2024年6月30日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)
『日本キリスト教会信仰の告白』連続講解(33)
聖 書:詩編100編1~5節
エフェソの信徒への手紙4章7~16節
説教題:「教会はキリストのからだ」
『日本キリスト教会信仰の告白』をテキストにして、わたしたちの教会の信仰の特色について学んでいます。印刷物の4段落目の文章、「教会は、キリストの体、神に召された世々の聖徒の……待ち望みます」。
この箇所は、キリスト教教理の大きなテーマでは「教会論」と言われます。後半の『使徒信条』では、4段落目、「わたしは、聖霊を信じます。聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪のゆるし、からだの復活、永遠の命を信じます」と、聖霊なる神を告白する箇所で、聖霊なる神のお働きとして、ごく簡単に教会論が取り扱われていますので、「前文」ではそれを補うかたちで、より詳しく、教会とは何かについて告白されていると考えられます。
実は、1890年(明治23年)の『(旧)日本基督教会信仰の告白』ではこの箇所は全部欠けていました。つまり。1953年に制定された『(新)日本キリスト教会信仰の告白』で初めてこの教会論が付け加えられたということになります。その背景には、戦時中、日本のキリスト教会が国家の戦争政策に迎合し、アジアへの侵略や無謀で残忍な世界制覇の野望を持つ、悪魔化していった国家に対して、何ら抵抗することができなかったという、その大きな原因が、自分たちの教会論が弱かったからだという反省があったと思われます。教会とは何か、また教会と国家との関係をどのように考えるべきかという神学的な理解が貧しかった、そのことに戦時中の教会の誤りがあったのではないかという反省が、1953年の『信仰告白』の中で自覚され始めたと言えます。そして、その反省が、1983年に採択された『現代日本の状況における教会と国家に関する指針』となり、また1990年に決議された建議案「『韓国・朝鮮の基督教会に対して行った神社参拝強要について罪の告白と謝罪』を表明することに関する建議案」へとつながっていきました。
教会とは何かを論じる「教会論」は、わたしたち一人一人の信仰の母なる存在である教会とは何であるのかを考えることであり、また同時に、日本キリスト教会が、この日本の地で、またアジアと世界の中でどのような教会形成を目指していくのかという、大きな課題と取組むことでもあるのです。
教会は、新約聖書のギリシャ語ではエクレーシア、旧約聖書のヘブライ語ではカーハール、またはエーダーという言葉ですが、これらはいずれも、呼び出された人々、集められた会衆という意味を持っています。教会堂や礼拝堂という建物を指す言葉ではありません。実際、エジプトの奴隷の家から導き出されたイスラエルの民は、荒れ野の40年間の旅路においては定まった建物はもっていませんでした。エルサレムに誕生した初代教会も、当初は神殿の庭や教会員の家々で礼拝をしていました。「主イエスのみ名によって二人、または三人が集まっている所にわたしもいる」と主イエスが言われたように、主イエスを信じる信仰者が共に集い、主なる神を礼拝し、共に信仰の交わりに生きている所、それが教会です。神はこの教会を形成するために、わたしたち一人一人を、この世から選び分かち、ご自身のみ前に呼び集めてくださったのです。
『信仰告白』ではそのことが「神に召された世々の聖徒の交わりであって」と告白されており、後半の『使徒信条』では「聖徒の交わり」と表現されています。教会とは、そこに集められているわたしたち一人一人のことなのだと言ってもよいでしょう。教会とは何かを考えることは、わたしの信仰とは何か、信じているわたしとは何者なのかを考えることだと言ってもよいでしょう。
では、きょうは教会について告白している最初の箇所、「教会はキリストのからだ」という告白について学んでいきます。「教会は主キリストのからだである」という表現は、福音書の中にはありませんが、パウロ書簡などで何度も用いられており、その内容は多様であり、深い意味を持っていますので、今回と次回で学ぶことにします。いくつかのポイントを挙げて学んでいきましょう。
第一点は「キリストのからだ」、すなわち「キリストの」であり、他の何かのではなく、また他のだれかのでもないということです。このことが、教会とは何かを考える上での、基礎であり、原点であり、また全体でもあり、最も重要なポイントです。教会は人間の集まりであり、主イエス・キリストを信じている信仰者と、またその信仰を求めている人たちの集団なのですが、教会はいかなる意味においても、人間が主体の、人間に所属するものではなく、また人間の何らかの目的を達成するための組織やグループではなく、主イエス・キリストのものであり、主イエス・キリストに属するものであり、主イエス・キリストの救いのみわざを証しし、実現し、その救いの恵みを共に分かち合うための信仰共同体としての「主キリストのからだ」だということです。
先ほども確認しましたように、教会・エクレーシアとは、神によって召し集められた人たちのことであり、主イエス・キリストの福音のもとに呼び集められた共同体ですから、教会の本来の主体は主なる神であり、わたしたちの救い主である主キリストです。わたしたち人間は常に受け身、受動態であり、呼び出された、呼び集められた、召し集められた人たちです。もちろん、わたしたちが教会に集まって来た動機や理由は様々あります。だれかに勧められ誘われて来た人もいるでしょう。何らかの真理を求めてきた人、人との出会いを求めてきた人、その動機は様々です。でも、わたしたちがのちに気づかされることは、それらの人間の側からの動機や理由のすべてをお用いになって、わたしを教会に呼び集め、わたしに信仰をお与えくださったのは主なる神であり、それらのすべてにおいて働いておられたのは、わたしのために十字架で死んでくださった主イエスご自身であったのだということです。
教会は主キリストのからだですから、その頭、リーダーは主イエス・キリストであり、またそこで働いておられるのも、その群れを支配し、導いておられるのも、主イエスご自身です。わたしたちはいつどのような時でも、このことを決して忘れてはなりません。教会が豊かになり、繁栄し、この世に力と富を誇ることができるほどの勢力になった時に、教会の本来の主から離れて、傲慢になって自らを誇ることがないために、また、教会が試練や困難に直面し、あるいは迷いや混乱の中にあって道を見失いそうになった時にも、決して希望を失うことなく、なおも勇気をもって前進していくことができるためにも、教会の主であられる神に、教会の頭であられる主イエス・キリストに目を注いでいなければなりません。
第二点は、「教会はキリストのからだ」、すなわち「からだ」であるという点です。志を同じくする同志の仲間、グループとかではなく、また会費を支払って何らの特権を取得する組織体というのでもなく、「からだ」を形成する一つ一つの器官としてわたしたちは集められているということです。
「からだ」という言葉は、わたしたち人間の肉体を意味しています。頭があり、目や耳があり、手足があり、さらに細かな細胞によって出来上がっているわたしのからだのように、あるいは、指にとげが刺さればその痛みが全身に走るように、時に病んだり、傷ついたりして、わたしの心と体全体がそれによって揺さぶられたり、時として死ぬほどのダメージを受けたりするそのようなわたしの体と同じだということです。しかし、もちろん人間の体のことではありません。あくまでも、主キリストの「からだ」です。
パウロは「からだ」という表現の中に多くの意味を込めて用いています。その原点にあるのは、天におられる神が人となって地に降ってこられ、人間のお姿でこの世においでくださったという、神のみ子の受肉に、主キリストのからだである教会の原点があるということです。天地創造以来の神の永遠の救いのご計画の、いわば最後の仕上げとして、神のみ子をこの世に遣わされました。み子の十字架と復活によって、全世界のすべての人のための救いを成し遂げられました。そのみ子の救いのみわざが、み子のからだである教会において継続されるのです。
では次に、主イエス・キリストご自身のお体のことを考えてみましょう。主イエスは聖霊によってマリアの胎に宿り、ヨセフとマリアを親としてお生まれになり、ガリラヤ地方のナザレでお育ちになりました。30歳ころから公の宣教活動に入られ、おそらく3年間にわたって神の国の福音を宣べ伝えられ、時に空腹を覚えられ、時に徹夜で祈られ、時に涙され、時に怒られ、そして最後に十字架刑で裁かれ、墓に葬られました。三日目の朝に墓から復活され、40日間にわたって弟子たちに復活のお体を現わされ、それから天に昇られ、天の父なる神のみもとへとお帰りになり、今もとこしえまでも父なる神の右に座しておられます。今は天に移された主イエスのお体が、地上で目に見えるかたちでこの世に現在しているのが教会なのです。
パウロはコロサイの信徒への手紙1章24節でこのように書いています。「今やわたしは、あなたがたのために苦しむことを喜びとし、キリストの体である教会のために、キリストの苦しみの欠けたところを身をもって満たしています」。パウロはここで、「キリストの体である教会」という言葉で、主イエス・キリストの十字架につけられたお体を考えていると推察できます。教会は十字架につけられた主キリストの体が目に見えるかたちでこの世に現在していると言ってよいでしょう。主キリストのご受難と十字架の死の体を、この世に具体化しているのが教会なのだと言ってよいでしょう。教会は主イエス・キリストが歩んだ道を歩み、主イエスと同じ経験をするのです。
また、同じ手紙の1章18節以下ではこのように書かれています。【18~20節】(369ページ)。教会は主イエスのご受難と十字架の死のお体をこの世に目に見えるように具体化していくとともに、また、復活された主イエスを頭として与えられている教会は、復活された主イエスのお体を、この世に具体化していくのです。罪と死とに勝利しておられる主キリストが目に見えるようなかたちでこの世に存在しているのが教会です。
最後に、エフェソの信徒への手紙4章7節以下のみ言葉に目を向けましょう。
12節に「こうして、聖なる者たちは奉仕の業に適した者とされ、キリストの体を造り上げてゆき」とあります。また15節では、【15節】と書かれ、さらに16節には【16節】とあります。
主キリストの体である教会の一員とされているわたしたち一人一人が、みなそれぞれに主キリストの体を形成していくための奉仕に召されているのであり、またその奉仕によって、主キリストの体である教会が成長し、わたしたち一人一人の信仰もまた成長していくのです。
(執り成しの祈り)
○天の父なる神よ、あなたは罪のこの世を顧みて、み子をお遣わしになりました。また、み子を十字架の死に引き渡されるほどに、わたしたち罪びとたちを愛されました。どうか、み子の体なる教会をとおして、あなたの愛と救いの恵みを、この世界とすべての人たちにお与えくださいますように。
主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。