12月25日説教「闇の中に現れた大きな光」

2022年12月25日(日) 秋田教会降誕日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:イザヤ書9章1~6節

    ヨハネによる福音書1章1~18節

説教題:「闇の中に現れた大きな光」

 預言者イザヤは紀元前8世紀のイスラエルの暗い時代の中にあって、大きな光を見ています。9章1節にこのように書かれています。【1節】。この時代のイスラエルの「闇」とは、何を指しているのでしょうか。「死の陰の地に住む者」とはどういう人のことなのでしょうか。そしてさらには、その闇を照らす大いなる光とは? 死の影を歩んでいた人々の上に輝く光とは、どのような光のことなのでしょうか。なお、今一つの問いを、わたしたちは投げかけてみたいと思います。その光は、今現在も、この世界を、またこの世界に住むわたしたち一人一人を照らしているのでしょうか。きょうのクリスマス礼拝で、わたしたちはこの問いに対する答えを見いだしたいと願います。

 イザヤが預言者としての活動を開始したのは、イスラエル南王国ユダのウジヤ王が死んだ年、紀元前742年ころでした。ウジヤ王は40年以上もの長い間ユダ王国を統治し、この間、国は安定し、繁栄していましたが、彼の死後、国の内外に急速に混乱と危機が迫ってきました。そのころ、アッシリア帝国が近東地域全体を支配し、パレスチナにもその勢力が及び始めていました。北王国エフライムはこのアッシリアの脅威に対抗するために隣国であるシリアとシリア・エフライム同盟を結び、外国の軍事力に頼ろうとしました。

しかし、イザヤはこれに強く反対しました。外国と同盟を結ぶことは、神との契約を破ることだと考えられたからです。イスラエルは神と契約を結んだ神の民でした。いついかなる時でも、主なる神に信頼し、主なる神にのみ服従して生きるべき信仰の民でした。他の国と同盟を結ぶことは神との契約を破ることであり、神に対する信仰によって生きるのではなく、この世の人間の力や武力に頼って生きることであり、それは神に対する不信仰であり、罪だったのです。神はこの罪に対する厳しい裁きをお与えになるであろうとイザヤは語りました。

紀元前733年に、このイザヤの預言は一部実現しました。アッシリア軍が北王国エフライムの北東部に攻め入り、この地域をアッシリアの属州としました。イザヤ書8章23節に挙げられている地名、「ゼブルンの地、ナフタリの地、ガリラヤ」がその時にアッシリアに占領された地域と考えられています。そしてついには、紀元前721年になって、北王国の首都であったサマリアがアッシリア軍によって占領され、イスラエル北王国エフライムは滅びることとなりました。イザヤが預言したとおりです。それは、北王国エフライムの神への不従順と罪に対する神の裁きだったのです。

他方、南王国ユダはアッシリア帝国に対抗する道ではなく、アッシリアに貢物を送り、帝国の援助を受けることによって国の安泰を図る道を選択しました。けれども、これも神のみ心にかなった選択ではありませんでした。国内にアッシリアの異教的な宗教が入り込み、エルサレム神殿での礼拝にも異教的な偶像が持ち込まれました。預言者イザヤはこのような南王国ユダの不信仰と罪をも繰り返して非難しています。

そのようなイスラエル全体の混乱と危機の中で9章の預言が語られたと考えられています。この歴史的背景とイザヤの預言の内容から判断すると、「闇」とは、イスラエル北王国に迫っている滅亡の危機のことであり、それ以上に、南王国ユダの偶像礼拝と宗教的堕落のことであり、彼らの神に対する不従順と罪のことであると言うことができます。また、「死の陰の地に住む人」とは、主なる神に信頼することをせず、人間の知恵や力、武力によって国を守ろうとする愚かな国の指導者たちのことであり、預言者が語る神のみ言葉に耳を傾けず、この世の繁栄や安定にしがみつき、罪を悔い改めて神に立ち返ろうとしない、かたくなな人々のことであると理解されます。主なる神と共に歩もうとしないイスラエルの民は、もはや信仰によって生きる民ではなく、死んだ民なのです。

けれども、そのようなイスラエルの民が、今や大いなる光を見るであろう、彼らの上に光が照り輝くであろうと、イザヤはここで預言しています。「大いなる光」とは、この世界にあるもろもろの光とは違う、天からの、神からの特別な光のことを言い表しています。この世界の大小の光は一部の人々や一部の地域だけを照らしますが、天からの大いなる光は、すべての人を、すべての世界を照らし、すべての暗闇をその中に飲み込んでしまい、闇に勝利します。

では次に、どのようにしてその光がやってくるのかを見ていきましょう。2節には、「あなたが深い喜びと大きな楽しみをお与えになり、人々は御前に喜び祝った」と書かれています。神は不従順で罪を悔い改めないイスラエルの民に大きな喜びと楽しみをお与えくださるのです。それは、神の側からの一方的に差し出される恵みであり、救いです。イスラエルの側には、神の怒りと裁きを受けて滅びるべき理由しかないにもかかわらず、神は罪のイスラエルをなおもお見捨てにならず、彼らを憐み、彼らの罪をゆるしてくださるというのです。

ここでも、「深い喜び」「大きな楽しみ」と言われています。これもまた、この世でわたしたちが経験するような大小の喜びや楽しみとは違って、他のすべてのものを、悲しみをも苦しみをも、あるいは不安や恐れをも、それらのすべてを飲み込んでしまうような特別な喜び、楽しみのことであり、それは天の神から与えられるものです。

3節以下で、その光の到来についてさらに説明されます。一つには、その天からの光がイスラエルの民が負っていたすべてのくびきを折り、彼らを全く自由にする光であり、もはや兵士が履いていた靴も彼らが着ていた軍服も焼き払われ、彼らが敵の血を流すために持っていた武器も必要なくなる、そのような完全な平和をもたらす光であると言われています。

そして5節以下では、その大いなる光の到来がひとりの男の子の誕生と関係づけられています。その子の名前は「驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれ、その子がダビデの王国を平和と公平と義によって永遠に支配するであろうと預言されています。

紀元前8世紀前半の混乱と危機の中にあったイスラエルの時代の中で、預言者イザヤが語ったこの大いなる光の到来、その光をもたらすためにやがて誕生するであろうひとりの男の子とは、いったいだれを暗示しているのか。多くの旧約聖書研究者が具体的な名前を挙げています。預言者自身のことだとか、イザヤの子どもの一人、あるいはイスラエル南王国の歴代の王のだれかとかの名前が挙げられていますが、だれかに決定する決論には至っていません。というのも、「驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれるにふさわしい人物、そして神がダビデ王に約束された平和と公平と義とをもって永遠に王国を支配する王にふさわしい人物は、イスラエルのその後の歴史の中では見いだせないからです。

その問いに最終的に答えが与えられるのは、イザヤの時代から700年以上の時を経て、新約聖書になってからからです。すなわち、すべての人を照らす天からのまことの光として、クリスマスの時にこの世においでになった神のみ子・主イエス・キリストこそが、すべての問いに対する答えであるということを、わたしたちは新約聖書から教えられるのです。

きょうの礼拝で朗読されたヨハネによる福音書1章もそうですが、他の3つの福音書と使徒言行録、そして多くの書簡、最後のヨハネの黙示録に至るまで、すべての新約聖書はその全ページの中で、ただ一人の救い主・主イエス・キリストを証ししています。この主イエス・キリストこそが、預言者イザヤが待ち望んでいた、闇を照らす大いなる光であり、死の陰の地に住む人々にまことの命をお与えになる救い主であり、「驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君」であり、そして永遠に神の国を支配される王であられます。この主イエス・キリストこそが、全旧約聖書の預言の成就なのです。そして、全世界の唯一の、まことの救い主なのです。これがクリスマスの中心的なメッセージです。

ヨハネ福音書1章9節にこのように書かれています。「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである」。この短いみ言葉の中に、主イエス・キリストの救いの恵みが豊かに言い表されています。

まず、「世に来て」とは、神がこの世を救うためにご自身のみ子を世に遣わされたことを言っています。神はこの世が神から離れ、神なしで滅びの道を行くことを望まれませんでした。神は罪に支配されて神を失っているこの世界を憐れまれ、愛されました。この世界と全人類を罪から救うためにご自身の一人子を人間のお姿でお遣わしになりました。その一人子を十字架の死に引き渡されるほどに、神は罪びとを愛されました。それは、だれ一人として罪の中で滅びることがないためです。この福音書の3章16~17節にこのように書かれています。【16~17節】(167ページ)。

「まことの光」とは、暗い場所を照らす何らかの光、たとえばろうそくの光とか、太陽の光、電球の光ではなく、その光に照らされた人をまことの命によって生かす光、命を与える光のことです。わたしたちが人生の歩みの中で、時に道を見失ったり、生きる希望を失ったりする時に、わたしに新しい道を指し示し、生きる希望を与える光のことであり、さらに言うならば、わたしがこの地上の歩みを終えて死に赴くときにも、なおもわたしを離さず、わたしの神であり続け、わたしに朽ちることのない永遠の命を約束してくださる光、死をも照らす光、それがまことの光です。

「すべての人を照らす」とは二つの意味を持ちます。一つは、だれもこの光によって照られなくてもよい人はいない、すべての人がこの光によって照らされることを必要としているということです。なぜならば、すべての人が、神なしではまことの命を生きることができない罪びとだからです。クリスマスの時に語られるひとつの大きなメッセージがここにあります。わたしたち人間は、この世界の全人類は、クリスマスのこの時に神のみ前に自らの罪と破れと貧しさとを告白しなければなりません。そして、主なる神の憐みとゆるしとを願わなければなりません。この世界は、またすべての人は神の憐みとゆるしなしにはまことの命を生きることができないからです。

もう一つは、すべての人がこのまことの光に照らされているということです。まことの光なる主イエス・キリストは、すべての人の救い主としてこの世においでになりました。すべての人の罪のゆるしと救いのために十字架で死んでくださいました。だれ一人として滅びることがないように、すべての人が救われるように、これがクリスマスの時にわたしたちに現わされた神のみ心なのです。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、あなたが罪のこの世を顧みてくださり、独り子を十字架におささげくださるほどにわたしたち一人一人を愛してくださいましたことを覚え、心から感謝いたします。どうか、この世界があなたのみ心に背いて滅びることがありませんように。主なる神であるあなたを恐れ、あなたのみ心が行われるように祈り願う世界となりますように。この世界にまことの救いと平和をお与えください。主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

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