11月13日説教「新しい天と新しい地の完成を望み見て」

2022年11月13日(日) 秋田教会主日礼拝(逝去者記念礼拝)説教

(駒井利則牧師)

聖 書:イザヤ書65章17~25節

    ヨハネの黙示録21章1~4節

説教題:「新しい天と新しい地の完成を望み見て」

 教会が逝去者記念礼拝をささげることの意味について、まず考えてみましょう。教会では、亡くなった人を神や仏、あるいは生きている人間とは違った何か特別な存在者として崇めたり、礼拝の対象とすることは決してありません。また、亡くなった人の生前の業績をたたえるためとか、亡くなった人の霊を慰めたりするために礼拝するのでもありません。教会の逝去者記念礼拝では、わたしたち人間の生と死、命と死後のすべてをみ手に治め、支配しておられる全能の父なる神、唯一の永遠なる神を礼拝します。そして、神の独り子なる主イエス・キリストによってわたしたち人間のすべての罪がゆるされ、わたしたちが神の子どもたちとされ、来るべきみ国での永遠の命を約束されているという福音を聞き、信じるために、わたしたちはこの逝去者記念礼拝に招かれています。

 もう一つの意味は、天にある勝利の教会と地にある戦いの教会との交わり、一致を覚えるということです。古い時代から、信仰をもって地上の歩みを終えて天に召された信仰者たちの教会を勝利の教会と呼び、今なお地上にあって、罪の誘惑と戦いながら信仰の歩みを続けている教会を戦いの教会、戦闘の教会と呼びました。天にある勝利の教会と、地にある戦いの教会は、二つの別々の教会ではありません。共に、一人の父なる神を信じ、礼拝し、共に一人の救い主なる主イエス・キリストを信じている、一つの群れ、一つの神の教会です。

 ヘブライ人への手紙12章1節では、天にある勝利の教会を証人たちの群れと呼んでいます。「こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競争を忍耐強く走り抜こうではありませんか」と、そこでは勧められています。信仰によって地上の歩みを全うした逝去者たちは、すでに勝利の冠を神から与えられています。天にある教会には、罪と死と滅びとに勝利された主イエス・キリストがおられます。逝去者たちはその主キリストと固く結ばれています。

 その天にある勝利の教会と、今も信仰の戦いを続けている地上のわたしたちの教会とが、一つの礼拝の群れとして、一つの神の民として、今共に一人の父なる神を礼拝しているのです。そして、ヘブライ人への手紙が教えているように、天にある勝利の教会は、わたしたち地にある戦いの教会が、必ずや勝利へと導かれることを証している証人たちなのです。これが、逝去者記念礼拝をささげるもう一つの意味です。

 きょうは、ご一緒にヨハネの黙示録21章のみ言葉を聞きましょう。ヨハネの黙示録は新約聖書の最後の書であり、また聖書全体でも最後の書です。聖書の最初の書である創世記と対になっています。聖書が創世記で始まり、ヨハネの黙示録で閉じられていることには大きな意味があります。創世記には、神が初めに天地万物と人間を創造されたこと、そしてアブラハム・ヤコブ・イサクの神として、救いのみわざを具体的に始められたことが書かれています。ヨハネの黙示録には、この世界の終わりの時に、神がご自身のみ国を完成されることが書かれています。

ここから教えられるように、神は世界と人間の命と存在、またその歩み、歴史をお始めになり、そしてそれを完成されます。神はわたしたち一人一人の命と生涯の歩みを始められ、またそれを完成させてくださいます。わたしたちがきょう覚えている逝去者の一人一人についてもそのことが言えます。その人の生涯が、長寿を全うしたと思える生涯であったとしても、あるいは道半ばで突然に閉じられた生涯であったとしても、それをお始めになり、またそれを完成されるのは、主なる神です。わたしたちはそのことを信じるべきであり、また信じることができるのです。

では、ヨハネの黙示録21章1~2節を読みましょう。【1~2節】。1節と2節に「わたしは見た」という言葉が繰り返されています。次の3節には、「見よ」という神の命令が書かれています。ヨハネは神から与えられた信仰の目によって、世の終わりの時、終末の時、神の国が完成される時のことを見ています。神はヨハネの目を、彼が生きていた時代の現実をはるかに超えて、神が終わりの時に完成される神の国の出来事へと向けさせているのです。

ヨハネが生きていた時代、それはおそらく紀元1世紀の終わりころであったと推測されていますが、紀元30年代に誕生したキリスト教会はローマ帝国からの激しい迫害を受けていました。紀元81年にローマ皇帝に即位したドミティアヌスは自らを生ける神と称し、全国に自分の像を立て、その像の前で礼拝することを強要しました。いわゆる、皇帝礼拝です。キリスト教徒はこれを拒否したために、多くのキリスト者が捕らえられ、殺されました。この手紙の著者であるヨハネもその一人として、エーゲ海にあるパトモス島に幽閉されていました。教会は多くの殉教の血を流し、苦難と試練の中にありました。強大なローマ帝国の前では、誕生して間もない教会は全く無力であるかのように見えました。

そのような教会の現実の中で、しかしヨハネはその困難な現実に押しつぶされてしまったり、絶望したりするのではなく、彼の目を、神が完成される終末の時、み国の完成の時へと、向けることによって、なおも勇気と希望とをもって最後の勝利と完成を信じて、迫害を耐え忍び、信仰を貫き通すようにと、諸教会を励ましているのです。それがヨハネの黙示録が書かれた目的であったのです。

この個所でのもう一つの特徴は、「新しい」という言葉がたびたび用いられていることです。「新しい天と新しい地」(1節)、「新しいエルサレム」(2節)、さらに、5節には、「見よ、わたしは万物を新しくする」と言われる神のみ言葉があります。イザヤ書65章17節には、「見よ、わたしは新しい天と新しい地を創造する」という神の預言が語られています。

聖書で「新しい」という言葉が用いられる時、そこには特別な内容が含まれています。この言葉は単に「古い」に対する「新しい」を意味するのではありません。聖書の「新しい」という言葉には「永遠の」という意味があります。また、この世界には属していない、別の世界に、まさに新しい世界に属しているものという意味があります。したがって、この世界では永遠に新しいと言われます。旧約聖書が書かれた数千年前にも、二千年前の主イエスの時代にも、そして今も、それぞれの時代の人々にとって、「新しい」という聖書のみ言葉は常に新しいという意味を持っています。

聖書の「新しい」は、この世界にある新しさではありません。この世界にある新しさは時が過ぎるとともに古くなっていくほかにありません。この世界とは別の世界、神の国に属する新しさ、永遠なる神に根拠を持つ新しさのことです。神は常に新たに創造し、命を与えてくださるゆえに、それはいつまでも新しいものであり続けます。

そして、神から与えられる新しさ、神が創造される新しさの前では、すべてのものは古くなり、滅びていくしかありません。1節に「最初の天と最初の地とは去って行き、もはや海もなくなった」と書かれており、また20章11節でも「天も地も、のみ前から逃げて行き、行方が分からなくなった」とあるように、終わりの時、終末の時に、神が新しい天地を創造される時には、それまであったもの、わたしたちが今見ている世界とその中にあるすべてのものは、消え去り、滅びるのです。

では、神が新たに創造される新しい天と新しい地とは、どのようなものなのでしょうか。2節ではそれが結婚を比喩にして語られています。ここでは、「聖なる都、新しいエルサレム」である教会と、夫である主キリストとの結婚のことが語られています。

聖書では、結婚式は神の祝福と喜びが最も満ち溢れる時として描かれています。主イエスは福音書の中で、終末の時の神と神の民との盛大な祝宴を結婚式にたとえて話されました。ヨハネの黙示録では、もはやたとえではなく、終末の時に主イエス・キリストと教会が結婚することによって、神と人間との愛の交わりがここで完成するのです。

3節、4節には、新しい天と地が完成される時の神のみ言葉が語られています。【3~4節】。天にある玉座から神ご自身がお語りになります。「神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となる」。これが、終末の時に完成される新しい天と地、神の国の中心的な内容です。神と人間との間をさえぎるものが何もなくなる。神と人間との交わりを妨げるものがすべて消え去る。神から人間を引き離そうとする悪しきサタンの力、罪、死がすべて滅ぼされ、もはや何ものも神から人間を引き離すことがなくなる。神と人間との完全で永遠なる交わり、永遠なる共存。これが終わりの日に完成される神の国なのです。これこそが、わたしたちの最高の幸いであり、最大の喜びです。わたしたちは神の祝福に満たされます。

神は最初の人間アダムとエヴァを創造された時から、人間と共にあろうとされました。エデン(喜び)の園でのアダムとエヴァの生活は、神と共に歩む生活でした。しかし、彼らが神の戒めを破って罪を犯してから、神との交わりが破壊され、人間は神の裁きを受けて死すべき者となりました。けれども、神は罪の人間をお見捨てにはならず、み子主イエス・キリストの十字架の死によって、人間の罪を贖い、ゆるし、再び信仰によって神との交わりを回復してくださいました。神が主イエス・キリストによって成就してくださった救いのみわざが、この終わりの時に、完成し、神と人間との永遠の共存、永遠の交わりが完成するのです。

それゆえに、4節では、人間の目から涙がぬぐい取られ、もはや死はなく、悲しみも嘆きも労苦もないと言われているのです。神から与えられる豊かな祝福と幸い、喜びに満たされるからです。インマヌエル、「神我らと共にいます」という神のみ言葉が完全に成就されるからです。

わたしたちがきょうの礼拝で覚えている、この教会の信仰の先輩たちは、初代教会の迫害の時代に預言者ヨハネが見た終わりの日の幻を、それぞれの生きた時代の中で、同じように見てきました。そして今は、罪と死とに勝利され天に昇られた主イエス・キリストと共に、勝利の教会にあって、終わりの日の完成の時を待ち望んでいます。

わたしたちもまた、今のこの時代の中で、さまざまな罪の誘惑や悪しき力と信仰による戦いを続けながら、預言者ヨハネと共に、またわたしたちの教会の天にある証人たちと共に、来るべき終わりの日の、神が創造してくださる新しい天と新しい地との完成を望み見ることをゆるされているのです。

(執り成しの祈り)

○天の父なる神よ、あなたがこの教会を130年の長い年月にわたって守り、導いてくださいましたことを覚え、心からの感謝をささげます。この教会で信仰生活を送り、来るべきみ国を待ち望みつつ天に召された多くの信仰の証人たちに囲まれながら、今信仰の戦いと続けているわたしたちを、どうぞ顧みてください。また、ご遺族の一人一人に天からの慰めで満たしてください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

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