2月12日説教「ベテルでの神とヤコブの契約」

2023年2月12日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:創世記35章1~15節

    フィリピの信徒への手紙1章3~11節

説教題:「ベテルでの神とヤコブの契約」

 創世記12章から始まるアブラハム、イサク、ヤコブの三世代にわたる族長時代は、紀元前1800年代から1600年代の時代を背景にしていると推測されています。彼らが活動した範囲は、アブラハムの故郷カルデアのウルはチグリス川とユーフラテス川が合流するメソポタミア地方、そこから始まって、ユーフラテス川を1000キロメートルあまり北西にさかのぼってハランへ、そして7、800キロメートル南下してカナンの地、神の約束の地、今のパレスチナへ、また時には500キロメートルほど南西に下ってエジプトの地へ、これが彼ら族長たちが活動した範囲です。

 アブラハム、イサク、ヤコブの三代の族長たちはみな同じように、東西・南北2000キロメートルほどの広い範囲を(それは日本列島全体を含むほどの広さですが)行き来し、信仰の旅路を続けていたことになります。ヘブライ人の手紙11章に書かれているように、彼らはまさに地上では旅人、寄留者であり、この世界のどこにも定住の家を持たずに、移動していました。けれども、彼らは普通の放浪の民、流浪の民のように、目的もなくさまよっていたのでは決してありませんでした。彼ら族長たちは主なる神に導かれながら、神の約束の地を受け継ぐとの約束を信じながら歩む、信仰の民でありました。

 わたしたちがきょうの礼拝で読む創世記35章のヤコブもまたアブラハム、イサクと同じように、地上では旅人・寄留者として、この地上のどこにも定住の場所を持たず、神の約束のみ言葉を信じながら、信仰の歩みを続ける民の一人であることを知らされます。35章1節にこのように書かれています。【1節】。

 ヤコブの道のりを少し振り返ってみましょう。ヤコブは父イサクと兄エサウを欺いて、兄から長男の特権を奪い取ったことで兄の怒りを買い、命をねらわれたために、はるか北のハランへと逃亡しましたが、20年後にカナンの地へ戻り、兄と和解することができました。33章18節以下に書かれているように、彼はヤボク川の近くのスコテからヨルダン川を渡り、かつて住んでいたカナンの地シケムの町に着き、その土地の一部を買い取って、二人の妻と11人の男の子どもたち、それにディナという娘と共に、その町での生活を始めました。

 シケムでのヤコブ一家の生活がどれくらい続いたのかは聖書の記述からは分かりませんが、その地の一部を購入して自分たちの家を建て、5年あるいは10年、20年は続いたのかもしれません。その土地の人々とのつながりもできて、その地で安定して生活し、定住することをもヤコブは考えていたのかもしれません。

 34章に書かれているシケムでの出来事については詳しく触れることはできませんが、その地にもとから住んでいたカナン人の男とヤコブの一人娘ディナとの間のトラブルに巻き込まれたヤコブ一家の苦悩と戦いが語られています。そして、そのトラブルが一段落した後で語られた神のみ言葉が35章1節です。「さあ、ベテルに上り、そこに神の祭壇を造り、神を礼拝しなさい」と神はお命じになるのです。つまり、「あなたが住んでいるシケムの町はあなたの定住する地でない。あなたがその地の一部を自分で購入したとしても、それが神の約束の成就なのではない。あなたはその地とその町で築いた人間関係とを捨てて、ベテルの町に行きなさい。なおも旅人・寄留者としての信仰の歩みを続けなさい」と神は言われるのです。

 ベテルはヤコブにとって非常に印象深い、忘れられない地でした。彼が初めてベテルの地を訪れたのは、兄エサウに命をねらわれ、逃げるようにして家を出て、まだ見ぬ遠いハランの地まで旅する途中に、孤独で不安な夜を過ごし、石を枕にしたのがベテルでした。28章10節以下にその時のことが語られています。その時彼は神のみ使いたちが天にまで届くはしごを上り下りしている夢を見ました。そして、神のみ声を聞きました。【28章13~15節】(46ページ)。そして、その地をベテル「神の家」と名づけたのでした。

そのベテルで主なる神を礼拝する生活を再び始めるようにとの神のみ声を、ヤコブは今また聞いたのです。シケムでの長い生活の中で、異教の民との接触や交流によって、困難なトラブルに巻き込まれ、失われつつあった旅人・寄留者としての信仰の歩みを、ヤコブはこのベテルから再開するのです。「どのような試練の中にあっても、わたしは決してあなたを見捨てない。いつでもあなたと共にいる」と約束される主なる神を信じる信仰の歩みを、ヤコブはここで取り戻すのです。

【2~7節】。シケムでの長い定住生活の中で、ヤコブ一家の信仰がカナンの異教的な偶像礼拝に変質していったということを、わたしたちここから知らされます。34章に書かれていたように、シケムの男によってヤコブの娘ディナが辱められたという父ヤコブが受けた屈辱や、その復讐としてヤコブの子どもたちがシケムの町中の人々や家畜を略奪したという恐るべき行動が、ヤコブを苦しめていたことが推測されますが、それ以上に信仰者ヤコブにとっての危機は、彼がその地で異教徒たちと共に生活したことによって、主なる神に対する純粋な信仰を失いかけていたということ、このことこそがヤコブにとっての大きな危機だったのです。

ヤコブとその一家は住み慣れたシケムの町を出て、またその町で手に入れた異教の神々の像と飾りを捨てて、ただイスラエルの主なる神だけに頼り、その神だけに服従する信仰を取り戻さなければなりません。

ベテルに新しい「エル・ベテル」という名前が付けられました。「エル」はヘブライ語の神、「ベテル」は神の家ですから、「エル・ベテル」は直訳すれば「神の家の神」あるいは「神の家の神」となります。アブラハム・イサクの神、イスラエルの神ということが強調されています。この町で、ヤコブ一家の新しい神礼拝の生活が始まるのです。神の約束のみ言葉を信じながら、地上では旅人・寄留者としての信仰生活をここで取り戻すのです。

9節からは、ヤコブの名前がイスラエルに変えられることが書かれています。【9~10節】。32章23節以下のペヌエルでの神のみ使いとの格闘のあとで、ヤコブの名前がイスラエルに変えられたことがすでに書かれていました。32章29節の説明によれば、イスラエルとは「神と闘う」あるいは「神が闘われる」という意味であると推測されます。ここでは、その名前の意味についても、なぜ名前が変更されたのかについても説明はありません。ただ、ここでも32章30節と同様に「神が彼を祝福された」と書かれています。神から新しい名前が与えられることは、神の祝福がいよいよ増し加えられたことを意味します。ヤコブはベテルの祭壇で神を礼拝するたびごとに、日々に新たに神の祝福を与えられ、日々に新しい人に造り変えられ、信仰の旅路を続けていくことになります。わたしたちに、キリスト者、クリスチャンという新しい名前が与えられたのも同様です。また、わたしたちが主の日ごとに神を礼拝する時にも、同じように日々に新たな信仰者として創造されるのです。

【11~15節】。ここにおいて、アブラハム、イサクに与えられた神の契約、いわゆるアブラハム契約がヤコブに更新されます。創世記12章からの族長物語の中で、わたしたちは何度同じこのみ言葉を聞いてきたでしょうか。ヤコブの人生の中だけでも、彼の人生の節目節目で、神はこのアブラハム契約を繰り返して語られ,更新されました。そして今また、シケムでの家族のトラブルや異教の偶像の神々の誘惑から解放されたこの時にも、神はヤコブにお語りになりました。たとえヤコブが神との契約を忘れるようなことがあっても、神は決して彼をお忘れにはなりません。神は「全能の神」であられます。たとえ人間がどれほどに不信仰であり、罪を繰り返す者であっても、神はご自身の約束のみ言葉が最終的に成就される時まで、信仰者を決してお見捨てにはなりません。

使徒パウロはフィリピの信徒への手紙1章6節でこう書いています。「あなた方の中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています。」わたしたちは族長時代から一気に数千年の時を経て、神の約束のみ言葉は永遠であり、神の救いのご計画が永遠であるという信仰をここで確認することができます。族長アブラハム、イサク、ヤコブに約束されたみ言葉は、主イエス・キリストによってわたしたち教会の民のために成就され、さらに終わりの日の神の国が完成される日まで永遠に続くのだということを、わたしたちは知らされるのです。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、あなたが天地創造の時からお始めくださった救いのみわざが終わりの日の完成に向かって前進していることをわたしたちに信じさせてください。どのような困難な時にも、試練や災いの時にも、あなたの救いのみわざがみ心にかなって続けられていくことをわたしたちに信じさせてください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

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