4月9日説教「主イエスの復活の証人となった婦人たち」

2023年4月9日(日) 秋田教会復活日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:詩編16編1~11節

    ルカによる福音書24章1~12節

説教題:「主イエスの復活の証人となった婦人たち」

 ルカによる福音書は主イエスという一人の人間の30数年の生涯を、伝記のような形式で描いています。誕生から始まり、12歳のころのエピソード、それからガリラヤ地方ナザレの家を出て、神の国の福音を宣べ伝えるためにイスラエルの各地を旅したこと、地上の最後の一週間をエルサレムで過ごし、十字架刑で死んだことへと筆が進められていきます。

 けれども、普通の伝記とは違った大きな特徴がいくつかあることに気づきます。まず、すぐに挙げることができる違いは、主イエスの伝記は彼の死のあとにも本文が続いているということです。一般の伝記は、その人の死で本文が終わり、あとは少しエピローグとして、死後のその人の影響や思い出について語られることがあります。

主イエスの場合には、死後にも復活の章と言われる、かなり長い24章が続いています。主イエスは死後に、葬られた墓から出て、復活されました。そして、多くの弟子たちに復活のお姿を現され、彼らと会話をされ、一緒に食事をもされました。これは、ほかのだれかの伝記では、決してあり得ません。

福音書のもう一つの特徴は、主イエスのご生涯はおよそ30数年でしたが、その最後の一週間についての記述が、福音書のかなりの部分を占めているということです。章で数えると、19章から24章まで、ルカ福音書全体の四分の一がエルサレムでの最後の一週間、特にその中心である十字架の死と復活のことが詳しく書かれているのです。

このことからも分かるように、主イエスの地上の30数年間のご生涯は最後の十字架の死と復活に向かっている、それを目指していると言えます。十字架の死と復活によって主イエスのご生涯は全うされる、完成されると言ってもよいでしょう。そしてさらに言うならば、そのような主イエスのご生涯のすべての歩みが、わたしたち罪びとのための歩みであり、わたしたちを罪から救い出すための歩みであり、主イエスの十字架の死と復活によって、わたしたちのための救いのみわざもまた全うされ、成就されたということを福音書は語っているのです。

そのことから分かるもう一つの特徴は、ルカ福音書は、ほかの3つの福音書の場合もすべてそうですが、主イエスの十字架と復活という事実から、その事実をもとにして、主イエスの伝記である福音書の記述が始まっているということです。極端に言えば、十字架と復活がなければ、福音書は書かれることはなかったであろうということです。主イエスの十字架の死と復活があり、その主イエスがそののちも、今日に至るまで生きておられる、ご自身の救いのみわざを続けておられる、その事実と信仰があって、福音書が書かれているのだということです。

では、「復活の章」と言われる24章のみ言葉を読んでいきましょう。【1節】。この文章の主語は、前の23章56節から続いている「婦人たち」です。『新共同訳聖書』は物語りの流れを考えて、23章56節から24章1節へと続けていますが、本質的には、というか、福音的に理解すれば、23章56節と24章1節の間には安息日という丸一日の時の経過があり、その安息日までの過去の一週間と、24章1節から始まる一週間とは、全く違った新しい時が始まるということをルカ福音書は強調しているのです。

つまり、ユダヤ教が重んじた安息日である土曜日は、この23章56節の安息日で終わった、24章1節からの週の初めの日、すなわち日曜日からは、全く新しい主イエス・キリストの復活から始まる、教会の新しい安息日である日曜日が始まるということなのです。

「初めの日」という言葉は、創世記1章1節の「初めに、神は天地を創造された」という言葉を思い起こさせます。神が天地万物と人間を創造されることによってお始めになった世界の歴史、人間の歴史が、今主イエス・キリストの復活によって新しい世界の歴史、人間の歴史として始められるのです。今聖書を読んでいるわたしたち一人一人が、この新しい歩みの中へと招き入れられているということをルカ福音書は告げているのです。

この時主イエスの墓に向かっている婦人たちは、まだそのことには気づいてはいません。彼女たちは主イエスの亡骸(なきがら)に香油を塗るために墓に行きました。ユダヤ人の習慣では、人が亡くなった場合、墓に葬る前に体に香油を塗るのですが、主イエスの場合には十字架上で息を引き取られたのが金曜日の午後3時過ぎであり、日没から安息日・土曜日になり、何の仕事もしてはならないことになっていましたから、日没前に急いでそのお体を十字架から降ろして墓に葬らなければならず、香油を塗る余裕がありませんでした。そこで、婦人たちは愛する主イエスに対する最後のご奉仕として、やり残しや最後のご奉仕をしようと、そのお体に香油を塗るために、安息日が終わってから墓へと急いだのでした。

ところが、彼女たちが墓についてみると、墓の石はすでにわきに転がしてあり、墓の中には主イエスのお体はありませんでした。【4~7節】。4節の「輝く衣を着た二人の人」とは、神から遣わされた天使たちのことです。天におられる神が地に住む人間にみ言葉をお語りになる際に、聖書ではしばしば天使の姿で現れます。したがって、5~7節は神がお語りになった神のみ言葉です。

主イエスの復活の知らせは、天の神から伝えられます。それが全能の父なる神のみわざだからです。天におられる神がご自身の永遠の救いのご計画を実行なさるために、ご自身の一人子を人の子としてこの世にお遣わしになり、その人の子なる主イエスの十字架と復活によって、わたしたちのための救いのみわざを成就されたのです。今、主イエスの復活によって空(から)にされた墓を見た婦人たちに対して、その神の救いのみ言葉が語られました。婦人たちは確かに主イエスをお納めした墓が空になっているという事実を目撃し、また主イエスは復活したという神のみ言葉を聞き、神の救いが成就したことを信じました。

神は墓を訪れた婦人たちに、「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか」と問いかけられました。婦人たちが主イエスの復活の知らせを信じ、神の救いのみわざの成就を信じるためには、彼女たちのこれまでの生き方や考え方が正されなければなりませんでした。彼女たちは亡くなった主イエスのお体に香油を塗るために墓にやってきました。しかし、それが死者のための奉仕であり、死に支配された世界での生き方であったことを、彼女たちは知らされます。彼女たちは死ぬべき人間のために仕えるのではなく、復活された方のために仕える者へと変えられていかなければなりません。死に支配されている朽ち果てるべき肉のパンのために生きるのではなく、復活の命に生きることへと招く神の命のみ言葉を信じて生きる者へと変えられていかなければなりません。死者に対する奉仕のために墓を訪れた婦人たちは、今や、主イエスの復活のメッセージを携えて、墓から帰って行くのです。彼女たちは全く新しい人へと造り変えられています。創世記1章で、初めに天地万物と人間とを創造された神が、今新しい週の初めの日、日曜日の朝に、主イエス・キリストの復活のメッセージを携えて、死の墓から出て、死から命へと向かう道へと急ぐ新しい人を再創造されたのです。

【8~12節】。主イエスの復活の最初の証人となった婦人たちの名前が10節に挙げられています。古代社会では一般に女性の社会的地位は高くなく、法廷での証言は取りあげられませんでした。ところが、聖書では、特にルカ福音書では女性の活躍が目立ち、重要な働きが託されている場面が多くあるのを確認することができます。しかもここでは、主イエスと長年行動を共にしていた12弟子たちと婦人たちとが対比されています。社会的地位が高く、証言能力も認められ、しかも主イエスと最も近くにいた弟子たちが、「たわ事のように思われ、信じることができなかった」のに対して、弱く、貧しく、能力のない婦人たちの方が男たちよりも先に復活の証人として選ばれ、その神のみ言葉を信じ、また主イエスの復活の証人として男たちに語り伝えているのです。

ここには、神の選びの不思議があります。神は主イエスの復活の証人という重要な役割を果たすために、社会的地位や人間的な知恵、能力を誇ることができる人をではなく、力弱く、貧しく小さな人をお用いになりました。それによって、いよいよ主イエスの復活の事実が、人間の側からではなく、神の側から、確かにされます。また、その出来事の偉大さがより強調されるのです。

婦人たちは主イエスの復活のメッセージを携えて墓から立ち去りました。このことは,象徴的な意味を持っています。これまでは、すべての人間の歩みは墓に向かっていました。死に向かっていました。けれども、主イエスの復活が起こったこの時からは、わたしたちの歩みは墓から出て、復活の命へと向かっていきます。わたしたちの罪のために十字架で死んでくださった主イエスによって、わたしたちの罪は完全に贖われ、救われています。そして、罪と死とに勝利され、復活された主イエスを信じる信仰によって、わたしたちは新しい復活の命へと向かう道へと歩みだすのです。もはや罪と死とに支配されることのない、自由と感謝と喜びをもって神と隣人とに仕えて生きる道へと歩みだすのです。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、わたしたちを罪と死と滅びから救い出してくださり、主イエスの復活の命に生きる道をお備えくださいましたことを心から感謝いたします。どうか、生涯を終えるまでこの道を歩ませてください。どのような困難や試練、苦しみの中でも、希望と喜びを失うことなく、復活の主イエスと共に歩ませてください。そして、終わりの日の神の国における救いの完成へとお導きください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

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