執り成し」という動詞と名詞で10回あまり用いられています。教会でも執り成しの祈りをするという言い方でしばしば使います。執り成すとは、仲裁をする、仲立ちをする、両者の間を取りもつという、両者の関係を回復させたり、より良い関係へと導くことを言います。わたしたち信仰者が、他者のための執り成しの祈りをするということは、その人が神との関係を回復し、あるいはより深くするように神が働いてくださるようにと祈り、神がその人にとって恵み深くあられ、その人のためにみ心に適ったみわざをなしてくださるようにと祈ることです。主イエス・キリストによって罪ゆるされ、神との関係を回復され、神の恵みをいただいている信仰者は、他者のための執り成しの祈りをし、祭司としての務めを果たすことが求められています。主イエス・キリストが徹底して他者のために、わたしたちのために生き、死なれたように、わたしたちもまた他者のために生きることへと招かれているからです。

 信仰告白の中では、主イエス・キリストがわたしたち信仰者のために執り成してくださると言われていますので、主キリストが父なる神とわたしたちとの間に立ってくださり、神とわたしとの関係を修復し、改善してくださる。それによって、神がわたしのために最も良き道を備え、わたしのために最もふさわしいみわざをなしてくださるようにと、常に祈っておられる、導いておられるということを告白しています。

 このような主イエスの執り成しの務めとお働きについて、ヘブライ人への手紙7章24~25節にはこのように書かれています。【24~25節】(409ページ)。主イエスは動物の犠牲を神殿にささげる祭司ではなく、神のみ子としてのご自身の尊い命を十字架におささげになったまことの大祭司として、また

復活して永遠に生きておられる大祭司として、わたしたちを罪と死と滅びから救い、わたしたちの救いの完成のために絶えず執り成しておられます。わたしたちはこの主イエス・キリストの執り成しによって、神との豊かな交わりに招き入れられているのです。神の国での永遠の命を約束されているのです。

 ローマの信徒への手紙8章26節以下には、聖霊なる神と主イエス・キリストの執り成しについて書かれています。聖霊なる神の執り成しについては、【26~28節】(285ページ)。天におられる父なる神とその右に座しておられる主イエス・キリストから遣わされる聖霊なる神は、父なる神とみ子主イエス・キリストの救いのご計画を完成へと導くために、弱く、くずおれやすいわたしたちのために執り成してくださり、わたしたちをみ子のお姿に似たものにしてくださると、続けて29節以下に書かれています。

 さらに、31節以下では、父なる神の偉大なる愛の力と、み子主イエス・キリストの執り成しのことが書かれています。【31~33節】。ご自身のみ子をさえも惜しまれず死に渡された神の、わたしたち罪びとに対する大きな愛は、わたしたちを罪から解放し、すべての束縛からも解放し、もはや何ものもわたしたちを支配することはない、この大きな神の愛からわたしたちを引き離すことはできないと、この手紙の著者であるパウロは勝利の歌を歌っています。

 また、【34~35節】。26節の聖霊なる神の執り成しととも0に、ここでは主イエス・キリストの執り成しが語られています。わたしたちすべての罪びとのために十字架で死んでくださり、それによってわたしたちを罪から救い出してくださった主イエス・キリストは、復活され、天に昇られ、父なる神の右に座しておられます。罪と死とに勝利され、父なる神から一切の権威を授けられました。その主イエス・キリストがわたしたちに信仰を与え、わたしの信仰の歩みを導かれ、終わりの日にわたしの信仰を完成させてくださるまで、わたしたちのために執り成してくださるのです。

 主イエスはその誕生の時から十字架の死に至るまで、地上の歩みのすべてが、ご自身のためではなく、徹底して他者のため、わたしたち罪びとたちのためでありましたが、天に昇られてからも、終末の救いの完成の時まで、徹底して、わたしたちのために生きておられるのです。主イエス・キリストはわたしたちの礼拝に現臨してくださり、わたしたちひとり一人の信仰の歩みに伴ってくださり、わたしの幸いな時も、災いの時も、そしてわたしの死の時も、死ののちにも、わたしと共にいて、わたしのために執り成してくださるのです。

(執り成しの祈り)

○天の父なる神よ、わたしたちのたどたどしい信仰の歩みをあなたがみ子主イエス・キリストと聖霊によって絶えず守り、導いてくださいますことを、心から感謝いたします。どうか、わたしたちが心を挙げて、天に備えられている勝利の冠を見上げながら、たゆむことなく、信仰の道を進みゆくことができますように。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

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