3月12日説教「ラケルの死とイサクの死」

2023年3月12日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:創世記35章16~28節

    マタイによる福音書22章23~33節

説教題:「ラケルの死とイサクの死」

 創世記12章から始まったアブラハム、イサク、ヤコブという3世代にわたる族長の信仰の歩みについて学んできました。族長時代は紀元前18世紀ころから16世紀にかけて、まだイスラエルの民が形成される前ですが、彼ら族長の信仰の歩みの中に、神に選ばれたイスラエルの民の信仰とのちの教会の民の信仰が、すでに生き生きと語られていることをわたしたちは学んできました。それは、言うまでもないことですが、族長たちとイスラエルの民、そして教会の民を導かれたのが同じ主なる神であるからにほかなりません。主なる神は創世記1章の天地創造のみわざから始まるすべての救いの歴史を大きな恵みと愛とをもって導いておられます。神の永遠なる救いのご計画が天地創造の初めから、族長時代とイスラエルの時代を経て、わたしたち教会の民へと受け継がれ、終わりの日の神の国が完成される時まで継続されるのです。わたしたち一人一人はその永遠なる神の救いのご計画の中に招き入れられているのです。

 きょうの礼拝で朗読された箇所では、ヤコブの妻ラケルの死とヤコブの父イサクの死のことが書かれています。そこできょうは、この二人の死によって、神の永遠なる救いの歴史がどのように継続されていったのかに焦点を当てて学んでいくことにします。

 16節からラケルの死について書かれています。ラケルはヤコブの最愛の妻でした。ヤコブは兄エサウから長男の特権をだまし取ったことで命をねらわれ、カナンの地から遠く1000キロメートルも離れたパダン・アラムのハランの地へと逃れ、伯父ラバンのもとに身を寄せることになりました。ヤコブはラバンの家で彼の娘ラケルを愛し、彼女を妻にするために7年間ラバンの家で働きましたが、ラバンにだまされてもう7年間、さらに6年間、計20年間も、ヤコブはラバンの家で愛するラケルのために一生懸命に働きました。

ところが、ラケルにはなかなか子どもが与えられませんでした。ヤコブは愛する妻ラケルに子どもが授かることを願いましたが、神は人間的な知恵を誇り傲慢であったヤコブを訓練するために、さまざまな労苦や試練を彼にお与えになりました。ヤコブは自分の思いどおりに事がなるのではなく、神のみ心が行われる時を待つべきであることを学ばなければなりません。

そしてようやく、神がラケルを顧みられたときに、彼女に男の子が与えられました。30章24節に書かれていたように、ラケルはその時、「主がわたしにもう一人男の子を加えてくださいますように」と願って、その子の名をヨセフと名付けました。きょうの箇所に書かれている、あとでベニヤミンと名付けられる男の子は二人目になります。神は今またラケルの願いを聞かれ、彼女に二人目の男の子をお授けになります。

ところが、今回は難産であったと16節に書かれています。ベテルから南のエフラタに向かう途中で、ラケルは苦しみながら出産をします。18節にこう書かれています。【18節】。ラケルは出産の苦しみの中で、死の間際に最後の力を振り絞って、生まれてきた子を「ベン・オニ(わたしの苦しみの子)」と名付けました。ここには、ラケルのこれまでの生涯と今、死を目の前にしている彼女の苦悩のすべてが表現されているように思われます。

聖書にはラケル自身の心の動きについてはほとんど記されてはいませんが、この最期の時に発した一言から、わたしたちはいくつかのことを推測することができます。ラケルは夫ヤコブから熱烈に愛されましたが、彼女はその愛を独り占めにはできませんでした。父ラバンは自分の代わりに姉のレアを先にヤコブの妻として嫁がせました。ヤコブはレアよりもラケルの方を愛しましたが、姉のレアには次々と子どもが生まれたのに、ラケルとの間には長く子どもが与えられませんでした。そのことで、ラケルと姉レアの間にはねたみや葛藤が生じました。夫ヤコブとの間にも亀裂が生じたこともありました。

ヤコブとレアとの間には6人も子どもが与えられたのに、ラケルにはようやくにして一人ヨセフが授かっただけでした。夫の愛をより多く受けていたのに、子どもの数においては姉の方がはるかにまさりました。だれにも訴えることができないラケルの苦悩や闘いの日々を、わたしたちは推測することができます。

そして今、ラケルのもう一つのささやかな願いがかなえられようとするこの時に、彼女は出産の苦しみの中、最後の息を引き取ろうとしているのです。それはどんなにか無念であり、苦しみ、悲しみであることでしょうか。愛する夫と別れなければなりません。ようやくにして生まれた子どもの成長を一日も見ることができないのです。彼女が生まれた子の名を「わたしの苦しみの子」と名付けなればならなかったその思いを、わたしたちは十分すぎるほどに理解できるのではないでしょうか。

しかしながら、ここでヤコブが登場します。「いや、この子の名はベン・オニ(わたしの苦しみの子)ではなく、ベニヤミン(幸いの子)である」と宣言します。ヤコブはここで、あたかも主なる神の代弁者であるかのように、妻ラケルのこれまでの生涯と、生まれた子ベニヤミンのこれからの生涯とが、苦しみではなく、幸いであることを宣言しているように思われます。

確かに、ヤコブが妻ラケルに対して注いだ大きな愛の報いは、人間の目には少ないように見えるかもしれません。ヤコブ自身にとってもそれはどんなにか無念であったことでしょう。けれども、主なる神のラケルに対する愛は全く欠けるところがなかったとヤコブはここで告白しているのです。母の死の苦しみの代償として生まれた子ベニヤミンもまた「幸いな子」として、神に選ばれるイスラエルの民の12部族の一つとなるのです。

ラケルの苦しみと悲しみに満ちた死をわたしたちはここで見るのですが、しかし同時に、その苦しみと悲しみとを超えて、否、人間のすべての苦しみと悲しみとを幸いへと変えてくださる神の永遠の救いのご計画を、わたしたちはここで見ることができるのです。信仰者の歩みは悲しい死をもって終わるのではありません。悲しみを希望へと変えてくださる主イエス・キリストの復活の光の中へ、わたしたちは招き入れられているのです。

23節から、ヤコブ・イスラエルの12人の子どもたち、すなわち、のちにイスラエル12部族を形成する子どもたちの名前が記されています。姉のレアに生まれた子が長男ルベンからゼブルンまでの6人。妹ラケルに生まれた子がヨセフとベニヤミンの二人、ラケルの召し使いビルハに生まれた子が二人、レアの召し使いジルバに生まれた子が二人です。26節には「これらがパダン・アラムで生まれたヤコブの息子たちである」と書かれていますが、正確にはベニヤミンだけはカナンに帰ってきてから生まれた子ということになります。

この12人の子どもたちの中で、ラケルの子ヨセフが37章以下のエジプト行きと、その後に家族全員がエジプトへ移住する物語の新しい主人公となります。

36章には、ヤコブの兄エサウの子孫について描かれています。エサウは軽はずみに長男の権利を弟ヤコブに譲ってしまったために、神の選びの民からはずれ、エドム人の祖先になったことが書かれています。

35章27節からは、きょう注目するもう一つの人間の死、族長イサクの死について短く描かれています。【27~29節】。ヤコブの父であるイサクについては、28章でヤコブをパダン・アラムのラバンのところに送りだした姿が最後で、それ以後は登場していません。27節にあるように、ヤコブはエルサレムの南ヘブロンで20数年ぶりに父と再会することになります。でも、その父と子の久しぶりの再会のことについては何も書かれていません。ただ、父の死とその葬りのための再会であったかのようです。

では、イサクの180年の生涯はどうであったのかを簡単に振り返ってみましょう。彼は少年のころ、父アブラハムによって燔祭の薪の上に横たえられました。彼が60歳の時に妻リベカとの間に生まれた双子の子エサウとヤコブが成長してからは、長男の特権をめぐっての彼らの争いに巻き込まれ、年老いて目がかすんでいた父イサクは妻リベカとヤコブの共謀によってだまされ、間違って弟のヤコブを祝福してしまいました。そして、最終的にはヤコブを遠くの地へと送り出さなければなりませんでした。イサクの生涯は、3人の族長の中では、どちらかと言えば消極的な生き方で、周囲によって強い影響を受け、自分では決断しない生き方であったと言えるのかもしれません。

でも、イサクの生涯を満たすのは彼自身ではありません。彼の生涯の功績とか、彼の指導力や行動力ではありません。主なる神が彼の生涯を満たし、彼の180年のすべての日々を導き、祝福し、彼の失敗をも成功をもすべて神の救いのご計画の中で用いてくださったのです。イサクの生涯もまた神の救いの歴史の中の1ページなのです。

エサウとヤコブが父イサクを葬ったと書かれていますが、この双子の兄弟は父の死によって本当の意味で和解したということを、わたしたちはここで読み取ることができるのではないでしょうか。二人の和解についてはすでに33章に書かれていましたが、二人はそれぞれまた分かれて、エサウは死海の南セイルの地へと帰って行き、ヤコブはヤボク川の近くのスコトに家を建てて住んだと33章に書かれていました。その二人が今父の死という厳粛な事実を契機にして、しかしまた父の死の悲しみを超えて、またここで出会い、共に父を葬ることによって、エサウとヤコブは一緒になって神の救いのご計画の1ページをつづっているのです。

 族長アブラハムは死にました。今イサクも死にました。ヤコブもやがて死にます。しかし、アブラハム、イサク、ヤコブの神は永遠に彼らの神であり続けられます。主イエスはマタイ福音書22章32節でこう言われました。「『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。」神はアブラハムと結ばれた契約を、その子イサクに、またその子ヤコブに更新されました。神の約束のみ言葉は彼らの死によっても廃棄されることはありません。彼らの死を超えて有効に更新されます。神の命のみ言葉とその救いのご計画は、彼らの死を超えて永遠に継続されていきます。終わりの日にみ国が完成される日に、神は彼ら族長たちに約束の成就を見せてくださるでしょう。それゆえに、アブラハム、イサク、ヤコブは永遠なる神によって、復活の命を確かに約束されているのです。主イエス・キリストの十字架と復活の命は、信じる人すべての死を超えて、わたしたち一人ひとりにも約束されているのです。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ,あなたが天地創造の時からお始めくださった永遠なる救いの歴史を、み子主イエス・キリストによって完成させてくださることを、わたしたちは信じます。この世界や人間たちの繰り返される罪や悪を超えて、あなたの永遠の救いのみ心が実現されていくことを信じます。

〇願わくは神よ、この世界と、そこに住む人間たちを顧みてください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA