11月20日説教「安心して行きなさい」

2022年11月20日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:詩編107編1~9節

    ルカによる福音書8章40~56節

説教題:「安心して行きなさい」

 ルカによる福音書8章40~56節には、主イエスによる二つの奇跡が語られています。一つは、40~42節と49~56節にまたがっている、会堂長ヤイロの12歳になる娘を主イエスが死から生き返らせたという奇跡。もう一つは、43~48節の、12年間出血が止まらなかった、長血を患っていた婦人を主イエスがいやされたという奇跡です。長血を患っていた婦人の奇跡がヤイロの娘の奇跡の記述に前後を挟まれたような構造になっています。これは、時間的な経過からこのような構造になっているのですが、この二つの奇跡が密接な関連を持っていることにも関係しています。つまり、主イエスがヤイロの家に向かっている途中に、長血を患っていた婦人と出会い、彼女の病をいやすという奇跡のために時間を取っている間に、ヤイロの娘が死んだとの知らせが入ったのですが、主イエスはその知らせを聞いたにもかかわらず、ヤイロの家に行かれ、彼の娘を死から生き返らせるという奇跡を行われました。ここでは、病をいやされる主イエスの権能と、それ以上に、死に対してさえも勝利される、より偉大な主イエスの権能が語られているのです。

 主イエスはこれまでにも何度も悪霊を追い出し、重い病をいやし、全能の父なる神の権能と大いなる力とを持っておられることを証しされました。また、神の国が到来し、神の恵みのご支配によって悪しき霊やサタンがすでに敗北を告げられていることを証しされましたが、ここではさらに人間の死をも支配しておられ、死から命を創造される神の権能を持っておられることを証しておられるのです。

 この二つの奇跡には共通点が多くあります。一つは、主イエスの奇跡のみわざを体験した人がいずれも女性であるということ。二つには、ヤイロの娘の年齢が12歳であることと長血を患っていた婦人の病気の期間が12年間であるということ。さらに重要な共通点は、いずれの奇跡においても、「信じること、信仰」と「救い」を主イエスは強調しておられるということです。48節と50節を読んでみましょう。【48節】。【50節】。わたしたちはこの二つの奇跡をとおして、信じて救われることへと招かれているのです。

 では、きょうは43~48節の、長血を患っていた婦人のいやしの奇跡について学んでいくことにします。【43節】。43節冒頭の「ときに」とは、前からの時間的なつながりを言い表しています。この時、主イエスは会堂長ヤイロという人の12歳になるひとり娘が重病で死にそうなので家に来てほしいとの依頼を受け、彼の家に向かおうとしていました。しかし、その途中で群衆がまわりに押し寄せてきて、前に進めないような状況だったと40~42節に書かれています。主イエスは道を急いでいました。早く行かなければ、その娘さんの息が絶えて、主イエスに祈っていただき、病気をいやしていただくことができなくなるかもしれません。

 そのような時に、主イエスは雑踏の中で一人の婦人と出会われ、彼女の重い病気をいやされ、彼女を救われるという奇跡が起こされたということを、聖書は語るのです。この奇跡は、いわば道の途中で起こったものでした。けれども、主イエスにとっては、ある目的地に向かう途中であっても、すべての道、すべての時が、福音宣教の時であり、救いのみわざを行う時であるということを、わたしたちはここでも気づかされるのです。そこに、いやしを必要としている人が一人でもいるならば、そこに、救われるべき人が一人でもいるならば、主イエスはその人のために足を止めてくださり、その人と出会ってくださり、その人のための救いのみわざを行ってくださいます。

 この婦人の病気は12年間も出血が止まらず、その病気の治療のために全財産を使い果たすほどの重い病気であったことが書かれています。12年間と言えば、彼女が成人した女性になって、その青春時代のすべてをこの病気に苦しめられ、この病気と戦ってきたことが分かります。肉体的にも精神的にも、また経済的にも、それはどんなにか辛く苦しい戦いであったことでしょうか。それにもかかわらず、すべての手段が無駄に終わってしまうほかになく、全く希望を失ってしまうほかにないと思われました。

 それだけでなく、旧約聖書レビ記15章によれば、血の流出がある女性は、その期間は宗教的に汚れているとされ、公の場に出ることも他の人と交わることも禁じられていました。イスラエルでは血は命そのものであり、神聖なるものと考えられていて、それに人が触れることは神聖さを汚すことと考えられ、このような規定が定められたと推測されています。そのために、彼女はイスラエル宗教共同体の中には入って行けず、家族や隣人と自由に交わることもできないという、孤独と不安の時を過ごさなければなりませんでした。それが12年間も続いていたのです。肉体的な苦痛と精神的な苦痛、それに加え宗教的な苦痛、彼女の苦しみ、痛み、孤独、恐れ、絶望。だれが彼女のこの12年間の苦悩の人生に終わりを告げることができるのでしょうか。

 しかしながら、そのような彼女にも主イエスと出会うという、この大きな機会は失われてはいないということを、わたしたちはここで知らされるのです。否、むしろ、そのような多くの困難と重荷と痛みを抱えていた彼女にこそ、神がお遣わしになった救い主なる主イエスと出会う機会が与えられたのです。彼女はその大きな苦悩と試練の中でこそ、主イエスと出会うという、他の何ものにも代えがたい恵みの時が備えられたのです。

 【44節】。ここには、当時の律法の定めによって宗教的に汚れているとされていたこの婦人の大胆で勇気ある、また必死の行動と、しかし控えめで、恐れを覚え、自分を隠そうとする消極的な行動と、そしてまた、それらのすべてを超えている主イエスに対するあつい信仰と大きな期待とが、入り混じっているように感じられます。三つを区別することはできませんが、分かりやすくするために、分けてみていきましょう。

 律法の規定によれば、彼女は公の場に出ることはゆるされてはおらず、人と接触することも避けなければなりませんでした。また、一般的に言っても、女性から男性の方へ近づいて、その人に触るということも、当時の社会ではすべきではないと考えられていました。しかし、彼女は律法の定めや当時の慣習という壁を突き破って群衆をかき分け、主イエスに近づいて行っています。

 彼女にはまた恐れやためらいもありました。主イエスの正面から向かって行って、主イエスに自分の顔を見せ、直接言葉で主イエスにいやしをお願いする勇気はなかったように思われます。あるいはまた、宗教的に汚れている自分がだれかに触ればその人もまた汚れてしまうことに対する恐れもあったのかもしれません。彼女は気づかれないように主イエスの後ろから近づき、主イエスが着ている服の一部にでも触りたいと思いました。しかし、これでは主イエスとの真実の出会いは起こりません。彼女は何か魔術的な力を信じていたにすぎません。

 しかし、ここには彼女の主イエスに対する並々ならぬ信頼、期待、信仰があったことも確かです。彼女は主イエスのことを耳にし、この方がもしかしたら自分のこの重い病をいやしてくださる力を持っておられるかもしれないと思ったのでしょう。この方が、自分の12年間の苦しみから解放してくださることができるかもしれないと、彼女は最後の望みをかけて、主イエスのところへと行く決意をしました。その信仰が彼女に大胆で勇気ある行動をとらせていると言えるでしょう。そして、彼女を家から出させ、群衆をかき分け、主イエスに近づけさせたのです。その時、彼女の重い病気がいやされました。

 しかし、これで彼女の救いが完了したのではありません。主イエスは彼女との真実の出会いを求められます。【45~47節】。「わたしから力が出て行った」という主イエスのみ言葉は、非常にリアルで、興味深い表現です。主イエスのお体の中にみなぎっていた力が主イエスの着ていた服を通して、彼女の手と体全身へと移っていった。そして、彼女の病気がいやされたという事実が、何か目に映るような、現実的で、実感できるような表現のように思われます。主イエスはご自身の中にある力や恵み、そして命を、あたかも一人一人に移し入れるかのようにして、わたしたちに分かち与えてくださるのです。そして、ご自身が全く無になるまでに、その力を、その恵みを、その愛を、そしてその救いと命を、わたしたち一人一人に分かち与えてくださるのです。それが、主イエスの十字架のみわざでした。主イエスは、わたしたち罪びとのためにご自身の肉と血のすべてを注ぎ出すかのようにして、十字架でおささげくださったのです。この十字架の愛が、この婦人をいやし、救い、そしてまたわたしたちをも救うのです。

 主イエスからの力を受け取り、いやされた婦人は、もはや自分を隠しきれないことを悟りました。主イエスから与えられた神のいやしのみ力の大きさに、彼女は恐れを覚えて震え上がりました。そして、自分の身に起こったことを群衆に向かって語りだしました。これまでは、病気のために、人前に出たり、人と話をすることもできなかった彼女が、今は群衆の前に立ち、主イエスの救いのみわざを、主イエスの福音を証しする人へと変えられたのです。何と大きな変化でしょうか。

 48節で主エスはこう言われます。【48節】。この婦人は主イエスによって、長年苦しめられてきた重い病気をいやされただけではありません。彼女は主イエスと真実の出会いをして、その罪がゆるされ、救われたのです。福音書に書かれている主イエスのいやしのみわざは、単に肉体のいやしだけではなく、その人の全存在、その人の体と魂の全体、全人格の救いを含んでいます。主イエスとの真実の出会いを経験することによって、その人の罪が取り除かれ、神との交わりが回復されるからです。神の子どもたちとされ、神の国の民の一人とされるからです。

 そこで、主イエスは「安心して行きなさい」とお命じになります。信じる人には、主イエスのみ言葉を聞き、それに聞き従って生きる道、主イエスの憐みとゆるしの中で生きる道が備えられています。「安心して」とは「平安のうちに」という意味です。平安とは,ヘブライ語ではシャローム、ギリシャ語ではエイレーネーです。満ち足りている状態を意味する言葉だと言われます。主なる神がすべての必要なものをもって養い、生かしてくださる道。主なる神がわたしの行くべき道を備え、その道に常に神が伴ってくださる歩み。そこにこそ、わたしたちの平安、平和があります。わたしたちもまたこの道を、平安のうちに歩みましょう。

(執り成しの祈り)

○天の父なる神よ、わたしたちは多くのことで思い煩い、不安や恐れに襲われ、また多くの破れや欠けをもって、迷いながら歩む者です。神よ、どうかわたしたちを憐れんでください。わたしたちをまことの救いへとお招きください。あなたと共にある平安でわたしたちを満たしてください。

○天の神よ、この世界もまた深く病み、傷つき、苦悩しています。この世界を憐れんでください。あなたのみ心を行ってください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

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