3月5日説教「功績なしに罪を赦される」

2023年3月5日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

      『日本キリスト教会信仰の告白』連続講解(20)

聖 書:イザヤ書55章1~5節

    ローマの信徒への手紙3章21~26節

説教題:「功績なしに罪を赦される」

 『日本キリスト教会信仰の告白』をテキストにして、わたしたちの信仰の中心が何であるか、日本キリスト教会の特徴は何であるかを学んでいます。きょうは、「神に選ばれて」から始まる告白文の中の「功績なしに罪を赦され」の箇所について、聖書のみ言葉から学んでいきます。

 この個所は、前回学んだ「キリストにあって義と認められ」という告白の続きで、16世紀の宗教改革が強調した「信仰義認」という教理を告白しています。宗教改革者ルターは、当時の堕落したローマ・カトリック教会に抗議し(プロテスタントとは英語で抗議という意味です)、聖書を改めて読み返し、そこから福音主義の信仰を読み取りました。すなわち、人が救われるのはその人のわざや功績によるのではなく、すべての罪びとのために十字架で死んでくださった主イエス・キリストの十字架の福音を信じることにより、その信仰によって、神に義と認められ、罪をゆるされ、救われる。これが「信仰義認」と言われる教理です。「功績なしに」という告白は、カトリック教会が重視している「功績」という言葉をあえて用いて、カトリック教会の考えを否定しています。

 そこで、どのようにしてカトリック教会の功績主義という考えが生まれてきたのか、その歴史を簡単に振り返ってみましょう。紀元3~4世紀の古代教会の時代から、信仰者が神に喜ばれる良きわざに励むことが強調されました。それ自体は正しい信仰です。神によって救われた信仰者が神に感謝して、神に喜ばれる信仰生活に励むということは、わたしたち信仰者のだれもが心がけていることです。

しかし、それが次第に、救われるためには、信仰だけでなく、良きわざも必要であるという考えに傾いていくようになりました。そこから更に、自分自身の救いのために必要な良いわざ以上の功績を積んだ人(この功績をラテン語でメリットと言うのですが)、そのメリットを積んで死んだ人を聖人と呼び、彼らが天に蓄えているメリットを、信仰者は祈りによって分けてもらうことができるという考えに発展していきました。

 中世の14、15世紀のスコラ学と呼ばれるカトリック教会の神学では、信仰だけでなく、良いわざもまた救いのために必要だという教えや聖人崇拝という慣習が確立し、そこから、よく知られている免償符を教会が発行して、良いわざが十分ない人でも免償符を購入すれば、犯した罪の償いをしなくても罪が帳消しにされて、天国行きの切符を手に入れることができると教えていたのです。それは、主イエス・キリストの十字架の死の意味を軽んじることであり、いやそれのみか、わたしたちの救いの根源である主イエス・キリストの十字架の死を否定することであると、宗教改革者たちは抗議の声を挙げたのです。

では次に、聖書からそのことを確認していきましょう。旧約聖書の時代から、イスラエルの救いはイスラエルの何らかの功績によるのではない、一方的に神から与えられた恵みによるのであるという信仰がありました。イスラエルは神の恵みによって選ばれ、神の契約の民とされ、神に愛されている。彼らは神の恵みによってエジプトの奴隷の家から救い出され、約束の地へと導き入れられた。そのことをわたしたちは旧約聖書から繰り返して教えられています。

 きょうの礼拝で朗読されたイザヤ書55章1~2節にはこう書かれています。【1~2節】(1152ページ)。また【6~7節】。神は遠くにいる神ではない、近くに来てくださった。わたしたちが悔い改めて神の方に向き変るなら、神はわたしを救ってくださる。神はイスラエルの民を主イエス・キリストの到来前に、すでにこのような信仰へと招いておられました。

 新約聖書ではその信仰がより明確にされました。使徒パウロはローマの信徒への手紙で、わたしたちはだれでもみな、功績なしに救われるということを強調しましたが、彼は更にもう一つのことをも強調しました。そもそも、わたしたち人間は生まれながらにして罪びとであり、だれも神に喜ばれる良いわざをすることができないのだということです。彼はローマの信徒への手紙3章10節以下でこのように語っています。きょうの礼拝で朗読された箇所のすぐ前です。【10~12節】(276ページ)。また、【20節】。

 人間はだれ一人として神の律法を守り行うことができない、むしろ神の律法の前では、だれもそれに従うことができない人間の罪が明らかにされるばかりだとパウロは言います。

 このような徹底した罪の自覚、罪の告白があるところに、続けて21節以下のみ言葉が語られるのです。主イエス・キリストの福音を信じる信仰によって与えられる神の義、神の救いが語られるのです。【21~24節】。

22節に「信じる者すべてに」とあり、また24節には「神の恵みにより無償で」とあります。これが、『信仰告白』の中で「功績なしに」と告白されていることの内容です。

ここには二つの側面が言い表されています。一つは、だれであっても、何一つ功績ない人であっても、つまり何一つ神に喜ばれる良いわざを行うことができない弱い人、貧しい人、破れだらけの人、欠けの多い人であっても、神から一方的に与えられる恵みによって、主イエス・キリストの十字架の贖いのみわざによって、それを信じる信仰によって、神のみ前に義とされ、救われるという、神の恵みの豊かさ、広さ、力強さが強調されているのです。

もう一つには、だれであっても、救いのために自分の功績、良いわざを持ち出すことは断じてできない、ただ神の恵みによってのみ、主イエス・キリストの福音を信じる信仰によってのみ、人は救われるという、救いを神の恵みにだけ厳しく限定するということです。

わたしたちは主イエス・キリストの十字架の福音によって示されたこの二つの側面、つまり、神のみ前での人間の徹底した無力さと神の恵みの豊かさとを決して見失わないようにしなければなりません。わたしたちが時として自分の罪の大きさに嘆き、絶望しなければならない時にも、あるいは自分のわざを誇り、傲慢になり、神への恐れを忘れてしまう時にも、「功績なしに罪を赦される」という信仰を思い起こさなければなりません。

次に、「罪を赦され」という告白について学びます。罪という言葉は『信仰告白』の中では最初の段落で「人類の罪のために」という箇所にすでに出てきました。最初に創造された人アダム以来、すべての人、全人類は、神のみ前にあっては罪びとであるというのが聖書全体の教えです。ローマの信徒への手紙3章9節では、「ユダヤ人もギリシャ人も皆、罪のもとにある」と言われており、23節では「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっている」とあります。

そのような罪びとである人間は、だれも自分で自分を救うことはできません。わたしたちの救いはただ主イエス・キリストから与えられます。『信仰告白』では、「信じる人はみな」が文章の主語になっていますので、「罪を赦され」と受動態になっていますが、本来の主語は主イエス・キリスト、あるいは神です。どのようにして罪をゆるされるかは、すでに最初の段落でこのように告白されていました。「主イエス・キリストが人類の罪のため十字架にかかり、完全な犠牲をささげて、贖いをなしとげ、復活して永遠の命の保証を与え、救いの完成される日までわたしたちのために執り成してくださいます」。これによって、わたしたちは罪ゆるされ、救われ、神の国での救いが完成するのです。

その個所ですでに学んだことですが、十字架による完全な犠牲と贖いということについて今一度復習しておきましょう。贖うとは、奴隷状態から解放して、自由にするという意味を持ちます。神から離れている罪びとは、パウロが告白しているように、罪と死とに支配されています。罪と死の奴隷です。神はそのような罪びとを救うために、旧約聖書時代のイスラエルの民に、動物の血を犠牲として神にささげることをお命じになりました。血には命があります。その血の贖いによって、人間の失われていた命を買い戻すためです。それによって、罪と死の奴隷であった人間を解放し、神のものとして買い戻すことによって罪のゆるしをお与えになりました。イスラエルの民は動物を犠牲としてささげる礼拝によって、神のものとされ、神のご支配のもとに移されました。

けれども、それは動物の血でしたから、人間を罪と死から贖うには不十分でした。そのために、エルサレムの神殿では毎日動物の犠牲がささげられました。それに対して、主イエスが十字架でおささげくださった血は、まことの神でありまことの人としての、罪も汚れもない完全な贖いの供え物でした。したがって、主イエスの一回だけの十字架の死によって、すべての人を、永遠に、罪と死から贖う力と恵みを持っているのです。それゆえに、わたしたちは自分では救いのために何一つなしえず、なしえないままで、いな、成しえないからこそ、ただ主イエス・キリストの十字架による贖いの死によって、わたしの罪のすべてが、完全に贖われ、罪と死から解放されており、罪ゆるされているのです。これが、「功績なしに、罪ゆるされ」という告白の意味です。

最後に、もう一つの重要な点について少しふれておきたいと思います。人間の良いわざは人間の救いのためには全く役に立たず、神に喜ばれないということをわたしたちは確認してきましたが、ではわたしたちは信仰者として何もする必要はなく、怠惰に過ごしてよいのか、罪を犯し続けていてよいのかということですが、パウロはそれについてローマの信徒への手紙5章以下で詳しく語っています。

それによればこうです。神の一方的な恵みによって罪ゆるされた者は、罪と死の支配から解放されて自由にされているのであるから、これからは罪に妨げられることなく、喜んで神にお仕えしていくことができる。神から与えられる自由の霊によって新しい命を受け、新しく創造された者として、神のみ言葉に喜んで聞き従い、神の栄光を現わすために仕える者とされる。罪ゆるされ、救われ者として、神の恵みに感謝し、神のみ名を賛美し、神を礼拝するものとされる。そのような、新しい信仰者の生き方について、パウロは12章1節以下でこのように語っています。【1~2節】(291ページ)。「功績なしに、罪の赦しを」与えられているわたしたちは、このような神礼拝の生活へと招かれているのです。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、あなたのみ前では滅びにしか値しない者であるにもかかわらず、あなたがみ子主イエス・キリストの尊い犠牲の血によって、わたしたちを罪から贖ってくださったことを心から感謝いたします。願わくは、わたしたちが罪の奴隷から解放されて、あなたから与えられる自由の霊によって、喜んであなたと隣人にお仕えする者とされますように。

〇天の神よ、あなたは天から地上のすべてをご覧になっておられます。この世界の深く病んでいる姿、その中で苦しみあえいでいる人間たちをご覧になっておられます。どうぞ、この世界を憐み、顧みてください。み心を行ってください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

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