6月30日説教「教会はキリストのからだ」

2024年6月30日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

    『日本キリスト教会信仰の告白』連続講解(33)

聖 書:詩編100編1~5節

    エフェソの信徒への手紙4章7~16節

説教題:「教会はキリストのからだ」

 『日本キリスト教会信仰の告白』をテキストにして、わたしたちの教会の信仰の特色について学んでいます。印刷物の4段落目の文章、「教会は、キリストの体、神に召された世々の聖徒の……待ち望みます」。

この箇所は、キリスト教教理の大きなテーマでは「教会論」と言われます。後半の『使徒信条』では、4段落目、「わたしは、聖霊を信じます。聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪のゆるし、からだの復活、永遠の命を信じます」と、聖霊なる神を告白する箇所で、聖霊なる神のお働きとして、ごく簡単に教会論が取り扱われていますので、「前文」ではそれを補うかたちで、より詳しく、教会とは何かについて告白されていると考えられます。

実は、1890年(明治23年)の『(旧)日本基督教会信仰の告白』ではこの箇所は全部欠けていました。つまり。1953年に制定された『(新)日本キリスト教会信仰の告白』で初めてこの教会論が付け加えられたということになります。その背景には、戦時中、日本のキリスト教会が国家の戦争政策に迎合し、アジアへの侵略や無謀で残忍な世界制覇の野望を持つ、悪魔化していった国家に対して、何ら抵抗することができなかったという、その大きな原因が、自分たちの教会論が弱かったからだという反省があったと思われます。教会とは何か、また教会と国家との関係をどのように考えるべきかという神学的な理解が貧しかった、そのことに戦時中の教会の誤りがあったのではないかという反省が、1953年の『信仰告白』の中で自覚され始めたと言えます。そして、その反省が、1983年に採択された『現代日本の状況における教会と国家に関する指針』となり、また1990年に決議された建議案「『韓国・朝鮮の基督教会に対して行った神社参拝強要について罪の告白と謝罪』を表明することに関する建議案」へとつながっていきました。

 教会とは何かを論じる「教会論」は、わたしたち一人一人の信仰の母なる存在である教会とは何であるのかを考えることであり、また同時に、日本キリスト教会が、この日本の地で、またアジアと世界の中でどのような教会形成を目指していくのかという、大きな課題と取組むことでもあるのです。

 教会は、新約聖書のギリシャ語ではエクレーシア、旧約聖書のヘブライ語ではカーハール、またはエーダーという言葉ですが、これらはいずれも、呼び出された人々、集められた会衆という意味を持っています。教会堂や礼拝堂という建物を指す言葉ではありません。実際、エジプトの奴隷の家から導き出されたイスラエルの民は、荒れ野の40年間の旅路においては定まった建物はもっていませんでした。エルサレムに誕生した初代教会も、当初は神殿の庭や教会員の家々で礼拝をしていました。「主イエスのみ名によって二人、または三人が集まっている所にわたしもいる」と主イエスが言われたように、主イエスを信じる信仰者が共に集い、主なる神を礼拝し、共に信仰の交わりに生きている所、それが教会です。神はこの教会を形成するために、わたしたち一人一人を、この世から選び分かち、ご自身のみ前に呼び集めてくださったのです。

 『信仰告白』ではそのことが「神に召された世々の聖徒の交わりであって」と告白されており、後半の『使徒信条』では「聖徒の交わり」と表現されています。教会とは、そこに集められているわたしたち一人一人のことなのだと言ってもよいでしょう。教会とは何かを考えることは、わたしの信仰とは何か、信じているわたしとは何者なのかを考えることだと言ってもよいでしょう。

 では、きょうは教会について告白している最初の箇所、「教会はキリストのからだ」という告白について学んでいきます。「教会は主キリストのからだである」という表現は、福音書の中にはありませんが、パウロ書簡などで何度も用いられており、その内容は多様であり、深い意味を持っていますので、今回と次回で学ぶことにします。いくつかのポイントを挙げて学んでいきましょう。

 第一点は「キリストのからだ」、すなわち「キリストの」であり、他の何かのではなく、また他のだれかのでもないということです。このことが、教会とは何かを考える上での、基礎であり、原点であり、また全体でもあり、最も重要なポイントです。教会は人間の集まりであり、主イエス・キリストを信じている信仰者と、またその信仰を求めている人たちの集団なのですが、教会はいかなる意味においても、人間が主体の、人間に所属するものではなく、また人間の何らかの目的を達成するための組織やグループではなく、主イエス・キリストのものであり、主イエス・キリストに属するものであり、主イエス・キリストの救いのみわざを証しし、実現し、その救いの恵みを共に分かち合うための信仰共同体としての「主キリストのからだ」だということです。

 先ほども確認しましたように、教会・エクレーシアとは、神によって召し集められた人たちのことであり、主イエス・キリストの福音のもとに呼び集められた共同体ですから、教会の本来の主体は主なる神であり、わたしたちの救い主である主キリストです。わたしたち人間は常に受け身、受動態であり、呼び出された、呼び集められた、召し集められた人たちです。もちろん、わたしたちが教会に集まって来た動機や理由は様々あります。だれかに勧められ誘われて来た人もいるでしょう。何らかの真理を求めてきた人、人との出会いを求めてきた人、その動機は様々です。でも、わたしたちがのちに気づかされることは、それらの人間の側からの動機や理由のすべてをお用いになって、わたしを教会に呼び集め、わたしに信仰をお与えくださったのは主なる神であり、それらのすべてにおいて働いておられたのは、わたしのために十字架で死んでくださった主イエスご自身であったのだということです。

 教会は主キリストのからだですから、その頭、リーダーは主イエス・キリストであり、またそこで働いておられるのも、その群れを支配し、導いておられるのも、主イエスご自身です。わたしたちはいつどのような時でも、このことを決して忘れてはなりません。教会が豊かになり、繁栄し、この世に力と富を誇ることができるほどの勢力になった時に、教会の本来の主から離れて、傲慢になって自らを誇ることがないために、また、教会が試練や困難に直面し、あるいは迷いや混乱の中にあって道を見失いそうになった時にも、決して希望を失うことなく、なおも勇気をもって前進していくことができるためにも、教会の主であられる神に、教会の頭であられる主イエス・キリストに目を注いでいなければなりません。

 第二点は、「教会はキリストのからだ」、すなわち「からだ」であるという点です。志を同じくする同志の仲間、グループとかではなく、また会費を支払って何らの特権を取得する組織体というのでもなく、「からだ」を形成する一つ一つの器官としてわたしたちは集められているということです。

 「からだ」という言葉は、わたしたち人間の肉体を意味しています。頭があり、目や耳があり、手足があり、さらに細かな細胞によって出来上がっているわたしのからだのように、あるいは、指にとげが刺さればその痛みが全身に走るように、時に病んだり、傷ついたりして、わたしの心と体全体がそれによって揺さぶられたり、時として死ぬほどのダメージを受けたりするそのようなわたしの体と同じだということです。しかし、もちろん人間の体のことではありません。あくまでも、主キリストの「からだ」です。

 パウロは「からだ」という表現の中に多くの意味を込めて用いています。その原点にあるのは、天におられる神が人となって地に降ってこられ、人間のお姿でこの世においでくださったという、神のみ子の受肉に、主キリストのからだである教会の原点があるということです。天地創造以来の神の永遠の救いのご計画の、いわば最後の仕上げとして、神のみ子をこの世に遣わされました。み子の十字架と復活によって、全世界のすべての人のための救いを成し遂げられました。そのみ子の救いのみわざが、み子のからだである教会において継続されるのです。

 では次に、主イエス・キリストご自身のお体のことを考えてみましょう。主イエスは聖霊によってマリアの胎に宿り、ヨセフとマリアを親としてお生まれになり、ガリラヤ地方のナザレでお育ちになりました。30歳ころから公の宣教活動に入られ、おそらく3年間にわたって神の国の福音を宣べ伝えられ、時に空腹を覚えられ、時に徹夜で祈られ、時に涙され、時に怒られ、そして最後に十字架刑で裁かれ、墓に葬られました。三日目の朝に墓から復活され、40日間にわたって弟子たちに復活のお体を現わされ、それから天に昇られ、天の父なる神のみもとへとお帰りになり、今もとこしえまでも父なる神の右に座しておられます。今は天に移された主イエスのお体が、地上で目に見えるかたちでこの世に現在しているのが教会なのです。

 パウロはコロサイの信徒への手紙1章24節でこのように書いています。「今やわたしは、あなたがたのために苦しむことを喜びとし、キリストの体である教会のために、キリストの苦しみの欠けたところを身をもって満たしています」。パウロはここで、「キリストの体である教会」という言葉で、主イエス・キリストの十字架につけられたお体を考えていると推察できます。教会は十字架につけられた主キリストの体が目に見えるかたちでこの世に現在していると言ってよいでしょう。主キリストのご受難と十字架の死の体を、この世に具体化しているのが教会なのだと言ってよいでしょう。教会は主イエス・キリストが歩んだ道を歩み、主イエスと同じ経験をするのです。

 また、同じ手紙の1章18節以下ではこのように書かれています。【18~20節】(369ページ)。教会は主イエスのご受難と十字架の死のお体をこの世に目に見えるように具体化していくとともに、また、復活された主イエスを頭として与えられている教会は、復活された主イエスのお体を、この世に具体化していくのです。罪と死とに勝利しておられる主キリストが目に見えるようなかたちでこの世に存在しているのが教会です。

 最後に、エフェソの信徒への手紙4章7節以下のみ言葉に目を向けましょう。

12節に「こうして、聖なる者たちは奉仕の業に適した者とされ、キリストの体を造り上げてゆき」とあります。また15節では、【15節】と書かれ、さらに16節には【16節】とあります。

主キリストの体である教会の一員とされているわたしたち一人一人が、みなそれぞれに主キリストの体を形成していくための奉仕に召されているのであり、またその奉仕によって、主キリストの体である教会が成長し、わたしたち一人一人の信仰もまた成長していくのです。

(執り成しの祈り)

○天の父なる神よ、あなたは罪のこの世を顧みて、み子をお遣わしになりました。また、み子を十字架の死に引き渡されるほどに、わたしたち罪びとたちを愛されました。どうか、み子の体なる教会をとおして、あなたの愛と救いの恵みを、この世界とすべての人たちにお与えくださいますように。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

6月23日説教「ヘロデ王による迫害と教会の祈り」

2024年6月23日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)
聖 書:出エジプト記13章3~10節
    使徒言行録12章1~5節
説教題:「ヘロデ王による迫害と教会の祈り」

 使徒言行録12章から、紀元1世紀の初代教会の歴史にとっての新しい展開が始まります。新しい展開とはいっても、それは教会にとって必ずしも好ましい展開とは言えないものですが、それは国家権力による教会の迫害という事態です。わたしたちはこれまで、世界最初の教会として誕生したエルサレム教会が経験した何回かの迫害について聞いてきました。それらの迫害は、どちらかと言えば、サドカイ派やファリサイ派からの告発による、ユダヤ教内部からの迫害でした。主イエス・キリストの十字架の福音を信じる教会の信仰は、ユダヤ教にとっては、彼らが最も大切にしている律法を軽視し、ユダヤ人の伝統を無視する異端的な教えだと考えられていましたから、ユダヤ教の指導者たちは自分たちの教えを守るために教会を迫害したのでした。
 使徒言行録4章には、使徒ペテロとヨハネが捕らえられ、ユダヤ最高法廷で裁判を受けたことが、また5章では使徒たち数人が獄に監禁されたことが、6章ではエルサレム教会の指導者ステファノの逮捕と、7章終りには教会の最初の殉教者となったステファノの死が、そして8章にはエルサレム教会が経験した大迫害のことが書かれていました。
 けれども、教会は幾度の迫害によっても決して弱ることも立ち止まることもなく、かえって、大迫害によってエルサレム市内から追放された教会員がパレスチナや小アジア地方へと散らされることによって、主イエスの福音が全世界に宣べ伝えられ、各地に新しい教会が建てられていったということをも、わたしたちは聞いてきました。そのたびごとに、「神の言葉はこの世のいかなる鎖によっても決してつながれることはない」ということを、わたしたちは何度も確認してきました。
 ところが、この12章で、教会は新たな、より厳しい状況を迎えることになります。【1~2節】。キリスト教会が経験した迫害は、これまではユダヤ人の内部での宗教観の違いに由来した迫害だったと言えますが、ここで初めてより強大で、恐るべき敵である国家権力による迫害を経験することになります。しかも、主イエスの直弟子である12使徒の中から殉教者が出るという、衝撃的な出来事を経験することになります。誕生してまだ10年少しの若い初代教会にとって、それはどんなにか大きな打撃であったことか、どんなにか大きな危機であったことか。わたしたちはここでもまた、「神の言葉はこの世のいかなる鎖によっても決してつながれることはない」ということを確認することができるでしょうか。初代教会はこの危機をどのようにして乗り越えていくのでしょうか。
ヘロデ王とは、主イエス誕生の時にユダヤの国を治めてしていたヘロデ大王の孫にあたるヘロデ・アグリッパ一世です。ヘロデ大王は主イエスが誕生した際にベツレヘム周辺の2歳以下の男の子をみな殺せと命じたことからも分かるように、悪名高い、残忍な王として恐れられていましたが、彼の孫であるヘロデ・アグリッパ一世はユダヤ人にもローマ政府当局にも評判がよく、国を治める能力もあったことから、紀元41年からはユダヤ全土を支配する権限をローマ政府から託されていました
 温厚で、王としての統治能力もあったヘロデ・アグリッパ一世が、なぜキリスト教会を迫害するようになったのか、使徒ヤコブを殺したのかについては使徒言行録には何も書かれていません。性格的にどんなに温厚で、政治的手腕に優れていたとしても、その支配者がキリスト教に対してどのような政策をとるかは、全く関連がないと言えましょう。この世の支配者は、ヘロデ大王がそうであったように、彼の孫であるヘロデ・アグリッパ一世もまた、ユダヤ人国家の最高の地位を手に入れた時に、その地位が少しでも危うくなることを恐れ、その地位に必死でしがみつき、キリスト教会に自らの地位を脅かされていると感じたのかもしれません。教会が信じている主イエス・キリストが永遠なる神の国の王であるという教えに、危機感を抱いたのかもしれません。神を恐れることをしないこの世の支配者たちは、いつの時代にも、その地位にしがみつくためにこの世の小さなものを恐れなければならなくなるのです。
 この時の迫害で殉教したヤコブは、マタイ福音書4章で最初の主イエスの弟子として召された4人のガリラヤ湖の漁師の一人です。ゼベダイの子ヤコブとヨハネ兄弟のヤコブであり、エルサレム教会で指導的立場にあった主イエスの実の弟ヤコブとは別人です。ゼベダイの子ヤコブとヨハネについては、マルコ福音書10章38節で主イエスはこのように言われました。「あなたがたはわたしが飲む杯を飲み、わたしが受ける洗礼を受けることができるか」。彼らは「できます」と答えました。主イエスがこの時に予告されたように、ヤコブは実際に12使徒の最初に、主イエスと同じ殉教の杯を飲むことになったのです。
 ヤコブの殉教について、紀元2世紀末ころの伝説が記録されています。それによれば、ヤコブがヘロデ王の審問を受けた時、彼は何ものをも恐れず、力強く主イエス・キリストを証ししたので、それをそばで聞いていたヤコブを告発ちたユダヤ人がその場で悔い改め、回心してキリスト者になった。そして、ヤコブと一緒に処刑され、殉教したと伝えられています。このエピソードが史実であるかどうかは確かではありませんが、自らがこの世の権力にしがみついていて、恐れと不安の中にいるヘロデ王と対比されるかたちで、主イエス・キリストの福音に生き、神のみ言葉に信頼するヤコブの勇気と大胆さ、そして自らの死をも恐れずヘロデ王の前で主イエス・キリストを証しする彼の力強い信仰を語るエピソードとして、興味深いものがあります。
 次に、3節以下を読みましょう。【3~5節】。ヘロデ王はユダヤ人の歓心をかうために、初代教会のリーダーであるペトロをも捕らえ、処刑しようとします。ペトロが捕らえられたのは除酵祭の時期であったと書かれています。除酵祭とはユダヤ人最大の祭りである過越し祭に引き続いて一週間行われるパン種が入っていない固いパンを食べる祭りを言いますが、この時代には過越し祭と同じ意味で用いられています。主イエスが十字架につけられたのも過越しの祭りの時期でした。23節に書かれているヘロデ王の死は紀元44年であったことがほぼ確定されていますので、ペトロの逮捕が同じ年であったとすると、紀元44年の3月から4月にかけてのころと考えられます。ヘロデ王は祭りのために集まってくる多くのユダヤ人にペトロの処刑を見せしめにしようとしていました。主イエスの十字架も同じ時期だったことをヘロデ王が知っていたかどうかは定かではありませんが、彼はこのようにして自らは気づかずに、過越しの祭りと主イエスの十字架の死と復活いう神の救いのみわざを指し示す役割を担うことになったのです。
 ヘロデ王は投獄したペトロを見張るために4人一組の兵士を4組、計16人の兵士を配備して監視させたと書かれています。牢から逃げ出す道も、牢の外から救出する道も、完全にふさぐという念の入れようでした。本人は全く武器を持たず、支援者もまた何らの力も勢力もない、小さな群れである教会を、ヘロデがなぜこれほどまでに恐れなければならなかったのか。ここにもまた、神なき世界に住み、神を恐れることをしないこの世の権力というものの、弱く、もろく、あわれな姿が浮かび上がっているように思われます。反対にまた、神を信じているペトロと教会の民に与えられている力と勇気とが、おのずと浮かび上がってくるようにも思われます。
 では、教会でのこの困難な事態にどう対処するのでしょうか。指導者ペトロが捕らえられ、使徒ヤコブと同じように処刑されるかもしれないというこの危機に、教会は何もなしえず、ただ黙って、遠くで推移を見守るほかにないのでしょうか。いや、違います。たとえ教会が窮地に陥り、何もなしえなくなったとしても、教会には祈ることだけはできます。ただ祈ることだけが、唯一の教会ができることです。否、むしろこう言うべきでしょう。教会はこのような時にこそ、祈ることができるのであり、祈ることが許されているのであり、また祈ることが命じられているのだと。そして、それこそが、教会できる最も大きな力強い行動であり、最も強力な抵抗であり、危機を乗り切る最も力強い戦いであるのだと。
 「ペトロは牢に入れられていた」。しかし、「教会では彼のために熱心な祈りが神にささげられていた」と5節に書かれています。その教会の祈りを神がお聞きにならないことなどあり得るでしょうか。わたしたちは旧約聖書でしばしば聞いています。詩編50編の詩人は歌っています。「悩みの日に、わたしを呼べ、わたしはあなたを助けると、神は言われる」。また、118編5節には、「苦難のはざまから主を呼び求めると、主は答えてわたしを解き放たれた」とあります。神は苦しみ悩みの中で主を呼び求める信仰者を決してお見捨てにはなさいません。
 新約聖書では、わたしたちは繰り返して主イエスご自身の祈りのお姿を見ています。十字架の直前に、ゲツセマネの園で徹夜の祈りをされた時には、「誘惑に陥らないように、あなたがたは目を覚まして祈っていなさい」と弟子たちにお命じになりました(マタイ福音書26章41節参照)。エフェソの信徒への手紙6章18節では、「どのような時にも、霊に助けられて祈り、願い求め、すべての聖な者たちのために、絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい」とも命じられています。祈りこそが、苦難の時、試練や迫害の時、信仰の戦いにとっての信仰者の最も力強い、最大の武器であり、敵の攻撃を防ぐ最強の盾です。信仰者は祈りによって、祈りをお聞きくださる主なる神によって、信仰の戦いに勝利するのです。
 事実、わたしたちは少し先の12節で、教会で祈りがささげられていたまさにその時に、ペトロが神の奇跡によって牢から解放され、祈っていた彼らの前にペトロが姿を現したというみ言葉を読むことができます。
 このようにして、教会はこの新しい国家権力による迫害とリーダーであるペトロの逮捕という緊急事態にも、決してあわてることも不安で心を閉ざすこともなく、共に祈ることによって力と希望とを与えられ、「神の言葉はこの世のいかなる鎖によっても決してつながれることはない」という信仰に生き続けたのです。わたしたちにもこの信仰が与えられています。
(執り成しの祈り)
○天の父なる神よ、あなたは苦難や試練の中にあって祈る信仰者を、決してお見捨てにはなりません。あなたはこの世のあらゆる抵抗や不信仰の中でも、あなたの救いのご計画をおすすめになります。主よ、この世界の中で、またこの国の中で、あなたを信じて祈る者たちの祈りを、いよいよ強くしてください。あなたの命のみ言葉の勝利をわたしたちに確信させてください。
○主なる神よ、重荷を負って苦しんでいる人、悩みや迷いの中で希望を失っている人、飢えや渇きによって倒れている人を、どうか顧みてください。あなたの助けのみ手を差し伸べてください。
主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

6月16日説教「救い主が到来した喜びと幸い」

2024年6月16日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)
聖 書:マラキ書3章1~5節
    ルカによる福音書10章21~24節
説教題:「救い主が到来した喜びと幸い」

 主イエスは12人の弟子のほかに72人の弟子たちをお選びになり、彼らを神の国の福音を宣教するため、そしてこの世の失われた魂を収穫するための働き人として、派遣されました。ルカ福音書10章17節には、「72人は喜んで帰って来た」と書かれていましたが、それに対して主イエスは、彼らの福音宣教の働きの成功と成果よりも、さらに大きな喜びは「あなたがたの名が天に書き記されていることだ」と言われました。それに続いて、21節には、「そのとき、イエスは聖霊によって喜びにあふれて言われた」と書かれています。17節、20節、そしてきょうの箇所の21節に共通しているのが「喜び」という言葉です。
 この三つの喜びは少し性質が違っているように思われます。17節の喜び、それは20節の前半では「喜んではならない」と、主イエスによって否定されている喜びですが、それは72人の弟子たちが主イエスの名によって悪霊を屈服させたという、弟子たちの宣教の成果を喜ぶ喜びです。これも、大きな喜びであるには違いありません。主イエスがこの世に到来されたことによって、神の新しい恵みのご支配が始まって、悪霊やサタンが主イエスの前に力を失う、弟子たちはその新しい神のご支配、神の国の福音を宣教し、実際に彼らがそのことを経験しているのですから、それは弟子たちにとっての大きな喜びには違いありません。
 でも、主イエスは弟子たちのその喜びをひとたび否定されます。なぜなら、それよりも大きな喜びがあるからです。それが、ここで言われている第二の喜び、弟子たちの名が天に書き記されているという喜びです。この喜びは、地上にある成功や成果を喜ぶ喜びではなく、天にある喜び、天からやってくる喜びです。天にある喜びは地上のどのような変化によっても変わらない、永遠の喜びです。天の神によって永遠に覚えられている喜びです。主イエスは神の国の福音を宣教する弟子たちに、また、主の教会にお仕えするわたしたちに、この天にある喜びを約束してくださるのです。
 第三の21節の喜びは主イエスご自身の喜びです。【21節】。ここで「喜びにあふれて」と訳されている言葉は、17節や20節で「喜ぶ」と訳されている言葉とは少し違ったギリシャ語です。「大いに喜ぶ、歓喜する」という意味の言葉で、特別に大きな喜びを言い表しています。マタイ福音書5章12節ではこの二つの言葉が並んで用いられています。「喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである」。
 このマタイ福音書のみ言葉からも分かるように、「大いに喜ぶ、歓喜する」という言葉は、悲しみや苦しみなど、喜びを否定し、喜びを奪い取るような、喜びとは全く反対の状態の中で、しかしそれらに反して、それらを突き破るようにして、喜びが勝利するという、激しい戦いや抵抗の中で勝利する喜びという意味合いを持っているように思われます。主イエスの「聖霊による喜びにあふれる」とは、だれもが決して喜ばないような、むしろ多くの人が忌み嫌ったり、憎んだり、避けて通ろうとするような、喜びとは反対のもののすべてを、否定し、そのすべてに勝利する、そのような喜びだということです。
 17節と20節で言われていた弟子たちの喜びは、この21節の主イエスの「大きな喜び、歓喜」の反映であるように思います。主イエスの大きな喜び、歓喜の反映として、いわばそこからあふれ出てくる喜びに、弟子たちも、そしてわたしたちもあずかっているのだということです。
 では、主イエスの大きな喜び、歓喜とはどのようなものなのか、それはどこからくるのかを見ていきましょう。21節の「これらのことを」が、何を指すのかは漠然としていますが、おおよその見当はつきます。72人の弟子たちに、神の国が到来して悪霊やサタンが主イエスのみ前に屈服していることが明らかにされたことを指していると考えられます。また、「知恵ある者や賢いものに隠して、幼子のような者にお示しになりました」と言われている「幼子のような者」は弟子たちのことであるということもおおよその見当がつきます。
 つまり、主イエスはここで、神の国の福音がこの世の知者や賢者にではなく、またこの世の支配者たちや権力者たちにでもなく、知恵も力もなく、貧しく弱く、小さな者である弟子たちにこそ示されたこと、彼らによって信じられていること、そのことを大いに喜んでいるのだということです。また、それこそが父なる神のみ心であることを大いに喜び、神をほめたたえているのです。
 そのことが、この福音書を読み進んでいくと、次第に明らかになることをわたしたちは知っています。当時のイスラエルと世界の支配者たちも、ユダヤ人のファリサイ派や祭司、長老たちという宗教家たちも、皆こぞって主イエスの福音を拒絶し、主イエスを神から遣わされたメシア・救い主として受け入れず、主イエスを偽りの裁判によって裁き、罪ありとして十字架刑に処して殺したのでした。当時の世界の最高の知恵と最高の権威が、吟味を重ねたうえで、主イエスを十字架につけたのです。
 わたしたちはここで使徒パウロの言葉を思い起こします。「十字架の言葉は、滅んで行く者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には、神の力です。……神はこの世の知恵を愚かなものにされたではないか。世は自分の知恵で神を知ることができませんでした。それは神の知恵にかなっています」(コリントの信徒への手紙一1章18節以下参照)。また、パウロはこうも書いています。「キリストは……自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」(フィリピの信徒への手紙2章6節以下参照)。
 神はこのようにして、人間の知恵や力、この世の権威のすべてを打ち砕かれたのです。それらは人間を救うためには何も役に立たないことが明らかにされました。かえって、人間を神から遠ざけ、人間を傲慢な者にし、人間たちの間にも争いを生み出す以外にありません。それゆえに、神はご自身の深い知恵と救いのみ心をお示しになるために、この世の貧しく弱い人たち、無きに等しい人たちをお選びになったのです。ここにこそ、神の選びの愛の不思議さがあり、また驚くべき深いみ心があるのです。主イエスはこの神による愛の選びの不思議さとその驚くべき恵みとを覚えて、歓喜しておられるのです。
したがって、わたしたちもまた主イエスをわたしの救い主と信じて救われるために、自らの知恵によるのではなく、神のみ前に自らを低くし、貧しくして、ただひたすらに聖霊のお導きを信じ、人間の知恵には愚かに見える主イエスの十字架の福音を信じ、その信仰によって罪をゆるされることを感謝すること、この信仰によって生きることが勧められているのです。
 22節では、父なる神とそのみ子である主イエスとの密接な関係について語られています。【22節】。天の神はすべての人の目を引くような偉大な奇跡とか、だれの目にもはっきりと分かるような輝かしい衣装を身にまとった英雄の姿によってではなく、わたしたちがクリスマスのメッセージで聞いたように、貧しい家畜小屋の目立たない飼い葉おけの中に寝かされている幼子を、全世界のすべての人の救い主としてお与えになりました。ガリラヤ地方ナザレのイエスによって、そのご受難と十字架の死によって、ご自身の永遠の救いにご計画を成就なさいました。この主イエスに、ご自身のみ心のすべてを、ご自身の愛と義と恵みのすべてをお与えになりました。主イエスこそが、父なる神に至る「道であり、真理であり、命」です(ヨハネ福音書14章6節参照)。
ここにもまた、主イエスの歓喜があります。父なる神とみ子主イエスとのこのような密接な、深いお交わりの中にあって、神の救いのみわざはなし遂げられました。それゆえに、主イエスの十字架と復活による救いは永遠であり、完全であり、確かなのです。主イエスのその大きな喜び、歓喜は、わたしたち一人一人の救いの喜びへと反映されています。
次に、23節以下には、もう一つの主イエスの大きな喜び、歓喜について語られています。【23~24節】。マタイによる福音書では、このみ言葉はルカとは違った文脈で語られています。マタイ福音書13章では、主イエスが「種まきのたとえ」をお語りになった後で、なぜたとえを用いて神の国のことを話すのか、その理由について説明しておられます。それは、旧約聖書イザヤ書に預言されているように、「あなたがたは聞くには聞くが、決して理解せず、見るには見るが、決して認めない。この民の心は鈍り、耳は遠くなり、目は閉じてしまった」(マタイ13章14節以下参照)。そのイザヤの預言に続いて、「しかし、あなたがたの目は見ているから幸いだ。あなたがたの耳は聞いているから幸いだ」と語られています。
すなわち、主イエスはこのように言われるのです。「旧約聖書の時代には、イスラエルの預言者たちや信仰者たちには、いまだはっきりと目に見えるようには示されず、はっきりと聞いて信じることができるようには語られなかったけれども、今は、わたし、すなわち主イエスによって、あなたがた弟子たちの身近で、あなたがたと同じ人間の姿で、あなたがたと同じ人間の言葉でわたしが語っている。そして、あなたがたはそれを確かに見ることができ、それを確かに聞くことができるようにされている。それは何と幸いなことであることか」と主イエスは言われるのです。
弟子たちは、旧約聖書で長く待ち望まれていたメシア・救い主を今や直接に彼らの目で見ることができ、彼らの肉体をもって直接にメシアと交わりを持つことが許され、人となられた神のみ子の到来を肌で感じることができ、そして神のみ子の到来とともに始まった神の国の福音を聞かされており、新しい神のご支配の中に生きることが許されているのです。神の天地創造以来の多くの信仰者たち、アダムとエヴァに始まり、アブラハム、イサク、ヤコブの族長たち、ダビデやソロモン王、イザヤ、エレミヤなどの預言者たち、彼ら数えきれないほど多くの旧約聖書の信仰者たちが見たいと願いながら見れなかったメシアのお姿を、今弟子たちが見ることができている。また、彼ら多くの信仰者たちが聞きたいと願いながら聞くことができなかった神の国の福音、十字架と復活による救いの福音を、今弟子たちは聞くことが許されている。それは何と幸いなことであるか。それは何という大きな喜びであり、歓喜であることか。主イエスはそのように言われるのです。わたしたちもその喜びの中に招き入れられています。
(執り成しの祈り)
○天の父なる神よ。あなたの永遠なる救いのご計画は主イエス・キリストによって成就しました。わたしたちは今その成就の時に生きており、主イエス・キリストによる救いの福音を聞かされております。その大きな幸いを覚え、心から感謝いたします。どうか、わたしたちに、またすべての人に、その福音を信じる信仰をお与えください。
主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

6月9日説教「なぜ教会に行くのですか」

2024年6月9日(日) 秋田教会主日(伝道)礼拝説教(駒井利則牧師)
聖 書:詩編95編1~11節
    ローマの信徒への手紙12章1~2節
説教題:「なぜ教会に行くのですか」

 秋田教会は今年で伝道開始から132年目、また自給独立の教会を建設してから90年目を迎えます。日本のプロテスタント教会の歴史152年の中ではかなり長い歴史ですが、世界の教会の歴史2000年から見れば、まだ生まれたばかりの子どもと言えるでしょう。わたしたちは今年度「礼拝」をテーマにして二度の研修会を計画し、第一回は4月14日の秋田教会建設記念礼拝後に、そして第二回をきょうの伝道礼拝後に行います。そこで、礼拝後の研修会のテーマとの関連で、きょうの礼拝説教の題を「なぜ教会に行くのですか」としました。キリスト者が教会に行く主な目的は主の日・日曜日の礼拝をささげるためであるということはだれもが認めることですが、「なぜ教会に行くのか」という問いは、「なぜ神を礼拝するのか」という問いと密接に関連していると言えますので、その両方を考えながらきょうの問いの答えを探っていくことにしましょう。
 「なぜ教会に行くのか」という問いは、すでに洗礼を受けているキリスト者と、まだ教会に行った経験がない人とでは、問の立て方もその問いで期待される答えも、根本的に違うと思います。まだ教会のことをよく知らない人は、それぞれにいろんな目的をもって、最初に教会の門をくぐります。人生に悩んで、その解決に教会を選ぶ人もいます。教会で人との出会いを期待する人もいます。キリスト教や聖書について学んでみたいという人も多いでしょう。あるいは、わたくしのようにアメリカ人の宣教師と英語で話したいと思う学生もいるでしょう。それぞれに求めるものは違ってはいても、教会に入ってすぐにわかることは、そこでは礼拝の儀式が行われているということです。あるところでは厳粛に、あるところでは楽しく楽器を鳴らしながら、みんなが同じ声を発し、みんなが同じ方を向いて説教を聞き、みんなで一つのことに集中していることに気づきます。ある人にとっては堅苦しく、息苦しく感じられるでしょう。ある人にとっては理解できず、場違いな感じを受けるでしょう。またある人は、そこに何かの真理がありそうだと感じるでしょう。いずれにしても、教会の中で行われていることは、人間の日常的なこととは違った、宗教的な、人間以上の存在者である神がそこでは崇められ、礼拝されているということを、初めて教会に入った人は感じることでしょう。日曜日の教会に、落語を聞きに来る人はいません。音楽や絵画、陶芸などの芸術を求めてくる人もいません。体を鍛えるための運動をしに来る人もいません。教会では神を礼拝します。そのために教会に行きます。
 すでに洗礼を受けているキリスト者の問いは、これもその問いの立て方や期待される答えは千差万別と言えるかもしれません。そのすべてのケースについてきょうは考えることはできませんので、いくつかのポイントに絞って考えてみたいと思います。
 最初に、教会とはそもそも何かということから入りましょう。一般には教会とは建物、教会堂を指すと考えられていますが、聖書ではそうではありません。新約聖書で教会を意味するギリシャ語「エクレーシア」は「呼び出された人たち」という意味です。建物ではなく、集まっている人間集団・集会を指します。旧約聖書のヘブライ語でも、イスラエルの民の礼拝・祭りを意味するヘブライ語の「エーダー」や「カーハール」は、日本語では「共同体」、「会衆」と訳され、人々の集まり・集会を意味しています。
 ですから、そもそも教会とは、また旧約聖書の集会は、信じる人たちが共に集まる、共に同じ行動をするということを本質とし、目的としているのです。そして、そこで重要なことは、集まる人たちがそれぞれに目的をもって自由な意志で集まってくるというよりは、ギリシャ語のエクレーシアやヘブライ語のカーハールの本来の意味から明らかなように(文法的にはいずれも受動態の名詞)、その人たちは「呼び出された人たち」、「召し出された人たち」であり、主なる神によって、それぞれの生きている場から「こっちに来い」と声をかけられ、この世から選び分かたれ、主なる神のみ前に召し集められたのです。それが教会です。
したがって、そこには、ある意味での場所の移動が必要です。今まで生きていた場、住んでいた場から、場所を移して、聖なる神のみ前に進み出る。今まで働いていた場から、今まで、労苦し、悩み、笑い、迷っていた場から抜け出して、主なる神のみ前に進み出、主イエス・キリストがいます場へと集められる、それが教会であり、礼拝なのです。
 主イエスはこう言われました。「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」(マタイ福音書18章20節)と。また、使徒言行録2章によれば、ペンテコステの日に「一同が一つになって集まっていると」(1節)その集まりの上に天から聖霊が降り、彼らは神のみ力に満たされて、主イエス・キリストの福音を大胆に語り出しました。ここに、世界最初の教会であるエルサレム教会が誕生しました。初代教会の信者たちは、まだ定まった教会堂がありませんでしたが、信者の家々に集まり、共に礼拝し、共同の食卓を囲み、共に祈り、交わりを深めていたと、使徒言行録に繰り返して語られています。
 次に、新約聖書のパウロの書簡などでは、教会は主キリストの体であると表現されていますが、これも「なぜ教会に行くのか」という問いに対する答えを含んでいるように思います。教会は主イエス・キリストのお体が、まさにそこにあり、主イエスご自身がそこにおられる場なのです。主イエス・キリストとは、わたしたちの罪のためにご自身が代わって十字架を背負ってくださり、わたしたちの罪のために代わって神の裁きを受けて死んでくださり、それによってわたしたちの罪を帳消しにしてくださったお方であり、また三日目に復活されて、罪と死とに勝利されたお方であり、信じる人に永遠の命の保証を与えてくださるお方です。その主イエスのお体である場、その主イエスがおられる場、その主イエスとお会いできる場、その主イエスの救いの恵みを受け取る場、それが教会、それが礼拝なのです。
 「あなたはなぜ教会に行くのですか」。そうです。その答えは、「わたしのために十字架に死んでくださった主イエス・キリストがそこにいますゆえに、主イエス・キリストとそこでお会いできるからです」。
 教会が主イエスの体であるという表現には、たくさんの意味が含められていますが、ここではもう一つのことに注目してみましょう。体はたくさんの器官から成り立っています。頭、手、足、内臓など、どれ一つも体が生きていくためには欠かせません。パウロは手紙の中でしばしばその比喩を用いて、教会の意義を語っています。教会に集められてくる一人一人は、皆それぞれにかけがえのない大切な存在として、主イエスの体を形成しています。というよりは、わたしたちが集まって主イエスの体を形成していくというよりは、わたしたちは主イエスの体の中に植え込まれるようにして、移植されるようにして、主イエスの体に接ぎ木されるようにして、主イエスの体である教会に召し集められているのです。わたしたちの救いのためにすべてのみわざをなしてくださった主イエスのお体がそこにあり、そこへとわたしもまた招き入れられ、主イエスの体の大切な一つの器官とされているということです。だれ一人として、そこでは不必要な存在ではありません。そしてまた、すべての器官に主イエスの血管が通っており、主イエスの命の血によってつながれており、一つの体を形成しているのです。
 もし、どこかの器官が病んだり痛んだりすれば、それは体全体に伝わります。共に痛みを共にし、また喜びも共にします。体の中で弱っている部分があれば、みんなでそれを支え、いたわり合います。共に励まし合い、共に慰め合い、また共に仕え合って、体の健康を保つように心がけます。もし、だれかが体から離れていれば、もしだれかがきょうの礼拝に顔が見られなかったら、その人は体全体にとって気がかりになります。その人も一つの、この体を形成している大切な枝枝であるからです。
 そのようにして形成された主キリストの体は、今ここに存在する、目に見える教会だけではなく、聖霊によって、無限の場所的・時間的広がりを与えられていることも聖書から教えられます。病院や施設に入所して、あるいは他の何かの事情によって、共に礼拝の場に集まることができない人もまた、主キリストの体である教会とそこでの礼拝に連なっている一人であることを聖霊なる神によって教えられます。それだけでなく、今はこの世を去り天に召された信仰者も、天にある勝利の教会でわたしたちと共に礼拝しています。また、今はまだ神を知らず、教会をも知らないすべての人も、こののちには教会の民の一人とされるであろうことをも聖霊なる神は約束してくださいます。それらのすべての人々が、終わりの時に、神の国が完成される時に、一つの教会の民、一つの礼拝の民とされるであろうとの約束をも、わたしたちは聞いているのです。
 最後に、きょうの礼拝で朗読された二つの聖書のみ言葉に目を向けましょう。詩編95編はイスラエルの神礼拝を歌った詩編です。「なぜ、教会に行くのか、なぜ神を礼拝するのか」という問いに対する答えがここで答えられています。なぜならば、主なる神こそが天地万物を創造された神であり、今もなお万物を強い御手をもってご支配しておられる神であり、すべてのものに命を注ぎ、すべてのものをみ心にかなって養われ、わたしたちに日々聞くべきみ言葉をお語りくださる主なる神であられるからです。この神がおられる教会に、この神を礼拝するために、この神がお語りになる礼拝に、わたしは喜びと感謝とをもってでかけて行くのです。
 ローマの信徒への手紙12章では、パウロは11章までで語った人間の罪と神の救いのみわざ、すなわち主イエス・キリストの十字架と復活の福音を信じて救われた人が、感謝のささげものとして、自分自身の体を聖なる生けにえとして神にささげて、礼拝しなさいと命じています。わたしたちは主イエス・キリストによって罪ゆるされ救われている。その大きな恵みを忘れないように、神に感謝をするのです。わたしたちが教会に行く理由、目的がここにあるのです。わたしたちが神を礼拝する理由と目的がここにあるのです。
(執り成しの祈り)
○天の父なる神よ、あなたはわたしたち罪びとを罪と死と滅びから救い出すために、ひとりごなるみ子を十字架に引き渡されました。そのあなたの偉大な愛によって、わたしたちは救われ、あなたの民とされ、教会の群れの中に召し集められ、まことの命に至る道へと導かれておりますことを、心から感謝いたします。どうか、わたしたちにあなたを信じる信仰と教会の霊の交わりに生きる愛とをお与えください。
〇主なる神よ、この世界にあなたの義と平和とが実現しますように。あなたの恵みと祝福が、すべての人たちに与えられますように。
主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

6月2日説教「モーセの逃亡」

2024年6月2日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:出エジプト記2章11~25節

    使徒言行録7章23~29節

説教題:「モーセの逃亡」

 出エジプト記2章11節の冒頭に、「モーセが成人したころのこと」と書かれています。この時のモーセの年齢がいくつであったかについては出エジプト記では何も書かれていませんが、使徒言行録7章の殉教者ステファノの説教では、モーセの120年の生涯を40年ずつ三期に区切って、きょうの礼拝で朗読された23~29節はその第二期、40歳から80歳までの期間のことが語られており、それが出エジプト記2章11~25節までの記録と一致しています。

 このモーセの第二期は、彼がエジプトを去って、遠いアラビアのミディアン地方に逃れていた期間であり、モーセが80歳になって、出エジプト記3章で、神に召されてエジプト脱出のリーダーとされるまでの、いわばその準備の期間であったと言ってよいでしょう。それは、モーセがイスラエルの民の指導者として出エジプトという神の偉大な救いの事業に仕えるために、ぜひとも必要な準備の期間であったのです。神はご自分の僕(しもべ)モーセを訓練するために、彼をミディアンの地へと逃亡させられたのです。

 そのことを学ぶ前に、モーセの生涯の第一期を振り返ってみましょう。エジプトに移住したヤコブ(イスラエル)の子どもたち60人は、400年の間に増え続け、エジプトの中で大きな勢力となり、脅威を与えるほどになったために、エジプト王ファラオはついにヘブライ人たちを迫害する政策を実行し、生まれた男の子はみなナイル川に投げ込んで殺せという命令を出しました。モーセが誕生したのは、そのような迫害の中でした。不思議な神のお導きにより、モーセはファラオの娘の子として、エジプト王宮の中で育てられました。

 そして、40歳になった時、11節に書かれているように、「彼は同胞のところへ出て行き、彼らが重労働に服しているのを見た」のです。ここでわたしたちが気づくことは、モーセは40年間エジプトの王宮で育てられましたが、しかし決してエジプト人にはならなかったということです。彼は王宮でエジプトの最高の教育を受けたことでしょう。エジプト人の慣習や文化にも慣れ親しんだことでしょう。けれども、彼はエジプト人になったのではありませんでした。かつて、400の間イスラエルの民がエジプトの地に寄留していても決してエジプト人にはならなかったように、ヘブライ人であり続けたように、モーセもまたヘブライ人であり続けたのです。

 彼は王宮の中に留まってはいませんでした。そこを「出て」、同胞の民の所へと出かけました。そして、同胞の民が重労働に服しているのを「見た」、と書かれています。遠くから眺めていただけではありませんでした。傍観者でいたのではありませんでした。モーセ自身はこれまでは王宮の中にいて、同胞の民の迫害と苦しい労役を実際に経験してはいませんでした。でも、彼には同胞の民の苦しみに共感し、それを自分の苦しみとして受け止める心はありました。同胞の民ヘブライ人への愛がありました。モーセはヘブライ人であることをやめてはいませんでした。そこには、隠れた主なる神のお導きがあったということをだれが否定しえるでしょうか。ここでも、神はご自身の救いのみわざを確実に進めておられたのです。

 モーセは、同胞の民が重労働を強いられている現場で、エジプト人の監督から鞭うたれて死に瀕している一人のヘブライ人を目撃しました。それは、モーセにとってどんなにかショッキングな光景だったことでしょうか。自分はこれまでエジプト王宮の中で何の不足も不自由もなく、幸いを享受していたが、王宮の外では自分と同じヘブライ人がこれほどの迫害と苦難を受けていることに、激しい怒りと、また同時に強い正義感がモーセを突き動かしました。そして、その激しい感情を即座に行動に移し、その現場監督を殺して、砂の中に埋めました。モーセのこの行為は、彼が迫害する支配者・エジプト王ファラオの側に立つのではなく、迫害されている側、ヘブライ人の仲間であるということをはっきりと自覚させる行為であったと言えます。

 ところが、そのようなモーセの強い同胞意識と正義感は、同胞の民ヘブライ人には理解されませんでした。「翌日、また出て行くと」と13節に書かれていることから、前日のエジプト人殺害の行為がモーセの一時的な感情から出た突発的な行為ではなかったことが分ります。モーセは同胞のことを気遣っています。同胞の苦難の歩みと連帯したいと願っているようです。しかし、モーセのそのような願いと行動は同胞のヘブライ人には理解されませんでした。彼はヘブライ人を守るために、彼らと連帯するために、エジプト人の現場監督を殺害したのでしたが、それを見ていたヘブライ人は、モーセが自分たちを支配しようとしている、裁こうとしていると言って、非難します。このヘブライ人はモーセがエジプト王宮で育ったことを知っていたのかもしれません。

 モーセがエジプト人を殺したことがファラオの耳に届きました。ファラオはモーセを殺そうと手配したと15節に書かれています。モーセは同胞のヘブライ人からは拒否され、義理の父のような存在であったエジプトの王からは追われる身になりました。モーセはエジプトの地では自分の身を安全に守ることができなくなりました。そこでモーセはミディアンの地方に逃れることになります。ミディアンの地がどこなのか、正確な位置は分かっていませんが、シナイ半島のアガパ湾周辺と考えられています。また、なぜモーセはこの地に来たのかについても、聖書は何も語っていません。ここにも、見えない神のみ手が働いていたのでしょうか。

 16節からは、ミディアンの地にある井戸の傍らでのモーセと祭司レウエルの7人の娘たちとの出会いの場面が描かれています。この場面は、創世記24章1節以下のイサクとリベカの出会い、また29章2節以下のヤコブとラケルの出会いの場面とよく似ています。彼らは水くみ場での出会いをきっかけにして、それぞれ夫婦となりました。古代の遊牧民にとっては井戸や水汲み場は彼らの生活の中心であり、交わりの場、情報交換の場でした。また、男女の出会いの場でもありました。モーセはここで妻となるツィポラと出会います。

 ミディアンの祭司で7人の娘たちの父であるレウエルは3章1節や4章18節などではエトロとなっています。レウエルは氏族、部族の名前ではないかと考えられています。モーセは祭司レウエル(またはエトロ)の家で、彼の娘の一人ツィポラと結婚し、ここでエトロの羊の群れを飼い、40年近くを過ごしました。

これが、使徒言行録のステファノの説教で言われていたモーセの生涯の第二期です。おそらくモーセはこの第二期の40年間で、それまでのエジプト王宮の40年間では経験できなかった多くのことを経験し、そこでは学ぶことができなかった貴重な多くのことを学んだと推測されます。

 その一つは、義理の父エトロが祭司であったということに関連しています。祭司とは、もっぱらに神に仕える務めを行ないます。エトロが仕えていた神が、族長アブラハム、イサク、ヤコブの神、すなわちイスラエルの神であったのかどうかはよく分かりません。レウエルという名は、ヘブライ語では「神の友」あるいは「神の羊飼い」の意味であろうと推測されます。ヘブライ語の「エル」はイスラエルの神を言う場合にも、一般的に神を指す場合もありますので、そのどちらであるかを判断することはできません。そうであるとしても、モーセは祭司エトロのもとで、神にお仕えすることを学んだことは、はっきり言えます。この世の王に仕えるのではなく、神にお仕えし、主なる神をこそ恐れることを、モーセはエトロから学んだのです。やがて彼がイスラエルの主なる神から召し出され、神の偉大なる救いのみわざにお仕えするようになる準備が、ここでなされたのです。

 モーセがここで学んだもう一つのことは、彼がエトロの羊の群れを飼っていたということです。3章1節からそのことが分ります。これもまた彼にとっては意義ある経験だったと言えましょう。彼はのちに、エジプトを脱出したイスラエルの民の荒れ野の40年間の旅を、迷える羊の群れを導き、約束の地カナンへと連れて行く羊飼いとしての務めを成し遂げたのです。

 モーセは長男が誕生した時、その子をゲルショムと名づけます。「ゲルショム」とは「そこに寄留する者」という意味です。モーセは自分がアブラハム、イサク、ヤコブの族長たちと同じ、地上での旅人、その地での寄留者であることを告白します。しかし、エジプトが帰るべき地であるということではありません。神の約束の地カナンこそが目指すべき目的地です。その神の約束のみ言葉を信じつつ、その約束の地を目指しつつ、地上を旅する信仰者であることを、モーセはミディアンの地で教えられたのです。そして、やがてイスラエルの民と共に、約束の地カナンへと進む時がくることを信じつつ、モーセはこの地で備えていたのでした。

 最後の23節以下を読みましょう。【23~25節】。ここでわたしたちは、これまでのモーセのすべての歩みの上に、神の見えざる救いのみ手が働いていたということを、確かに知ることができます。神はエジプトで苦しむイスラエルの民を救うというご計画を、至る所で進めておられたのです。モーセの同胞に対する愛やあるいは正義感よりも、はるかに大きな神の救いのみ心がそのことを成し遂げるのだということを、わたしたちはここから知らされます。

 神はイスラエルの人々の嘆きの声をお聞きになります。神は族長たちとの契約を思い起こされます。神はご自身が選ばれた民イスラエルを顧みられます。神は彼らをみ心に留められます。「聞く」「思い起こす」「顧みる」「み心に留める」、これはいつの時代にも変わらないわたしたちに対する神の大いなる愛です。神は今もなお、苦しむ者たち、悩む者たちの叫びと祈りをお聞きになります。そして、それに応えられ、最も良き道へとお導きくださいます。神はまた、主イエス・キリストによって教会の民と結ばれた新しい契約を覚えられます。信じる人たちを神の国へと導き、永遠の命を受け継がせてくださいます。神は貧しい人たち、病める人たち、重荷を負う人たちを顧みられます。神のため、主キリストのため、主の教会のために労苦する人たちを顧みられます。その労苦は決して無駄に終わることはありません。また、神はわたしたちの弱さや破れ、欠けやつまずきのすべてを知っておられます。そして、常にわたしたちの傍らに立ってくださり、支え、励ましてくださいます。その神を信じて、従っていきましょう。

(執り成しの祈り)

○天の父なる神よ、あなたの永遠の救いのご計画の中にわたしたち一人一人をもお招きくださいますことを感謝いたします。わたしたちがどのような時にも、あなたのみ言葉を固く信じ、あなたが最も良き道を備えてくださることを信じて、信仰の道を全うできますようにおみちびきください。

〇あなたの義と平和がこの地に実現しますように。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。