12月4日説教「神の選びと召命」

2022年12月4日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:エレミヤ書1章1~10節

    ガラテヤの信徒への手紙1章11~17節

説教題:「神の選びと召命」

 日本キリスト教会は信仰告白を重んじる教会であり、信仰告白によって立つ教会であるということを、最も大きな特徴にしています。1951年5月に新日本キリスト教会が創立されてすぐに、信仰告白の制定に取りかかり、2年後の1953年10月の第3回大会で現在の『日本キリスト教会信仰の告白」』を制定しました。教会の礼拝の中で、会衆一同が共に声を合わせて告白するほか、洗礼式と聖餐式のある礼拝では必ず告白されます。また、大会、中会の会議の開会礼拝で、教会建設式や牧師就職式などでも告白されます。もちろん、わたしたちが洗礼を受けてキリスト者になり、この教会の教会員になるときにも、「あなたはこの信仰告白を誠実に受け入れますか」と問われます。わたしたちの教会は信仰告白によって一つにされている教会です。

 きょうは「神に選ばれてこの救いの御業を信じる人はみな」の冒頭の部分、「神に選ばれて」という告白について、前回に続いて学びます。キリスト教教理では「神の選び」というテーマになります。今回は、神の選びに加えて、それと結びついている「召命」ということについても、聖書のみ言葉から学んでいくことにします。

 神の選びの教理が、宗教改革者カルヴァンの流れを汲む改革教会の神学と信仰の特徴の一つであることを前回もお話ししましたが、神の選びにおいては、神の主権的な自由や神の先行的な恵みが強調されます。わたしたち人間の側の行動や判断、決断、あるいは知恵とか知識とかのすべてに先立って、神の恵みの選びがあり、その神の側での一方的な、自由な選びこそが、わたしたちの信仰を生み出し、またわたしたちの信仰を支え、導いているというのが改革教会の選びの教理の大きな特徴です。

 このことをより具体的に理解するために、他の教派の教えと比較してみるのがよいでしょう。たとえば、バプテスト派と一般に呼ばれている教派では、本人の自覚的な信仰体験が重んじられます。神の主権や神の自由、神の恵みの選びよりも、人間の側の決断や応答が重視されます。そのために、自分がどのような劇的な回心の体験をしたかとか、どれほど困難な状況の中で洗礼を受ける決心をしたかなどが好んで語られます。またそのようなことが、その人の信仰を計るバロメーターにされたりします。本人の決断が決定的な意味を持ちますので、まだ自分で決断ができない小児には洗礼を授けることはできません。小児洗礼は否定されます。

 それに対して、カルヴァンやその流れを汲む改革教会は、旧約聖書時代のイスラエルの民から新約聖書の初代教会と中世の教会から受け継がれてきた伝統的な小児洗礼を重んじてきました。それは、人間の側の判断や決断に先立つ神の選びと契約を強調するからです。わたしたち人間は信仰の家庭に生まれるや否や、いや、生まれる以前から、神との契約の民の中に招き入れられており、またすべての人は神の永遠なる予定のうちに恵みによって選ばれているからです。わたしたちが洗礼を受けてキリスト者になるということは、その神の主権的自由と神の先行する恵みの選びを信じ、それを受け入れることにほかなりません。

 でも、そうなれば、神の主権的な自由が強調されて、人間の自由な意志が無視されるのではないかという反論が予想されるかもしれません。しかし、人間の自由意志とは何でしょうか。それは、神を信じるために働く自由意志ではなくて、神の戒めに背き、神に反逆し、神から遠ざかろうとする自由意志なのではないでしょうか。最初に創造されたアダムとエヴァがそうであったように。それは、自ら罪の奴隷になろうとする自由意志なのではないでしょうか。人間がだれもが、そのような意志しか持っていないのではないでしょうか。それは本当の自由意志なのでしょうか。いやそうではなく、それはむしろ奴隷意志なのではないかと、宗教改革者カルヴァンが言っているとおりです。

 神の主権的な自由と神の先行する恵みによる予定と選びを信じるときにこそ、わたしたち人間に本当の自由が与えられ、感謝と喜びとをもって神のお招きに応える自由な意志が与えられるのです。

 では、きょうの礼拝で朗読された二か所の聖書のみ言葉に目を向けてみましょう。エレミヤ書1章は預言者エレミヤの召命の箇所です。【4~5節】。次に、ガラテヤの信徒への手紙1章はパウロが復活の主イエスと出会い、異邦人の使徒として召されたときのことが記されています。【15~16節】。

 きょうのテーマと関連して、この両者に共通している点があることにすぐに気づきます。それは、聖書の他の多くの箇所でも見いだすことができる共通点ですが、エレミヤが預言者として神に選ばれ、立てられたことも、またパウロが異邦人の使徒として選ばれ、立てられたことも、神の永遠なる予定によることであり、神の先行する恵みの選びによることであるということです。エレミヤが将来どんな人物に成長するかがまだ全く分からない時に、まだ母の胎に造られる前から、神がエレミヤを選び、彼を万国の預言者となるべく定められたと書かれています。また、パウロの場合には、彼がまだ母の胎内にいるときから、彼がのちにキリスト教会の迫害者になるであろうことがあらかじめ分かっていたのにもかかわらず、神が主権的な自由と恵みによってパウロを選び、彼を異邦人の使徒となるべく定められたと書かれています。

ここでは、エレミヤの自由意志とか、エレミヤの決断とかについては全く語られてはいません。いやむしろ、エレミヤは彼の意志によって、6節で「わたしは若者にすぎませんから」と神の招きに抵抗しています。パウロの場合も、彼はキリスト教会の迫害者として神の永遠の選びに抵抗し続けていました。にもかかわらず、そのようなエレミヤやパウロの抵抗よりもはるかに強い神の主権的自由による、神の断固とした選びの意志によって、二人は共に、いわば神によって強引にねじ伏せられるようにして、信仰者とされ、神の特別の使命につく者とされたのでした。これが、聖書が語る神の選びであり、『日本キリスト教会信仰の告白』によって告白されている「神の選び」なのです。

 では、このような神の選びは、わたしたち信仰者として選ばれた者にとって、どのような意味を持つのでしょうか。三つの点にまとめてみましょう。

 第一点は、ここにこそ、わたしたちの選びの確かさがあるということです。永遠から永遠にいます神が、永遠なる予定と主権的自由の意志とによって、人間のすべてのわざに先行する恵みの選びによって、このわたしを選ばれ、わたしをこの教会へと招き、信仰の道へと導き入れてくださった。ここにこそ、わたしの選びとわたしの信仰の確かな保証があるのだということです。わたしの決断や選択は、時として誤ることがあります。時として変わることがあります。しかし、神の選びは永遠であり、確固として、不動であり、不変です。わたしの死のときにも、死ののちにも、変わることはありません。主なる神ご自身がわたしの選びを永遠に保証してくださるのであり、わたしの信仰の道を終わりまで導いてくださるのです。そして、わたしが地上の歩みを終えるときにも、わたしと共にいてくださり、「あなたが選んだ信仰の道は正しかった。わたしがあなたの信仰の道を完成させる」と言ってくださり、わたしを永遠なる神のみ国へと導き入れてくださるのです。

 第二点は、神によって選ばれた者を、神のみ前で謙遜な者にするということです。わたしの側には神の選ばれる理由となるべきものは一切ありません。ただ、神の一方的に与えられる恵みによって選ばれたからです。それゆえに、わたしは神のみ前で何ら誇るべきものを持ちません。ただ、神の恵みの選びに感謝するのみです。すべてはただ神の栄光のため、神の誉れのためであることを告白するのみです。神の選びはわたしたちの中にあるごう慢な思いと誇りや高ぶりを取り除き、あるいはそれとは反対の、卑屈な思いや、不安、恐れ、絶望のすべてをも取り除き、わたしたちに救われた者に対する真の平安を与えるのです。

 第三点は、神の選びは、選ばれた者に強い召命感を与えます。エレミヤが神に選ばれ、万国の預言者として立てられたように、パウロが神に選ばれ、異邦人の使徒として、主イエス・キリストの福音を全世界に宣べ伝える伝道者として立てられたように、神に選ばれた者は神からの特別な務めを授けられます。神の選びはただちに召命につながっていきます。神の選びと召命の結合が重要です。神は選んだ人を特別な務めへと召すのです。

その召命と務めの種類や内容は、必ずしもその人の能力とか意志とか、あるいは努力とかによって決められるのではなく、それもまた、お選びくださった神から与えられる賜物です。神は年若い預言者エレミヤに、「あなたはだれをも恐れるな。あなたが語るべき言葉はわたしが授けるから。わたしがいつもあなたと共にいて、必ずあなたを救うから」と7、8節で約束しておられます。エレミヤは神に選ばれ、万国の預言者として立てられたとき、その務めを担うことができるように、神から賜物と力とを同時に与えられたのです。神の選びと召命は固く結びついています。

 教会の迫害者であったパウロの場合はどうだったでしょうか。彼が迫害の息を弾ませながら、ダマスコの近くまで来たとき、突然天からの強い光に打たれて地に倒れ、復活の主イエスと出会いました。そのとき彼は「血肉に相談するようなことはせずに」と16節で言っています。自分自身をも含めて、自分の家族や友人、またエルサレムにいる先輩の使徒たちにも、全く相談しなかったと彼は言うのです。それらのすべては、やがて滅び朽ち果てるしかない血肉であり、永遠なる神の選び前では、なんら力を持たないからです。彼はただひたすら、神の恵みの選びに彼の全生涯をかけたのです。迫害者であった自分を選び、それまで迫害していたまさにその主イエス・キリストのために仕える使徒としてお立てくださった神の驚くべき恵みの選びに、彼の生涯のすべてをかけたのです。

 パウロはコリントの信徒への手紙一15章9~10節でこうも言っています。「わたしは神の教会を迫害したのですから、使徒と呼ばれる値打のない者です。神の恵みによって今日のわたしがあるのです。そして、わたしに与えられた神の恵みは無駄にならず、わたしは他のすべての使徒よりずっと多く働きました。しかし、働いたのは、実はわたしではなく、わたしと共にある神の恵みなのです」。神の恵みの選びによって主キリストの福音を宣べ伝える使徒として召されたパウロは、その務めを担うための恵みをも豊かに与えられました。

 神はわたしたちひとり一人をも恵みの選びによって主イエス・キリストを信じる信仰者としてくださいました。また、それぞれに賜物を与え、それぞれの務めに召していてくださいます。わたしたちはもはや自分自身のためだけに生きるのでありません。わたしのために死んでくださった主イエス・キリストと主キリストによって愛されている隣人のために生きる者とされているのです。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、あなたがとるに足りないこのわたしをお選びくださり、あなたのみ子主イエス・キリストの救いにあずからせてくださいました幸いと大きな恵みとを覚えて、心からの感謝をささげます。どうか、あなたから与えられたこの信仰の道を全うさせてください。あなたがいつも共にいてください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

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