1月15日説教「ヤコブとエサウの再会」

2023年1月15日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:創世記33章1~20節

    ルカによる福音書15章11~24節

説教題:「ヤコブとエサウの再会」

 きょうの礼拝で朗読された創世記33章で、わたしたちは二人の人が20年ぶりで感動的な再会をする場面に出会います。ヤコブとエサウの兄弟、同じ母リベカから生まれた双子の兄弟であった二人。しかし、弟ヤコブが兄エサウの長男の特権を奪い取り、父イサクをも欺いて長男が受けるべき神の祝福を自分のものとしたために、兄エサウから憎まれ、命をねらわれる身となったので、兄から逃れて遠いハランの地にいる母リベカの兄ラバンのもとへ旅立ったヤコブ。そして、20年の歳月が流れ、今その双子の兄弟が再会しようとしているのです。

3節、4節を読んでみましょう。【3~4節】。これは何と感動的な再会の場面であることでしょうか。一方は、かつて怒りと憎しみに燃え、敵意を募らせてその命をも奪おうとしていた兄のエサウ。他方は、兄の復讐に対する恐れと不安におびえている弟ヤコブ。その二人が今ここで固く抱き合い、口づけし、共に泣き、涙を流ている。何が、二人をこのように変えたのだろうか。何が、このような感動的な和解へと二人を導いたのであろうか?

20年という歳月が二人の憎しみと怒り、不安と恐れを和らげたのであろうか。確かに、そういうことがあるだろうとは予想されます。20年の時の経過が人を変えるということはあり得ることです。時の流れが人の感情を和らげたり、過去を忘れさせたりもします。

わたしたちはこれまで、二人が分かれてからの20年間について、兄のエサウについては全く情報はありませんでしたが、弟ヤコブについては28~32章までに書かれている彼の歩みについて詳しく聞いてきました。ヤコブは身を寄せた叔父ラバンの家で、美しい妹娘ラケルと結婚したいと願い、7年間夢中になって働きました。けれども、ラバンの策略によって結婚相手として渡されたのは姉のレアでした。そこで、彼はもう7年間働いて、ようやくラケルと正式に結婚できましたが、またしてもラバンの策略によって、さらに6年間働かされることになりました。

ラバンの家でのヤコブの20年間の歩み、その苦労と試練の意味についてわたしたちは考えてきました。その一つは、ヤコブにとってこの20年間は神から与えられた信仰の訓練の時であったということです。ヤコブは何度もラバンにだまされながらも、愛する妻ラケルのために、また父の祝福を受け継がせる彼の11人の子どもたちのために、忍耐し、誠実に、そして黙々と働き続けました。その間、彼は謙遜になること、従順になることを学びました。かつて、兄と父までも欺いて,自分の欲しいものを手に入れようとする彼の傲慢な思いが次第に打ち砕かれていったのです。

ヤコブが学んだもう一つのことは、約束の地カナンから遠く離れたハランの地でのこの20年間、父イサクから受け継いだ神の約束、それはイサクもまた父アブラハムから受け継いだものでしたが、その約束は決して無効にはなっていないということでした。神は何度もヤコブに語りかけられました。「わたしはあなたの子孫を空の星の数ほどに、海辺の砂の数ほどに増やすであろう。また、カナンの地をあなたとあなたの子孫に受け継がせるであろう」と。ヤコブはこの神の約束のみ言葉を信じ続け、約束の地カナンへ帰ることを忘れることはありませんでした。ハランの地での20年間は、約束の地カナンに帰る準備の期間であったのです。彼はその地で蓄えた多くの財産や、その地で生まれた11人の子どもたちと共に、そのままハランに定住してもよかったのです。復讐を恐れていたエサウとの再会をしなくてもよかったのです。

でも、彼はそうしませんでした。彼はカナンの地へ帰ります。エサウとの再会を望んでいます。なぜならば、その地が神の約束の地であるからです。エサウは同じ父イサクから生まれた契約の子どもたちだからです。そのようなことを考えてみますと、ここでヤコブとエサウとを和解へと導いているのは、神ご自身なのではないかと思わされます。そして、事実、主なる神こそが、この二人の感動的な再会と和解の場面の背後におられるということに、わたしたちは次第に気づかされていくのです。

33章1、2節を読むと、ヤコブが兄エサウの出迎えを恐れていた様子が分かります。すでに32章で、エサウが400人を引き連れて待ち構えているとの報告を受けたヤコブは、「非常に恐れ、思い悩んだ」と8節に書かれていました。エサウが自分たちを襲ってきて、子どもたちや家畜、財産を奪うかもしれないと考え、隊列を二組に分け、愛する妻ラケルと最愛の子ヨセフを列の最後に置いたと書かれています。そのようにしてまで、ヤコブは恐れと不安の中にありながらも、エサウとの再会を果たそうとしているのです。そして、自らはその先頭に立って、エサウの前に進み出ていきます。

ヤコブのこのような知恵と勇気は、ハランの地での20年間を導かれた主なる神から与えられたものであると、わたしたちは推測します。そしてまた、この場面でのエサウに対するヤコブの姿勢からも、神ご自身がそこで働いておられるということを、わたしたちは読み取ることができます。ヤコブはここで徹底して兄エサウの前に身を低くし、兄に敬意を表しています。3節には「兄のもとに七度地にひれ伏した」とあり、5節では、「あなたの僕であるこのわたし」と言い、また8節、13節、14節では、エサウを「御主人様」と呼んでいます。このようなヤコブの態度には、彼が20年間に学んだ謙遜が確かに反映されていると言ってよいでしょう。

エサウの20年間については、わたしたちは何も知ることはできません。また、この場面でなぜエサウが弟ヤコブを許し、和解を受け入れたのかについても、何も説明されていません。4節には、ヤコブから謝罪の言葉とか和解の申し出を聞くよりも先に、彼の方から先にヤコブを迎えるために走って行ったと書かれています。ヤコブが和解のしるしとして多くの家畜を差し出した時には、エサウは最初はそれを受けとるには及ばないと断っています。これが、この時代の慣習であって、最初は断るのが礼儀であったとしても、この場面ではヤコブに対するエサウの怒りや恨みといった感情は全く読み取ることはできません。20年前のエサウの怒り、憎しみは、なぜ消えたのでしょうか。わたしたちにはわかりませんが、主なる神がヤコブに働きかけ、彼を導いておられたように、エサウに対しても主なる神が働いておられ、この二人に和解の道を備え、このような感動的な出会いの場面を演出しておられるのだということを、わたしたちは信じるのです。

創世記の神,アブラハム、イサク、ヤコブの神,のちにイスラエルをお選びになり、この民と契約を結ばれた神、そして、主イエス・キリストによってわたしたち罪びとを罪から救ってくださる主なる神は、和解の神であり、平和の神であり、すべての人の罪をゆるし、全世界の国民を一つの神の国の民としてくださる神であられます。その神がここでヤコブとエサウとを再会させ、和解させてくださったのだということを、わたしたちは信じることができます。

ヤコブの発言からそのことを確認することができます。5節で、ヤコブはハランで生まれた彼の11人の子どもたちについてこのように説明しています。「あなたの僕であるわたしに、神が恵んでくださった子供たちです」。また、10節でも、「兄上のお顔は、わたしには神の御顔のように見えます。このわたしを温かく迎えてくださったのですから。どうか、持参しました贈り物をお納めください。神がわたしに恵みをお与えになったので、わたしは何でも持っていますから」。ヤコブはエサウと和解する前に、ペヌエルで神と和解したことが32章23節以下に書かれていました。そこでヤコブは「わたしは顔と顔とを合わせて神を見たのに、なお生きている」と言ったと31節に書かれています。その時にヤコブに与えられた神との和解が、10節の「エサウの顔が神のように見える」という告白を導き出していると考えられます。

かつての傲慢で、他者を押しのけてでも自分の思いどおりに事を運ぼうとしたヤコブが、兄エサウの前でこのように告白することによって、ヤコブもエサウも共に神のお導きを信じ、神の永遠の救いのご計画に自分たちが招き入れられていることを悟ったのです。

12節からは、神に選ばれたヤコブと、神の選びからはもれたエサウとが、別々の道を進むことが語られています。二人が出会っている場所は、ヨルダン川の東側のヤボク川を渡ったペヌエルと呼ばれるようになった地です。エサウはそのころ32章4節によれば塩の海(死海)の南、セイル地方のエドムに住んでいました。12節によれば、エサウは自分が住んでいるセイル地方にヤコブを誘いたかったようでした。けれども、ヤコブはそのエサウの申し出を丁寧に断っています。15節では、エサウが自分の一族の何人かを道案内のために残しておく提案をしていますが、ヤコブはそれをも丁寧に断りました。そこで、16節には、「エサウは、その日セイルへの道を帰って行った」と書かれています。

ここには、エサウとヤコブの誕生の時にすでに定められていた神の選びが、実際に成就していく次第が描かれているのです。すなわち、25章23節で母リベカが聞いた神のみ言葉の成就です。「二つの国民があなたの胎内に宿っており、二つの民があなたの腹の内で別れて争っている。一つの民が他の民よりも強くなり、兄が弟に仕えるようになる」。このみ言葉がここで最終的に成就し、弟ヤコブが神に選ばれ、神の契約を受け継ぐイスラエルの民となり、兄のエサウはのちのエドム人の祖先となるのです。

ヤコブは17節によれば、ヤボク川の近くのスコテというところにしばらく住み、それから18節以下によれば、ヨルダン川を渡ってカナンの地に入り、シケムに定住しました。【18~20節】。創世記12章6節によれば、シケムはアブラハムが神に導かれてカナンに入った最初の地でした。そこで、アブラハムは「この地をあなたの子孫に与える」との神の約束のみ言葉を聞きました。ヤコブはその地の一部を買い取り、そこに祭壇を築き、その場所を「エル・エロヘ・イスラエル」と呼びました。これは、「神・イスラエルの神」という意味です。ヤコブはこの地で、神を礼拝しながら、神の救いのみわざがさらに前進するときに備えます。

父祖アブラハムの生涯が約束の地カナンで神を礼拝し続ける歩みであったように、ヤコブの生涯も神礼拝を続けながら、神の約束の最終的な成就を待ち望む歩みでした。今日のわたしたちの信仰の歩みもまた同じです。共に主の日の礼拝を続けながら、神の国の完成の時を待ち望みましょう。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、あなたがアブラハム、イサク、ヤコブをお選びになり、イスラエルの民との契約によってお始めくださった救いのみわざが、今わたしたちに主イエス・キリストの十字架の福音によって、全人類の救いのご計画となって受け継がれておりますことを感謝いたします。どうか、罪や不正義によって分裂しているこの世界を、あなたが真実の和解と平和の福音によって、一つに結び合わせてください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

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