2月26日説教「復活の主イエスと出会ったサウロ」

2023年2月26日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:出エジプト記3章1~6節

    使徒言行録9章1~9節

説教題:「復活の主イエスと出会ったサウロ」

 ペンテコステの日にエルサレムで誕生した初代教会が、数回に及ぶユダヤ人からの迫害にもかかわらず、成長を続けてきました。教会員の多くがエルサレム市内から追放されるという大迫害が、かえって福音がパレスチナ全土へと拡大されていくきっかけになったということ、さらにはユダヤ人以外の異邦人にも救いの道が開かれていったということを、わたしたちは使徒言行録で聞いてきました。神の言葉はこの世のいかなる鎖によっても決してつながれることはないということを何度も確認してきました。神の救いのご計画はこの世の人間たちの抵抗や攻撃や、あるいは無関心をも突き破って、力強く前進していくのだということを、大きな驚きと感動を覚えながら学んできました。

 そして、きょうは9章1節以下では、もう一つの大きな驚きの出来事について聞くことになります。すなわち、キリスト教会の迫害者であったサウロ、のちのパウロが、復活された主イエス・キリストと出会い、主キリストによってとらえられ、キリスト教会の宣教者に変えられるという、大きな、驚くべき奇跡についてです。神は教会が経験しなければならなかった幾度もの迫害をもお用いになって、教会を成長させ、前進させてくださったように、今また、教会の迫害者をもお用いになって、主キリストの福音宣教の良き働き人となさるのです。

 使徒言行録9章1~19節までには、パウロの回心の出来事が記されていると言われます。けれども、実際には回心と言われるような内容はここには書かれていません。ユダヤ教徒であったパウロが主キリストの福音を聞いて、罪を自覚し、悔い改めて、主キリストの福音を信じるようになり、回心してキリスト者になったという、パウロ自身の心境の変化のことについては何も語られていないように思われます。使徒言行録ではこのあと、同じようなパウロの回心について彼自身が語っている箇所が22章4~16節と26章9~18節に書かれていますが、その2箇所でも、回心と一般に言われる内容についてはほとんど語られてはいません。これらの3箇所に共通している内容は、教会の迫害者だったサウロ・パウロがダマスコの近くで突然に天からの強い光に照らされて地に倒れ、その時「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか」、という復活の主イエスのみ声を聞いたこと、そして目が見えなくなったこと、その後、ダマスコでアナニアという人に出会い、彼によってパウロの目が開かれ、パウロは洗礼を受けてキリスト者になったという出来事、事実だけが繰り返して語られています。

 確かに、熱心なユダヤ教徒、ファサイ派だったパウロがキリスト者になったこと、教会の迫害者であったパウロが教会の福音宣教者になったことは、180度の方向転換であり、まさに回心であり、改宗でもあるのですが、回心の内容について語られていないのはなぜなのか、しばしば議論されますが、その理由はよくわかっていません。わたしたちがキリスト者になる道筋をたどると、ある期間教会の礼拝に出席して、聖書のことが少しずつ理解できるようになり、自分の罪のことが知らされ、悔い改めの必要を知らされ、そしてある時に決断をして、洗礼を受けてキリスト者になるというのが一般的でしょうが、パウロの場合にはそれらが省略されているように思われます。

 パウロの場合、彼自身の心の変化とか罪の告白とか信仰の決断とかについてはほとんど語られず、天におられる神の側からの一方的な働きかけ、しかも強烈な働きかけと、復活の主イエスご自身の命令と招きだけが強調して語られているのです。ほとんど一瞬のうちに、回心という出来事が彼に起こっているのです。それは、神の側での一方的な選びであると言えるでしょう。神が一方的な選びによって、パウロをキリスト者とし、教会の宣教者として召されたのです。その神の一方的な選びと招きの力強さの前では、パウロ自身の心の変化とか、あるいはまた彼がそれにどう抵抗したかとか、どんな疑問を持ったかなどということは、まったく重要ではなかったということをわたしたちは知らされます。

 のちになって、パウロが諸教会にあてた手紙の中で彼のいわゆる回心についてこのように書いています。ガラテヤの信徒への手紙1章15、16節では、「わたしを母の胎内にあるときから選び分け、恵みによって召し出してくださった神が、御心のままに、御子をわたしに示して、その福音を異邦人に告げ知らせるようにされたとき、わたしは、すぐ血肉に相談するようなことはせず」と書いています。また、コリントの信徒への手紙一15章8節以下では、復活された主イエスとの出会いについてこう書いています。「そして最後に、月足らずで生まれたようなわたしにも現われました。わたしは、神の教会を迫害したのですから、使徒たちの中でいちばん小さな者であり、使徒と呼ばれる値打ちのない者です。神の恵みによって今日のわたしがあるのです」。

これが、使徒言行録に記されている、いわゆるパウロの回心と言われている出来事のパウロ自身のとらえかたなのです。それは、まさに神の奇跡です。パウロ自身の側にあるすべての可能性や不可能性をはるかに超えた神の奇跡です。迫害の中にあったエルサレム教会で神が繰り返して起こしてくださった奇跡のみわざを、神はまたパウロの生涯の中でも起こされました。神は今もなお、この世界で、またわたしたちの教会で、わたしたちの思いをはるかに超えた奇跡のみわざを起こしてくださるということを、わたしたちは信じるのです。

では、9章1節以下に書かれているパウロと復活の主イエスとの出会いの場面について詳しく見ていきましょう。ダマスコはガリラヤ湖の北およそ100キロメートル、エルサレムからだと250キロ以上も北にある町で、当時のシリア領内にありました。エルサレムから追放された信者たちがここにまで主イエスの福音を語り伝えていたということが分かります。また、パウロがユダヤ最高議会の議長であった大祭司の信任状を持ってダマスコのキリスト者を逮捕する許可を得ていたということから、ユダヤ人による迫害がファリサイ派やサドカイ派というユダヤ教の一部の派によるだけはなく、ユダヤ国家全体による迫害へと拡大されていたということを確認することができます。しかしまた、迫害が拡大されると同時に、福音宣教の地域も異邦人の地へと拡大されていったということをもわたしたちは知らされます。

1節には、「サウロはなおも主の弟子たちを脅迫し、殺そうと意気込んで」と書かれています。パウロのキリスト教迫害にかける意気込み、熱意、使命感のようなものを感じます。彼はなぜそれほどまでにキリスト教会の迫害に命をかけていたのでしょうか。それは、彼が熱心なユダヤ教徒であり、ファリサイ派の指導者であったことと関連します。ユダヤ教ファリサイ派は旧約聖書の律法を重んじ、律法を守り、行うことによって救われ、神の国に入ることができると教えていました。しかしながら、主イエス・キリストの十字架の福音はその教えを根本からくつがえすものでした。だれでも、主イエスの十字架の福音を信じ、主イエスがわたしの救いのために、わたしに代わって十字架で死んでくださり、わたしの罪のすべてをゆるしてくださったという、この福音を信じるならば、律法の行いなしに、ただ信仰によって救われる、これが主イエスの福音です。

熱心なファリサ派のパウロにとっては、そのよう教会の教えはユダヤ教の律法を無効にしてしまうことであり、律法によって生きてきたユダヤ国家そのものをも滅ぼすことになると考え、ユダヤ教とユダヤ国家を守るためにキリスト教会を根絶しなければならないと考えたのでした。

パウロはのちに書簡の中で書いています。主イエス・キリストの十字架の福音による救いの道は、律法による救いの道の終わりであり、そもそもだれも律法を完全に守り行うことはできないのであって、なおも律法によって救われようとするならば、いよいよ罪の自覚が生じるだけであると言っています。パウロは復活の主イエスと出会ったとき、自分が追い求めてきた律法による救いの道ではなく、わたしの罪のために十字架で死んでくださり、三日目に罪と死とに勝利されて、復活してくださった主イエス・キリストを信じる信仰によってこそ、ユダヤ人も異邦人も、すべての人は罪ゆるされ、救われるのだということを知らされたのです。

パウロがダマスコの近くにまで来た時に、22章6節によれば、それは真昼のころで、太陽が最も光り輝く時間帯でしたが、その太陽の光よりもはるかに強い天からの光によって、彼は地に倒れました。それは、強い光に目がくらんで倒れただけでなく、彼がこれまで一生懸命になって走ってきたユダヤ教の律法の道が終わり、それに命をかけてきたパウロが死んだことを象徴的に言い表しているように思われます。十字架に付けられ三日目に復活された主イエスとの出会いを経験して、パウロはそれまでの自分に死んだのです。

【4~6節】。ここには、復活した主イエスとの出会いによって、パウロが全く新しい人に造り変えられた、いわゆる回心の中身が暗示されているように思われます。それをいくつかのポイントにまとめてみましょう。

一つには、パウロはここで自分を天からの強い光でとらえたのが、復活の主イエスにほかならないということを知らされたことです。キリスト者たちが語っていたように、十字架につけられて死んだ主イエスが復活されて、今自分に語りかけておられる、主イエスは確かに今も生きておられる、そしてわたしを捕らえておられる。そのことをパウロは知らされたのです。

第二には、復活された主イエスが、ほかならないこのわたしに、キリスト者たちを迫害し、キリストの教会に敵対していたこのわたしに現れてくださった、このわたしを選んでくださったということをパウロは知らされました。教会の迫害者を教会の宣教者に変えてくださるという、主イエスの圧倒的な恵みの大きさを知らされました。

第三には、主イエスはここで迫害されているのはこのわたしであると言われたことです。パウロはキリスト者を迫害しているつもりでした。けれども、主イエスは迫害されているキリスト者と共におられたのです。彼らの痛みや苦しみを主イエスご自身が共に担っておられるのです。復活された主イエスは主イエスの教会と共に生きておられることをパウロは知らされました。

ここに至って、パウロは自分が迫害し、なき者にしようとしていた、またそうできると思っていた主イエス・キリストと主の教会が、かえって自分を圧倒する大きな力で押し迫ってくるのを覚え、その力によって地に倒されたことを悟りました。そして、再び立ち上がる時には、まったく新しい自分に造り変えられ、新しい使命を与えられていることを知らされることになるのです。ここから、福音の宣教者パウロの新しい歩みが開始されていきました。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、あなたの天からの大いなる光が迫害者パウロを捕らえ、福音

の宣教者へと変えたように、どうかわたしたち一人一人の上にもあなたの聖霊が豊かに注がれ、わたしたちを造り変えてくださり、あなたの良き働き人としてくださいますように。

〇願わくは主よ、あなたの救いと平和のみ心が地において実現されますように。

 主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

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