10月30日説教「神に選ばれた信仰者」

2022年10月30日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:申命記7章6~11節

    コリントの信徒への手紙一1章26~31節

説教題:「神に選ばれた信仰者」

  『日本キリスト教会信仰の告白』をテキストにして続けて学んできました。きょうから新しい段落に入ります。『信仰告白』の1段落目は、「わたしたちが主と崇める神のひとり子イエス・キリストは」から始まり、「救いの完成される日までわたしたちのために執り成してくださいます」までは、以前の文語文では一続きの文章でした。口語文になってから二つの文章に分けられましたが、文章の主語はいずれも主イエス・キリストであることは変わりません。主イエス・キリストが最初の段落全体のすべての文章の主語です。ここでは、主イエス・キリストとはどのような方であるのか、またその救いのみわざがわたしたちとどうかかわるのかということが告白されていました。

 きょうからは、次の段落に入ります。「神に選ばれてこの救いの御業を信じる人はみな、キリストにあって義と認められ、功績なしに罪を赦され、神の子とされます」。ここでは、わたしたちがどのようにして信仰者とされるのか、またどのようにして罪から救われるのかが告白されています。きょうはその最初の部分、「神に選ばれて」という箇所を、聖書のみ言葉から学んでいきます。

 まず、この個所を1890年(明治23年)に制定された旧『日本基督教会信仰告白』と比較してみましょう。旧『信仰告白』ではこうなっていました。「凡そ信仰に由りて、之と一体となれるものは赦されて義とせらる」。今の信仰告白の3分の1ほどの長さです。新たに付加された言葉をいくつか拾い上げてみると、冒頭の「神に選ばれて」、それから「功績なしに」、「神の子とされます」などが追加されていることが分かります。これらの追加部分は、新しい『日本キリスト教会信仰の告白』の特徴になっています。

 日本キリスト教会は1951年に日本基督教団を離脱し、第3回大会の1953年10月に現在の『信仰告白』を制定しました。その際に、わたしたちの先輩たちが志したことは、戦時中に旧日本キリスト教会が正しい信仰告白をすることができず、国家に迎合し、アジアや世界に侵略していく戦争に反対できず、神の民としての時代の見張り役を務めることができなかったという教会の過ちを反省して、宗教改革者カルヴァンの流れをくむ改革教会の信仰と神学を取り戻さなければならないとの強い決断によって、この信仰告白を制定したのでした。

 その強い主張と特徴が、『信仰告白』の最初の文言の「わたしたちが主とあがめる神のひとり子イエス・キリスト」という告白に言い表されているということを、すでにわたしたちは学びました。この「主告白」は、かつて戦時中の教会が見失っていた告白であった、主イエス・キリスト以外のだれをも、いかなるものをも主としない。天皇であれ、国家であれ、軍隊であれ、あるいは国家総動員とか八紘一宇とかのスローガンであれ、この世の何ものをも主とはしない。ただおひとり、わたしたちの罪をゆるすために十字架で死なれた主イエス・キリストだけがわたしたちが信じ、従うべき唯一の主である。この「主告白」をいつの時代にも貫き通すことが、新しく歩みを始めた日本キリスト教会の大きな課題である。先輩たちはそのように考え、『信仰告白』の冒頭に「主告白」を置いたのです。

 それとともに、「神に選ばれて」「功績なしに」「神の子とされる」という新しい『信仰告白』で追加された文言も、同じような意図から、日本キリスト教会の信仰と神学の特徴をはっきりと言い表し、今の時代の中で、時代の中に埋もれてしまうのではなく、主キリストの証し人として、世の光・地の塩として生きるべきことを告白しています。

 さて、神の選びの教理は、特に宗教改革者カルヴァンが強調した教えであり、改革教会の大きな特徴でもあります。カルヴァンは著書『キリスト教綱要』の中で、神の永遠の選びの教理について詳しく述べています。彼が選びの教理を強調するのには、主に二つの理由、目的がありました。一つは、わたしたちの救いは神から一方的に差し出された神の恵み、神の憐れみという泉から湧き出たものであるということを明確にとらえるためであるということ。二つには、わたしたちの救いは、神の永遠のご計画の中に定められており、それゆえに確かであり、神と主キリストによって守られているという、わたしの救いの確かさを明確にするためであるということです。今日わたしたちが選びの教理について考える際には、この二つの中心的な目的からそれないように注意することが重要です。と言うのは、選びの教理はカルヴァン以前にも以後にも、さまざまに議論され、多くの間違った教理を生み出すことになったからです。

 カルヴァンの選びの教理はいわゆる「二重予定説」と言われます。「神は永遠の選びによって、ある者を救いに予定し、ある者を滅びに予定された」というのが二重予定説です。けれども、のちの一部の教会はこの教えを神の選びの恵みをせばめたり、神の裁きを強調するという誤った教えに導き、本来信仰者に選ばれた喜びと確信とを与える目的の教理が、不安や恐れを与える教えに変えられたという歴史がありますので、わたしたちは慎重にこの教理を扱わなければなりません。カルヴァンの予定説、選びの教理は、先に挙げた二つの中心的な目的、神の選びと救いが一方的な神の恵みと憐みによるものであるということと、神の選びと救いが永遠なる神のご計画の中にあるのであり、それは確かであるということ、この二つの中心的な目的から外れないようにすることが重要です。

 では、神の選びについて教えている聖書を読んでみましょう。最初は、ローマの信徒への手紙9章11~13節です。【11~13節】(286ページ)。神は人間が生まれるより前に、何かをなすより前に、すでにある人を選ばれ、その人を愛されます。神の選びは選ばれる人の人間的な何かによって決定されるのではなく、全く神の側の自由な、恵みの選びによることなのです。16節に、「従って、これは、人の意志や努力ではなく、神の憐れみによるのです」と書かれれているとおりです。カルヴァンの「二重予定説」と言われる教理も、このような神の永遠で、自由な恵みの選びと、神の大きな憐れみを強調しているのです。

 また、使徒パウロは、キリスト教会の迫害者であった彼が、神に選ばれて主キリストの福音を宣べ伝える使徒とされたのは、全く神の恵みによることであり、神のみ心によるのであると、ガラテヤの信徒への手紙1章15節で語っています。【15~16節】(343ページ)。神はパウロが生まれるよりも前に、彼を選ばれ、彼を主キリストの福音の宣教者としてお立てになっておられたのです。

 では次に、神の選びの特徴について申命記7章のみ言葉から学んでいきましょう。【7章6~8節】(292ページ)。ここには、神がイスラエルの民を選ばれ、彼らをエジプトの奴隷の家から救い出された、その選びの特徴がいくつか語られています。6節には、「あなたの神、主は地の表にいるすべての民の中からあなたを選び」と書かれています。神の愛と救いのみわざは、神の選びにその基礎と出発点を持っていることが分かります。神は全世界のすべての国民の中から、ただ一つの民、イスラエルだけをお選びになりました。神はご自身が選ばれた民イスラエルを用いて、この民を通して、救いのみわざをなさるのです。極端な言い方をすれば、神の選びがなければ、神の救いのみわざはだれにも分からないということです。神の救いのみわざは、もちろん天地創造の初めから全地において、全被造物を通して絶えず行われているのですが、もし神に選ばれた者がいなければ、だれもその救いのみわざに気づかず、それを信じることもできず、その証人となることもできないということになります。神に選ばれた民、選ばれた人だけが、神の救いのみわざを悟り、信じ、またそれを全世界に向けて証しすることができます。選ばれた信仰者は、いまだ選ばれていない人々に対して、神の救いのみわざを証しする人とされるのです。

 6節の前半には、「あなたは、あなたの神、主の聖なる民である」と書かれています。聖とは、この世から選び分かたれ、神にささげられたものとされたという意味です。神に選ばれた民イスラエルは、神のものであり、神の所有であり、神のご支配と配慮のもとに置かれます。したがって、イスラエルの民は神の民、神の宝の民であり、他の何ものからも自由にされた、自由の民です。

 神の選びは、神の愛によることが7、8節で語られています。神の愛が選びの愛であることがここでは強調されています。だれをも平等に愛する普遍的な愛というよりは、もちろんそうでもあるのですが、だれも神の愛から漏れてはいないのですが、それ以上に、神の愛は選ばれた一つの民、ひとりの人に集中して注がれる、選びの愛です。神は愛によって選び、選ばれた者に愛を集中して注ぎます。

 さらに重要なことは、その神の愛の特質です。神の愛は、すべての民の中で最も貧弱であり、小さな民であったイスラエルに注がれたと7節に書かれています。神の愛は、わたしたち人間の愛の基準とは全く違っています。わたしたちの愛は、この世的な価値観から生まれ、またそれに左右されます。人間の愛は愛すべきものを愛します。愛すべき価値が消えれば、愛も消えます。人間の愛はすべて罪の中にあるからです。

 しかし、神の愛は、愛に値しいないものを愛します。神の選びは、選ばれるに値しない者を選びます。それは、神に選ばれ、神に愛される対象には全く左右されない、ただ純粋に神の恵みと憐みによる、神の自由な意思による選びであり、愛なのです。

 ここで、新約聖書で選びについて語っているコリントの信徒への手紙一1章26節以下を読んでみましょう。【26~28節】(300ページ)。ここでは、神の不思議な選びの目的が語られています。それは、人間が誇りとしている知恵や力を打ち砕くためだと言われています。さらに、29節以下ではこう語られています。【29~31節】。これこそが、神の不思議な選び、自由な、恵みの選びの最終目的なのです。神に選ばれた人は、そのことを誇ることはだれにもできません。ただ、神の恵みの選びを感謝し、神の栄光をほめたたえるのです。

 もう一度、申命記7章に戻りましょう。ここで、神の選びの愛のもう一つの特徴は、神の愛はイスラエルを奴隷の家エジプトから救い出す神の救いのみ力として働くいうことです。神の選びの愛は、当時世界最強の国であったエジプトとその王ファラオの支配から、奴隷の民イスラエルを数い出しました。神の選びの愛は救いの力として働きます。神の選びの愛は、主イエス・キリストによる罪のゆるしの力として、わたしたちに働きます。

 神の選びのさらなる特徴は、神の選びの愛は神の契約に基礎づけられているということです。8節に、「あなたがたの先祖に誓われた誓いを守られたゆえに」と書かれています。神の選びの愛は、一時的な感情ではありませんし、あるいは偶然に思いついた愛ではありません。それは永遠なる神の契約に基づいています。神は族長アブラハムと契約を結ばれました。その子イサク、その子ヤコブと契約を更新されました。そして、ヤコブの12人の子どもたち、イスラエルの民へと契約は受け継がれ、ダビデ王との契約で更新され、ついにはダビデの子孫から出たナザレのイエスをお選びになり、この主イエス・キリストによって、新しい神の民である教会と新しい契約を結ばれたのです。神の選びの愛は、永遠なる神との契約に基づいています。時代が変わり、世界が代わっても、神の選びの愛は変わることはありません。ここにこそ、選ばれる人間の側の条件には左右されない、ただ神の一方的な恵みと憐みによる選びと救いがあり、またそれゆえにこそ、わたしたちの選びと救いの確かさがあるのです。

(執り成しの祈り)

○天の父なる神よ、あなたの永遠なる救いのご計画の中に、わたしたち一人一人をも招き入れてくださり、この滅びにしか値しない罪多き者をも、主キリストの救いにあずからせてくださいますことを信じ、心からの感謝をささげ、み名のご栄光をほめたたえます。どうか、全世界において、あなたのご栄光が現わされますように。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA