3月19日説教「パン五つと魚二匹で五千人を養われた主イエス」

2023年3月19日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:申命記8章1~10節

    ルカによる福音書9章10~17節

説教題:「パン五つと魚二匹で五千人を養われた主イエス」

 

 福音書の中には主イエスがなさった奇跡のみわざが数多く記されています。奇跡は、主イエスが神のみ子であり、神の全能のみ力によって自然や被造物を支配しておられることの目に見えるしるしです。主イエスがわずかなパンと魚で多くの群衆を養われ、彼らが満腹し、残ったパンのくずを集めるといくつものかごがいっぱいなったという奇跡は、主イエスの奇跡の中でも特殊な性格を持っています。この奇跡は共観福音書と言われるマタイ、マルコ、ルカ福音書に共通しているとともに、ヨハネ福音書にも記録されています。4つの福音書すべてに書かれている奇跡はこのパンの奇跡だけです。

それだけでなく、五つのパンと二匹の魚で五千人を養ったという奇跡が4つの福音書に共通しているだけでなく、マタイとマルコ福音書には他に、七つのパンと小さな魚わずかで四千人を養ったという奇跡があります。ということは、似たようなパンの奇跡が4つの福音書に2種類、計6つあることになります。主イエスと弟子たちにとって、また初代教会にとってこのパンの奇跡がいかに印象的深い出来事であり、また大きな信仰的意味を持つ奇跡であったかということが推測できます。

主イエスのパンの奇跡を正しく、また深く理解するために、旧約聖書に記されている同じような奇跡をいくつか取り上げてみたいと思います。一つは、イスラエルの民がエジプトの奴隷の家から救い出されたのち、荒れ野を旅した40年期間、天からの不思議な食べ物マナによって養われたという奇跡です。出エジプト記16章にマナの奇跡について詳しく書かれています。何万人もの人が、40年もの長い年月、何もない荒れ野で、天から不思議な食べ物マナによって養われ、だれも飢えることなく、神の約束の地カナンに着いたという出来事は、エジプト脱出の奇跡と紅海の水が二つに割れて無事に渡ることができたという奇跡に続く、驚くべき奇跡でした。

また、紀元前9世紀の預言者エリシャが、飢饉のときに、大麦のパン20個で100人の人を養って食べさせ、なおも食べきれずに残りがあったと、列王記下4章42節以下に書かれています。似たような奇跡は旧約聖書の中にほかにも記されています。

これらの旧約聖書に記されているパンの奇跡も、主イエスによるパンの奇跡も、わたしたちはこれを科学的・合理的に理解したり、説明したりすることはできませんし、すべきでもありません。どのようにして、わずかなパンで何千人もの人が食べて満腹させることができたのか、また、何万人もの人が40年間も荒れ野でどうやって食べ物を手に入れることができたのか。これはわたしたち人間の知恵や知識では理解できません。それは神の奇跡であり、そこには不思議な神の力が、神の大きな恵みがあったのだと言うほかありません。わたしたちはこれらの奇跡を信仰をもって読まなければなりません。神はこれらの奇跡でわたしたちの信仰を求めておられるのです。わたしたちはこれらの奇跡から、わたしたちの造り主であり、救い主であり、わたしたちの魂と肉体の全体を養い育ててくださる生ける神、命の主なる神との出会いを経験することが求められているのです。

もう一つ、主イエスのパンの奇跡を読む際に注意すべき点は、主イエスは人間の腹を満たすためだけにパンを増やされたのでないということです。すでに4章に書かれていたように、主イエスは悪魔によるパンの誘惑に対して勝利しておられます。悪魔は、「石をパンに変えよ」と誘惑しますが、主イエスは、「『人はパンだけで生きるものではない』と書いてある」とお答えになりました。わたしたちはパンを食べ、おなかを満たすことによって本当に生きた人間になるのではなく、神の口から出る一つ一つのみ言葉を聞き、それを信じることによってこそ生きるのだということを、主イエスは教えておられます。主イエスは地上の食糧問題や飢餓問題を解決する王としてこの世においでになったのではなく、神の命のみ言葉によって生きる神の国の王としておいでになられたのです。

ではまず、10~11節を読みましょう。【10~11節】。9章の冒頭で主イエスによって宣教のために派遣された弟子たちが帰ってきて、主イエスに報告します。弟子たちは主イエスによってこの世から呼び集められました。そして、この世へと派遣されます。再び、主イエスのもとに呼び集められます。このように、招集、派遣、そして再び招集、派遣、これが繰り返されていくのが教会の民です。わたしたちは主の日ごとに主イエスによって教会の礼拝に呼び集められます。主イエスに一週間の信仰の歩みを報告します。自分のみすぼらしい破れだらけの歩みを主イエスのみ前にさらけ出し、悔い改め、罪のゆるしのみ言葉を聞き、新たな力を与えられて、礼拝からこの世へと再び派遣されていきます。わたしたちはこれを繰り返しながら、神の国の完成を待ち望んでいるのです。

主イエスが弟子たちとガリラヤ湖の東側のベトサイダの町に退かれたのが何のためであったのかはここには書かれていません。おそらく、祈るため、あるいは休息するためであったと思われます。でも、群衆があとについてきたために、主イエスは彼らを迎え入れ、神の国の福音を説教されました。58節に書かれているように、「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない」と主イエスは言われました。主イエスは救いを必要としている人がいる所では、昼も夜も休みなく働かれます。弟子たちも同様です。

このあとで行われるパンの奇跡が、主イエスの神の国の説教に続いていることに注目したいと思います。主イエスの到来とともに神の国が始まっています。神の愛と恵みのご支配、救いの時が始まっています。主イエスは神の国の王であられます。信じる人たちを神の国にお招きになります。その来るべき神の国の王として、神の国での永遠の命をお与えくださる王として、主イエスはパンの奇跡を行われるのです。

【12節】。群衆は時がたつのも忘れるほどに熱心に主イエスの説教に聞き入っていたのだと思われます。「人里離れた場所」とはだれも住んでいない寂しいところ、荒れ野を意味します。先ほど紹介したイスラエルの民の荒れ野の旅を思い起こさせます。そこには、人間が生存するために必要なものが何もありません。

そこで、弟子たちは群衆を解散させることを提案します。群衆は長い時間、主イエスのあとについてきました。このままでは疲労と空腹で倒れてしまうかもしれません。めいめいが自分で食べ物を手に入れ、また休息できる場所を探すのがよいと弟子たちは考えました。弟子たちのこの考えは群衆に気をつかった、彼らのための提案のように思われました。それが現実的な解決策のように思われました。けれども、主イエスは弟子たちのこの提案を拒否なさいました。

【13節a】。主イエスは群集を解散させることをお許しにはなりませんでした。弟子たちが彼らの手で群衆に食べ物を与えるようにとお命じになりました。わたしたちはここで二つのことに気づかされます。一つは、空腹や疲労といった人間の肉体的な欲求を満たすために、弟子たちが勝手に主イエスのみ前から群衆を解散することは主イエスのみ心ではないということです。主イエスのみ前に集められた群れは主イエスのご支配のもとにあります。だれかがこれを勝手に動かすことはできません。主イエスのご支配のもとにある群れは主ご自身がその肉体もその魂をも支え、配慮してくださるのだということです。主イエスのもとで、神の国の福音を聞き、それによって魂の救いと平安を得るけれども、肉体の飢えや疲れをいやすのは別の場所で別の方法で行わなければならないというのではなく、魂も肉体も含めわたしの全体が主イエスによって神の国へと招き入れられているのだということです。それゆえに、群集がパンを得るために主イエスのみ前から解散させられることを、主はお許しにならなかったのです。

もう一つの点は、ここで弟子たちは自分たちの責任を放棄することなく、群集のためになすべき奉仕をなすように求められているということです。弟子たちは現実的な解決策を提案したつもりでしたが、それは主イエスの弟子として、この世に遣わされている使徒としての責任を放棄することになるのです。弟子たちは主イエスと共に、神の国の福音のために奉仕する責任と務めとを与えられているのです、またそうする権能と賜物とを与えられているのです。

ところが、弟子たちはそのことを理解していませんでした。彼らは自分たちの貧しさを嘆いています。【13節b】。パン五つとと魚二匹は主イエスと12弟子一行の一食分だったと思われます。それだけで何千人もの群衆を養うことなどできるはずがないと彼らは言います。自分たちの限界や無力さを嘆くほかにありません。けれどもそれは、自分にはこれだけしかない、これしかできないと言って、自分たちが持っているものを自分たちの手の中で握りしめていることになるのだということを、彼らはやがて知らされます。自分にある能力や財力、時間、体力、それらを自分だけのものにして、自分の手の中にしっかりと握りしめて、手放そうとしない。そこには、奇跡は起こらないのです。神から与えられている恵みの賜物に気づかず、それに感謝しない、それを自分の手に握りしめ、神と隣人のために手放そうとしない、それどころか自分だけのためにもっと欲しがる。そこには神の奇跡は起こりません。

しかし、主イエスがそれを感謝し、祝福し、弟子たちに渡して群衆に配らせたときに、奇跡が起こりました。【16~17節】。弟子たちが不足を嘆き、自分たちの手の中に握りしめていたものを、主イエスは群衆のためにお用いになります。主イエスはそれを手に取り、それを感謝し、祝福され、それを弟子たちに配らせ、群衆がそれを食べました。その時、奇跡が起こりました。弟子たちは主イエスの奉仕者として群衆のために仕えました。その時、奇跡が起こりました。五千人以上もの群衆がみな満腹し、食べ残ったパンの屑が12のかごにいっぱいになったと書かれています。主イエスによって分かち与えられた恵みの豊かさ、大きさが強調されています。

この場面には、のちの教会によって受け継がれてきた聖餐式との共通性が指摘されています。16節の、「主イエスが取る」「賛美の祈りを唱える」「裂く」「弟子たちに渡す」、これらの動作は22章19節の主イエスと弟子たちの最後の晩餐の場面、また、使徒パウロが聖餐式の伝承として伝えているコリントの信徒への手紙一11章23、24節の聖餐式の制定語の動作ともほぼ一致しています。初代の教会は主イエスのパンの奇跡に聖餐式の原型を見ました。主イエスが十字架でご自身の神のみ子としての聖なる罪のないお体と、清く尊い御血とをおささげくださったことにより、わたしたちすべての罪びとの魂と体とを完全に罪と滅びから贖ってくださったことを、聖餐式によってしるしづけ、確かにしたのです。それによって、主イエスがわたしたちの魂と体を永遠にいのちのパンで養ってくださり、来るべきみ国での永遠の命の約束を確信したのです。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、わたしたちが朽ちるパンによってではなく、命のパンであるあなたのみ言葉を信じて生きる者とされますように。

〇主なる神よ、あなたはわたしたちの魂の救い主であられるだけでなく、わたしたちの体の贖い主でもあられます、わたしたちのすべてはあなたのものです。わたしの魂のすべてと、わたしの体のすべてとをささげて、あなたのご栄光のために、隣人の益のために、用いる者となりますように。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

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