3月26日説教「教会の迫害者から福音の宣教者に変えられたパウロ」

2023年3月26日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:イザヤ書6章1~8節

    使徒言行録9章10~22節

説教題:「教会の迫害者から福音の宣教者に変えられたパウロ」

 キリスト教会の熱心な迫害者であったサウロ、すなわちパウロは、キリスト者に対する脅迫と殺害の息を弾ませながら、エルサレムから北へ250キロメートルも離れたダマスコへと道を急ぎ、町の門の近くまで来たときに、突然に天からの強烈な光に照らされて、地に倒れました。そのとき、彼は復活された主イエスのみ声を聞きました。「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか。わたしは、あなたが迫害しているイエスである。起きて町に入れ。そうすれば、あなたのなすべきことが知らされる」(使徒言行録9章4、5節参照)。これが、迫害者パウロと復活の主イエスとの最初の出会いでした。

 この出会いは、ある日突然に、だれも全く予期しないときに、パウロ自身にとってはもちろん、彼を知る彼の周辺の人々にとっても、また使徒言行録を読み進んできたわたしたちにとっても、全く予期しなかったときに、全く予期しないかたちで、起こりました。パウロ自身の中には全く心の準備がなく、もちろん信仰を求める求道心があったわけではなく、いやむしろ反対に、キリスト教に対して敵対心を抱いていたときに、彼の意志に反して、天からの強力な光によって、復活された主イエス・キリストの一方的な選びのみ心によって、この出会いが起こったのです。

 パウロは地に倒され、目が見えなくされ、だれかに手を引いてもらわなければ、自分では歩けない状態でした。パウロはここでは全く受け身であり、彼の意志や手足はすべて縛られ、束縛されており、ただ復活された主イエスだけが行動しておられるということに気づかされます。ここに、パウロの回心と一般に言われる主イエスとの最初の出会いの出来事の中心的な意味が暗示されているように思われます。これまでのパウロ、キリスト教会を迫害し、主イエス・キリストの福音に敵対していたパウロが地に倒されて死に、これまでユダヤ教の律法を基準にして生きてきた古いパウロが死に、今新たにパウロを捕らえた復活の主イエスの力と恵みによって立ち上がり、主イエスの福音の命によって生きていくパウロの歩みが、ここから始められようとしているのです。

 9節に、「サウロは三日間、目が見えず、食べも飲みもしなかった」と書かれていますが、この三日間は、これまでのユダヤ教徒・ファリサイ派のパウロ、律法によって生きてきたパウロの過去の一切が葬り去られ、彼が全く新しくされて、主イエス・キリストの復活の命によみがえらされるための準備の期間だったと言えます。11節には、「今、彼は祈っている」と書かれています。パウロがこの三日間を断食と祈りで過ごしていたことが分かります。断食と祈りは、人間が自分の意志や欲望また行動を中止して、ただ神だけが行動され、神がみわざをなさるために人間が待機する行為です。断食と祈りによって、神から与えられる新しい使命に備えるという例は聖書の中にしばしば描かれています。のちに、パウロとバルナバがアンティオキア教会から第一回世界伝道旅行に派遣されるときにも、教会全体で断食と祈りをしたことが13章3節に書かれています。パウロは断食と祈りによって、神から与えられる新しい福音宣教の使命に就くための準備をしていたのです。

復活の主イエスは目が見えなくなったパウロの目を再び開くために、そして教会の迫害者であったパウロに新しい使命を授けるために、ダマスコにいたアナニアという弟子をお用いになりました。【10~12節】。アナニアは弟子と言われていますから、ダマスコに住んでいてすでにキリスト者となっていました。ということは、彼はパウロの迫害の対象者であったということになります。もしかしたら、パウロによって捕らえられ、エルサレムに連れていかれて死刑にされていたかもしれないアナニアが、今パウロが再び見えるようになり、のちに偉大なキリスト教会の宣教者とされていくための奉仕者として用いられるという、全く不思議な神の奇跡のみわざがここで起こっているのです。

10節からの文章で「主」と書かれているのは復活された主イエス・キリストのことです。「幻の中で」とは、アナニアが眠っているときに夢で見たのか、それとも起きているときの何らかの体験なのかははっきりしませんが、12節では目が見えないパウロもまた祈っているときに「幻で見た」と言われているように、アナニアとパウロは幻の中で同じことを見ていたことになります。すべてのことは復活された主イエスがなさるみわざです。パウロの回心と一般に言われているこの場面では、最初から最後まで、すべては復活の主イエスが行動しておられます。これがパウロの回心の中心的な内容であり、意味なのです。こののち、彼が福音宣教の使徒として生きていく彼の生涯においても、すべては復活の主イエスが彼の中にあってお働きくださるのです。「生きているのは、もはやわたしではない。主キリストはわたしのうちにあって生きておられるのだ」と彼が告白しているとおりです(ガラテヤの信徒への手紙2章20節参照)。

けれども、アナニアにとっては復活の主イエスのご計画は直ちには信じがたいことでした。【13~14節】。アナニアはパウロの迫害のことについてすでに他のキリスト者仲間から聞いていました。パウロがキリスト教会にとっていかに危険な人物であり、恐ろしい敵であるかをよく知っていました。そのような人物のために自分が何らかの手助けをしなければならないということは、アナニアには信じがたいことであったのは当然です。

けれども、復活の主イエスのご計画はアナニアの考えや彼の恐れと心配をはるかに超えていました。【15~16節】。ここには、復活の主イエスとパウロの出会いの出来事、パウロの回心と言われる経験の、中心的な三つの意味が語られています。一つは、パウロが復活の主イエスと出会ったのは主イエスの選びによるということ。第二には、主イエスはひとたび地に倒れて死んだパウロに新しい務めをお授けになるということ。第三に、その新しい務めにおいて、キリスト教会の迫害者であったパウロが、これからは自らが迫害を受ける側になるであろうということ。

第一の点について、少し詳しく見ていきましょう。15節の終わりで、主イエスは、「わたしが選んだ器である」と言われました。主イエスご自身が迫害者パウロを福音宣教者パウロとして選ばれ、その務めへと召されたのです。しかし、ここにはなぜパウロが選ばれたのかについては全く言われていません。なぜ迫害者パウロなのか、そのことをわたしたちはぜひとも知りたいのですが、何も説明されていません。選ばれたパウロの側の条件とか資格とかには全く関係なく、主イエスご自身の自由な選びなのです。主イエスはその自由な選びによって、無から有を呼び出だすように、というよりは、マイナスから無限のプラスを生み出すようにして、信仰者をお選びになるのです。それゆえに、選ばれた側には、何ら誇るべき理由はなく、ただ恐れと感謝とをもって、主イエスの選びを受け入れることができるだけです。のちにパウロはコリントの信徒への手紙二15章8節以下でこう言っています。「そして最後に、月足らずで生まれたようなわたしにも現れました。わたしは、神の教会を迫害したのですから、使徒たちの中でもいちばん小さな者であり、使徒と呼ばれる値打のない者です。神の恵みによって今日のわたしがあるのです。そして、わたしに与えられた神の恵みは無駄にならず、わたしは他のすべての使徒よりもずっと多く働きました。しかし、働いたのは、実にわたしではなく、わたしと共にある神の恵みなのです」。

第二に、復活の主イエスと出会い、回心を体験したパウロは、主イエスから与えられた新しい務め、使命に生きるということです。「異邦人や王たち、またイスラエルの子らにわたし(主イエス)の名を伝える」、これがパウロの新しい使命です。彼がこれまで必死になって地上から消し去ろうとした主イエスのみ名を、これからのちは彼の全存在をかけて、命をかけて、すべての人に宣べ伝えるのです。この主イエスこそが、全世界の、すべての人の唯一の救い主であることを宣教するのです。

パウロの宣教の対象として「異邦人」がまず挙げられています。パウロは異邦人の使徒であることを強く意識していました。エルサレム教会を中心にしてユダヤ人の救いのために仕えていたペトロ、ヤコブなどの先輩の使徒たちを尊敬していましたし、彼自身もまた、先に神に選ばれた同胞の民イスラエルの救いのために熱心に働きましたが、彼らのかたくなさのゆえに、彼の宣教の対象は異邦人へと、広げられていったのでした。その使命を果たすために、パウロはのちに3回にわたって世界伝道旅行にでかけます。

次に「王たち」が挙げられます。この世の支配者たちに、すべての人が従うべき全世界の唯一の主は、イエス・キリストであることを説教します。当時世界を支配していたローマ皇帝の前でも、皇帝が主であるのではない、すべての罪びとのために十字架で死なれ、三日目に復活された主イエス・キリストこそがまことの主であると告白することがパウロの新しい使命です。

第三は、これまでは教会の迫害者であったパウロが、これからは自らが苦しみを経験し、迫害を受けるようになるであろうということです。この主イエスの予告はすぐにも実現します。23節以下に、パウロがユダヤ人から命をねらわれたことが書かれています。使徒言行録でこれから描かれるパウロの生涯は、主イエスのための労苦の連続です。コリントの信徒への手紙二11章23節以下では彼が経験した迫害について詳しく書いています。ユダヤ人から何度もむち打ちの刑に処せられたこと、石を投げつけられたこと、船で遭難して死にかけたこと、旅の途中で盗賊にあったこと、幾夜も眠られない夜を過ごし、時に飢え渇き、教会や信者のために祈り、労苦したこと、数え挙げればきりがありません。しかも、パウロは主イエスのために経験しなければならなかったこれらのすべての迫害と労苦を喜んで耐え忍び、それによって主イエスのみ名があがめられることだけを願ったのです。

アナニアは主イエスに命じられたとおりに、パウロが滞在していたユダの家に行き、パウロの上に手を置き、主イエスに命じられたままに、自分が遣わされた理由を語りました。すると、主イエスが言われたように、パウロの目が開かれ再び見えるようになりました。そして、パウロは洗礼を受けました。ここでも、行動しておられるのは主イエスご自身です。主イエスはご自身の救いのみわざを前進させるために、アナニアをお用いになり、使徒パウロをお用いになるのです。アナニアはここではその僕として仕えています。

「手を置いた」と書かれているのは按手のことです。按手は信仰者を新しい職務につかせるため、また天の神から聖霊の賜物を授けるしるしとして行われます。その時、パウロの「目からうろこのようなものが落ちた」と書かれています。パウロはこれまでは、ユダヤ教の律法を基準にして世界を見、自分を見ていました。律法の中に救いを見いだそうとしてきました。しかし、今再び目を開かれたパウロは、主イエス・キリストの福音を基準にして世界を見、自分を見るようにされたのです。主イエス・キリストの福音にこそ、自分が生きるべき目的、目標があり、基準があり、喜びがあり、希望があり、救いがあることを知らされ、主イエス・キリストと聖霊なる神がパウロの新しい生きる主体となったのです。主イエス・キリストと聖霊なる神が、彼の信仰の道のすべてを、彼の試練と苦難の道をも、彼の使徒としての働きと労苦の道をも、終わりの完成へとお導きくださるのです。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、あなたは教会の迫害者であったパウロを、主キリストの福音の宣教者としてくださいました。主なる神よ、あなたはまたいと小さな者であり、破れと欠けに満ちているわたしたち一人ひとりをもとらえてくださり、教会の民の中にお加えくださり、あなたの働き人としてお用いくださいます。どうかわたしたちにも聖霊の賜物を豊かに注いでください。喜んであなたと隣人とに仕える僕としてください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA