12月18日説教「恐れるな。ただ信じなさい」

2022年12月18日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:詩編23編1~6節

    ルカによる福音書8章40~56節

説教題:「恐れるな、ただ信じなさい」

 ルカによる福音書8章40~56節には、時間の経過を追って、主イエスの二つの奇跡が並べて記述されています。初めに、会堂長ヤイロが主イエスのもとにやってきて、自分の一人娘が重病で死にそうなので、急いで家に来てくださいとお願いをします。主イエスが弟子たちとヤイロの家に向かっている途中で、12年間出血が止まらずに苦しんでいた婦人が群集の中に紛れて主イエスに触り、それによって出血が止まってたちまちに健康になり、今度はこの婦人が主イエスによって救われたことを群集に向かって証しをしたというのが、第一の奇跡です。

 ところが、この婦人のことで時間を費やしている間に、ヤイロの家に行くのが遅くなり、家に着く前に娘がなくなったとの知らせが、主イエスに届けられます。その人は娘がなくなってしまったので、もう主イエスに来ていただく必要がありませんと伝えますが、主イエスはヤイロに、「恐れることはない。ただ信じなさい。そうすれば娘は救われる」と言われ、彼の家に入られました。そして、その娘を生き返らせました。これが第二の奇跡です。

 この二つの奇跡は、時間が連続しているので二つが並んで記述されているというだけではなく、そこにはもっと深い連続性があり、その連続性には重要な意味が含まれています。時間の経過から見るならば、12年間出血が止まらなかった婦人のために主イエスが時間を費やし、そのことでヤイロの家に到着するのが遅くなり、主イエスの到着を待たずに彼の娘が息を引き取ったということであるならば、ヤイロにとっては何とも残念なことだったに違いありません。聖書にはそのことについては何も書かれていませんが、ヤイロの気持ちとしては、主イエスはなぜもっと急いでくださらなかったのか、途中で時間を取らずにまっすぐに家に向かっていれば、娘がまだ生きているうちに主イエスに祈っていただき、病気をいやしていただくことができたかもしれないのに、という思いがあったと推測できます。

 けれども、そのようにはなりませんでした。ヤイロの願いと期待は裏切られたことになるのでしょうか。ヤイロの家に向かう主イエスの歩みはここで終わってしまうのでしょうか。そうではありません。主イエスの歩みはなおも続けられます。ヤイロはもっと偉大なる主イエスの奇跡を見るのです。彼は主イエスが死にかけている彼の娘をいやしてくださる神の力をお持ちであると信じ、期待しています。彼はまた今目の前で、病気の婦人が主イエスによっていやされたという奇跡を見ました。しかし、彼が見るべき奇跡はそれだけにとどまりません。彼は主イエスと共にさらに先へと進むようにと招かれているのです。すでに息を引き取った彼の娘が、主イエスによって死から生き返るというさらに偉大なる奇跡を見るようにされるのです。そのために、ヤイロはしばらくの時の経過を待たなければなりません。

 これが、二つの奇跡が時間の経過とともに連続していることの隠された意味です。前回もそのことについて少しお話ししましたが、きょう改めて今一度そのことを確認しておきたいと思います。主イエスはわたしたちの願いや期待にはるかにまさった豊かな恵みをもって、わたしたちの祈りにお答えくださる救い主であるということをここで改めて教えられるのです。

わたしたちはヨハネ福音書11章のラザロの死と復活の出来事を思い起こします。主イエスはラザロが病気だとの知らせをお聞きになってからもなおも二日間もその場所に滞在しておられ、ついにラザロが死んだあとになって、ようやく彼の家に向かわれました。その時、主イエスはこう言われました。「ラザロは死んだのだ。わたしがその場に居合わせなかったのは、あなたがたにとってよかった。あなたがたが信じるようになるためである」(14~15節)。主イエスは重病のラザロのところに、あえてすぐには行かれませんでした。それは、「神の栄光のため、神の子がそれによって栄光を受けるのである」と言われました(4節参照)。そして、ラザロが墓に葬られて四日たってから、主イエスは彼を墓の中から起き上がらせました。

わたしたちはヤイロの娘の生き返りとラザロの生き返りの奇跡によって、神のみ子であられる主イエス・キリストの十字架の死と、三日目の復活とを信じる信仰へと招かれているのです。そして、罪のゆるしによる救いへと招かれているのです。

では、第二の奇跡の序文にあたる40~42節を読みましょう。【40~42節】。主イエスの一行はガリラヤ湖の対岸のデカポリス地方からカファルナウムに戻ってきました。群衆が主イエスを迎えました。彼らは主イエスに何を求めて集まってきたのでしょうか。ここではそれは明らかにされていませんが、はっきりしていることは、これから起こる二つの奇跡はいずれも群衆の中から飛び出して主イエスのみ前に進み出た人に対しての奇跡だったということです。群衆の中にとどまっているだけでは、群衆の中に身を隠しているだけでは、その人の奇跡は起こりません。信仰は生み出されません。

会堂長ヤイロは主イエスの足もとにひれ伏したと書かれています。ひれ伏すという姿勢は、礼拝の姿勢であり、完全な服従と謙遜の表明であり、また打ち砕かれた魂を表しています。今ヤイロが直面している危機がいかに重大であるか、それとともに主イエスに対する信頼と期待がいかに大きいかをここから知ることができます。

カファルナウムは大きな町であり、ユダヤ人の会堂(シナゴーグ)がいくつもありました。ヤイロはその中の一つの会堂の指導者、管理者でしたので、社会的にも宗教的にも高い地位にあり、人々から尊敬を受ける立場にありました。けれども今、彼はそれらのすべてを捨てるようにして、主イエスのみ前にひれ伏し、ひたすらに主イエスの助けを願う以外にありません。主イエスのみ前にくずおれるほかありません。主イエスの奇跡はそのようなヤイロに現わされるのです。

主イエスはカファルナウムの諸会堂で説教をしておられましたから、ヤイロは何度か主イエスの説教を聞いていたと推測できます。彼はおそらく、会堂長として礼拝の準備をし、会衆を迎え入れ、安息日の礼拝が神のみ心にかなって執り行われるように配慮していたと思われます。主イエスの説教を聞いた時には、彼は礼拝者の一人でした。けれども、その時には彼はまだ真実の礼拝者ではありませんでした。主イエスが語られる神の国の説教を、本当の意味で聞いてはいませんでしたし、信じてもいなかったと言わざるをえません。主イエスのみ前に、自らの弱さと破れをさらけだし、罪を告白し、悔い改め、主イエスの救いを呼び求める真実の礼拝者ではありませんでした。

けれども今、ヤイロは一人娘が病気で死にかけているという危機的な状況の中で、主イエスの足もとにひれ伏し、主イエスを礼拝し、この主イエスにこそわたしの最後の希望があることを信じて、主イエスの助けを願い求めています。ここに、真実の礼拝者の姿があります。ヤイロは一人娘を失うかもしれないという試練と不安、恐れの中で、主イエスに対する信仰へと導かれ、主イエスによる死から命を生み出す奇跡を見ることへと導かれたのです。

ユダヤ社会では12歳で成人となります。ヤイロがこれまでどれほどの愛情を注いでこの一人娘を育て、その成長を楽しみにしていたかは想像できます。ところが突然の病気と危篤状態に、ヤイロは動揺し、不安と恐れ、絶望の淵に立たされます。彼がこれまで娘に注いできた愛情の何倍もの愛情を注いでも、この事態をどうすることもできません。彼がこれまで築いてきた社会的地位や財産のすべてをもってしても、またその他どのような高価なものをもってしても、娘を死の危険から救い出すことはできません。死の前では,それらのすべては力を失い、空しいものでしかないことが明らかになります。その時ヤイロは真剣に主イエスに助けを求めました。主イエスにこそ救いがあるということを信じ始めました。

49節から、会堂長ヤイロの娘の奇跡の出来事についての記述が再開されます。【49~50節】。ヤイロの家から来た人は、娘さんが息を引き取ったのでもう主イエスに来ていただく必要はないと考えました。ヤイロ自身もそのように考えたに違いありません。まだ息があるうちなら、主イエスによって祈っていただき、手を置いていただくかして、いやしてもらう希望がありましたが、死んでしまえば、もはやだれにも手の施しようがなくなり、だれもが死の前でくずおれるほかにありません。

しかし、主イエスは死の中を、死を超えて、さらに先に進まれます。人々がもはやだれにも何も期待できなくなって、絶望するほかになくなったその先へ、主イエスはなおも進んでいかれます。死を打ち破る救い主として、死に勝利される復活の主として。

主イエスはヤイロに言われます。「恐れるな」と。これは強い命令です。恐れを否定する命令です。恐れを取り除く命令です。恐れに勝利する命令です。人はみな死の前で恐れざるをえません。死の前で立ち尽くし、くずおれるほかありません。死の前ではなすすべを失い、ただ泣き悲しみ、死に対して屈服するほかありません。そのようなわたしたちに、主イエスは「恐れるな」とお命じになるのです。死に対して勝利される主イエスだけが、このようにお命じになることができ、また実際わたしたちが死をもはや恐れる必要がない信仰へと、わたしたちを招き入れてくださるのです。

主イエスは「ただ信じなさい」とお命じになります。これも強い命令です。ただ、主イエスを信じる信仰によってこそ、死の恐れから解放されるからです。なぜならば、主イエスご自身が死に勝利される救い主だからです。主イエスはわたしたちを罪と死から救うために、十字架への道を進まれ、死んで三日目に復活されました。この主イエスをわたしの救い主と信じる信仰によって、わたしたちもまた罪と死の支配から解放され、神の国での永遠の命に生きる希望が与えられるのです。

ヤイロの家ではすでに葬儀が始まっていました。【52~56節】。52節の「泣くな」。これも強い命令です。54節の「娘よ、起きよ」。これも主イエスの強い命令です。わたしたちはこの場面で何度も主イエスの強い命令を聞きます。「恐れるな」。「信じよ」。「泣くな」。そして「起きよ」。わたしたちにこのようにお命じくださる主イエスは、事実ご自身のご受難と十字架の死、そして復活によって、わたしたちからすべての恐れを取り除き、わたしたちを信仰の道へと導き入れ、わたしたちの目から涙をぬぐい取ってくださり、死ぬべきわたしたちの体を新しい命に生かしてくださる唯一の救い主であられます。わたしたちは待降節の今、すべての人にこの救いをもたらしてくださる主イエスが、全世界の主としておいでくださるのを待ち望んでいるのです。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、あなたが罪のこの世を顧みてくださり、み子の十字架の死と復活によって、罪から救い出してくださいましたことを、心から感謝いたします。どうかわたしたちが再び罪の奴隷になることがありませんように、あなたの命のみ言葉でわたしたちを導いてください。

〇神よ、この世界を憐み、顧みてください。戦争や殺戮、飢えや飢餓、憎しみや恐れが、この世界に満ちています。どうか、あなたが天からまことの光で照らしてくださり、すべての人に平安と慰めをお与えください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

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